山田宗睦氏死去

 15日の朝刊訃報欄に載っていた。そうか山田宗睦が亡くなったのか。

 去年の4月、神保町の古本屋を覗いていたときに、店先のワゴンでこの本を見つけて購入した。小文をまとめたものだが、その中で安田武鶴見俊輔について書いたものがあり懐かしく思った。そしてちょっと調べたところまだ山田氏が存命だと知った。

 鶴見俊輔安田武、山田宗睦の三人は1962年から1976年まで、毎年8月15日になると、三人で集まって順番に坊主頭になる行事を続けた。友人たちが多く戦士した15年戦争を忘れないためだ。8月15日になると、戦没学生の思いをうけつぐわだつみの会の集会があり、三人もかかさず出席していた。そこで、鶴見、安田が迫ってきて言ったという「坊主になろう、お前もつきあえ」。そして15年戦争だから15年続けること、必ず銀座の理容店に行くこと、コインを投げて裏表とやり、鶴見、安田、山田の順番になったのだとか。

 我々が太平洋戦争と呼ぶことが多いあの戦争を「15年戦争」と呼んだのは鶴見俊輔だ。林房雄らが戦争中と同じように「大東亜戦争」でいいとしていた呼称を、昭和6年満州事変から昭和20年の敗戦までの15年だから、「15年戦争」だと鶴見は提唱した。イデオロギーからも自由で、実際事実であるから、その呼称は多くの学者に受け入れられたという。そんなこともこの本に記されていた。

 

山田宗睦 - Wikipedia

 山田宗睦は京大哲学学科出身で、東大出版会、『思想の科学』編集長などを経て評論家活動に入り、のちに桃山学院大関東学院大で教授を務めた。評論家としては自分の出身である京大哲学のいわゆる京大学派を批判した。また当時の学者、批評家の多くがそうであったように、共産党で活動し後に除名された。たしか構造改革派の一人だった。

 イタリア共産党グラムシルカーチを端緒とする構造改革派は、西欧の共産党社会党に一時期大きな影響力を持っていた。共産党では上田耕一郎不破哲三もその論客だったし、社会党では江田三郎らがその立場から主導権を握ろうとしていた。ただし上田や不破は自己批判し、当時の主流派だった宮本顕治のもとにとどまった。だが多くの構造改革派は除名されたり脱党した。社会党江田三郎も離党して社会市民連合を結成した。

 そうしたなかで多分、山田宗睦も共産党を離れ、以後はいわゆる反代々木系の学者、評論家として活動していたのだと思う。1960年代から1970年代、いわゆる反代々木系マルクス主義的な学者グループというのは大きな勢力をもっていたと思う。長く神奈川県知事を務めた長洲一二も横浜国大の教授であり構造改革派の論客だった。

 

 自分はどのへんから山田宗睦を知ったのだろうか。多分、三一新書の『戦後思想史』、『哲学とはなにか』あたりか。あとは当時読んでいた雑誌に寄稿されていたのではないかと思う。いずれも漠然とした記憶だ。ただ、きわめて明晰かつ博学な論客というイメージだった。『思想の科学』のグループになんとなくシンパシーを感じていたこともあり、どこか親和的なイメージがあった。

 この人のことはある時期にほんの少しだけお話をさせていただいたりしたことがある。それは1978年の横浜市長選挙の時だ。

 1977年、3期を務めた当時の飛鳥田一雄市長が、社会党の委員長に転身するため市長を辞任することになった。長く革新市政が続いていため、市政奪還をもくろんだ自民党は、自治省官僚だった西郷道一氏を担ぎ上げた。そこに公明党民社党新自由クラブ、社市連、さらに社会党までが支持するなどして6党あいのりとなった。

 これに対して市民グループ、学者グループが反発して、「市民の市長を作る会」が結成された。市民と学者グループを中心にそこに共産党と当時文化人を中心に結成されていた革自連がのり、6党に対して市民グループという図式での市長選挙となった。

 そのときの学者グループのリーダー的存在だったのが山田宗睦だった。ただし学者グループは、いざ自分たちが矢面に立つ段になるとやや腰砕けとなり、山田はどうしてもならという条件で、候補者になる意思を示していた。結局は市内で病院を経営する朝倉了が候補となった。

 選挙戦は6党相乗りという圧勝モードの中で推移し、投票率は36%と低迷するなかで、6党が支援した西郷氏が34万表余りで当選。市民グループが推薦した朝倉氏は約27万票と、既成政党が共産党だけという中ではある意味善戦した。

 私というと、当時横浜市民で大学生だったこともあり、この選挙を少しだけ手伝った。当時、社会党左派グループの学生や革自連を応援する学生らと付き合いもあり、そんなことで選挙事務所にもよく顔出していた。ちなみに社会党は上層部は西郷道一を支援に動いていたが、末端の特に左派グループはそれに反旗を翻していた。左派の学生グループ社青同(過激派解放派とは異なる)らの活動家は、市民グループの手足として動いていた。もっとも共産党グループとはなんとなく反目しつつだったか。

 自分はなんとなく一大学生のボランティアみたいな立場で、なんとなく学者グループの小間使いみたいなことをしていた。なので山田宗睦とも何度か話をさせていただいたし、当時の学者グループの中枢にいた尾形昭義、岸本重陳、清水嘉治、伊豆利彦、西尾孝司、宮島泉といった先生にはいろいろお話をさせていただいたり、ときに飲みに連れてもらったりもした。

 また今井清一のような著作だけでしか知らなかった大先生も身近で見たりもした。なんとなく「おお、あの『昭和史』の今井清一だあ」みたいな感じ。まあただのミーハーだっただろうか。

 当時の思い出の一つに、選挙事務所に詰めているときに、ちょうど成田で管制塔占拠事件が起きた。知人の中に成田に行っている者もいた。なにかちょっとした衝撃を思いながら、そこにいた先生たちと「凄いことになっているね」みたいな話をしたことを記憶している。

 その時の候補だった朝倉氏も西郷氏も、そして飛鳥田も、さらには学者グループのメンバーたちもほとんどが鬼籍に入ってしまった。50年近くも前のことなのだから当たりまでだとは思う。しかしあのときの、市民の側から候補者をたてて既成の政党のある種の体制翼賛的な相乗りに対峙する選挙運動というのは、そこそこに高揚感があった。とはいえ負けは負けであり、自分の中では選挙はたいていの場合敗北するものという一種のトラウマとなった。

 6党相乗りによる政治の保守化と革新勢力の退潮、今の政治状況の契機はひょっとして1970年代の後半にあったのかもしれない。ときにそんなことを思うことがある。今、革新という言葉は死滅し、リベラルといえば50年前は保守リベラルとされていたものが、今では左派と喧伝される。その過程ではソ連社会主義陣営の崩壊と、アメリカ中心の資本主義国の一人勝ち状況が続くようになった。

 日本の政治状況も何度かの政界再編の果てに、自民党の中でもタカ派であった清話会が最大勢力となり、その流れの政権がすでに20年近く続いている。市民派や、市民による自発的な政治運動は、すべて時代遅れの左派として唾棄されるものになりつつある。

 閉塞めいた時代が長く続くなか、山田宗睦は99歳で亡くなった。彼はこの20~30年の日本社会の状況をどんな風にみていたのだろう。同時に、1978年に声をあげたあの学者グループの方々はどんな風に分析してきたのだろうか。

 本棚に1冊の懐かしい本を見つけた。山田宗睦が横浜市長選のことをリポートした本である。

『市民選挙の実験=ヨコハマ燃ゆ』 山田宗睦 三一書房 1979年

 今、その本のあとがきの部分を読んでいると、ちょっとした感慨のようなものが浮かんでくる。

 横浜市長選挙にわたしは、ほとんど全力をあげた。戦後さまざまの運動にかかわったが、この<市民選挙運動>ほどに自発性をもってとりくんだことはなかった、と思う。おおげさにいえば、この選挙を六党の「相乗り」から無風のままに決められてしまっては、日本社会の<主権者>の存在理由が否定され、とりかえしのつかない事態をまねく、と考えたのである。一横浜市長に誰がなるかは、むしろ二次的な問題である。——55年体制にピリオドをうつと自称する——「連合時代」の美名のもとに、自民党から社会党までの六党が、市民が政治意志を表明するかすかな、ほとんど唯一の政治的選択<選挙>の権利をすら、よってたかって台なしにするのが、問題であった。これほどに市民の権利をこけにした話しはない。主権者の存在理由をなくすという基底的な危機をはねのけるのに、われわれは<市民自治>というイデーをかかげて闘った。<市民自治>をめざす運動は、今後。数十年にわたって、日本政治史の上に市民的革新の課題として登場しつづけると信じる

 山田宗睦氏のご冥福を祈ります。