原爆の図丸木美術館 (7月4日)

原爆の図丸木美術館 

 車で行くと一番近い美術館は八王子の東京富士美術館ではないかと思っていた。実際、そういうことで行く回数も多い。今もウースター美術館展が開かれているはずで、これは東美で観ているけど、近い時期に行こうと思っている。

 でも、考えてみれば家から一番近い美術館はというと、実は東松山の原爆の丸木美術館ではないかと思う。高速を使わずに下道だけでもおそらく30分かそこらの距離、ある意味同じディープ埼玉の地元である。でもこの美術館に行くとなると、なんとなく躊躇いみたいなものがある。あの作品群が苦手とかそういうのではなく、なんていうのだろう、気軽には行くことができないような、ある種の心構えが必要なところみたいな、そういう敷居の高さがある。なんていうのだろう、軽い気持ちで行ってはいけないところのような気がする。

 この雑記の記録でも2016年と2019年に一度ずつ行っている。もっと行ってもいいはずなんだが、やっぱりそういうことなんだろう。2019年に行ったのは確か、BSで放映された映画『ひろしま』を観て衝撃を受けたからだったかもしれない。

映画『ひろしま』と丸木位里 - トムジィの日常雑記

 原爆の図丸木美術館は東松山市にある。丸木位里丸木俊東松山に移住し、その地に二人で共同制作した《原爆の図》を展示するための美術館として1967年に開館した。

 丸木位里日本画の画家、妻の俊は油絵の画家だ。位里は広島出身で、広島に原爆が投下された3日後に広島に入り、その後妻の俊も駆け付けた。二人は、焼け野原になった広島の街で、全身火傷で死んでいく人々の姿を目撃した。滞在中、俊は焼け跡風景をスケッチしたと伝えられている。広島滞在はひと月ほどで、俊が体調を崩したことから東京に戻った。

 1948年、被爆の影響もあり藤沢で静養することになり、そこで原爆のテーマにした絵を共同制作することを決めたという。俊は「今からでは遅い、だが、今からでも遅くはない」と後に語っている。それから二人は、家族から話を聞き、デッサンを重ねていったという。当時は米軍の占領下で原爆の実態、写真や報道は検閲を受け、一切国民には知らされていなかった。二人の画家は、写真もなく、自らの記憶と家族や生き残った人たちから聞いた話をもとにデッサンや絵の構想を練っていったのだ。

 そして1950年2月、上野の東京都美術館で開かれた第三回アンデパンダン展に最初の《原爆の図》が発表された。当時は占領軍の圧力もあり、「原爆」という言葉は使うことができず、発表当時の題名は《八月六日》だった。その反響は大きく、それから夫妻は続けざまに《原爆の図》を次々に制作発表していく。その制作発表の過程は年譜にすると以下のようになる。

1901年 丸木位里誕生
1915年 赤松俊子(丸木俊)誕生
1941年 位里、俊子結婚する
1945年 8月6日、広島原爆投下、8月9日、長崎原爆投下
1950年 第一部《幽霊》制作日本アンデパンダン展に出品
    第二部《火》、第三部《水》制作・発表
1951年 第四部《虹》、第五部《少年少女》制作・発表
1952年 第六部《原子野》制作
1953年 第一部~第三部世界巡回展
1954年 第七部《竹やぶ》、第八部《救出》制作
1955年 第九部《焼津》、第十部《署名》制作
1956年 第一部~第十部 世界巡回展
1959年 第十一部《母子像》制作
1969年 第十二部《とうろう流し》制作
1971年 第十三部《米軍捕虜の死》制作
1972年 第十四部 《からす》制作
1975年 《南京大虐殺の図》制作
1977年 《アウシュビッツの図》制作
1978年 《原爆の図》フランス巡回
1980年 《水俣の図》制作・発表
1982年 第十五部《長崎》制作
1984年 《沖縄戦の図》制作・発表
1985年 《地獄の図》制作・発表
1995年 丸木位里死去
2000年 丸木俊死去

 《原爆の図》は1950年から1982年にかけて、第一部から十五部までの15作品が制作された。そのうち第十五部《長崎》を除く14作品が、この美術館に常設展示されている。作品は基本夫婦の共同制作で、主に俊が人物を描き、位里が墨を彩色する。後半の作品では俊がほとんどの部分を制作したものもあるという。

 《原爆の図》は当初、芸術家の感性、感受性から広島での被爆の実相、そこからインスパイアされたもの描いた作品群だ。原爆被害の実態を広しめるという記録芸術の域を超え、作品には単なる写実を超えた造形がある。一方で1950年代という進行する冷戦の緊張関係の中で、アメリカの原爆投下という加害を訴える部分は、反核の部分とともに反米という政治性も付加され。しかも社会主義陣営を中心とした世界巡回展は、政治的プロパガンダとして利用された側面もある。

 おそらく60年代のどこかでは、《原爆の図》といえば共産党、共産陣営によるプロパガンダ絵画という印象付けもなされていたのではないかと思う。

 実際、戦後すぐに多くの知識人がそうであったように、丸木位里、俊夫妻も共産党に入党している。しかし一方で60年代、原水爆禁止運動が共産党系と社会党系に分裂した前後、夫妻は反原発についての取り組みについて共産党に意見書を出し除名されてもいる。

 そのうえで夫妻は《原爆の図》と並行して、様々な戦争被害を弱者の側に立って描くようになる。俊はアメリカに巡回した際に、アメリカ人から日本南京虐殺について問われ、それを契機にして《南京虐殺》や《アウシュビッツ》についても描くようになる。さらに日本人によるアメリカ人捕虜の虐殺についても描くなど、一方的な原爆被害、戦争被害だけではなく、戦争は被害、加害の両面があることを意識した戦争画を描いてもいる。

 丸木夫妻の《原爆の図》は、戦後アメリカに接収され、現在は無期限貸与という形で東京国立近代美術館に所蔵されている、戦前の日本人の画家による戦争記録画とは一線を画している。それら戦争記録画にも戦争の悲惨さを描いたものもある。でもほとんどの作品が、日本軍の戦いを称揚するものである。軍から金をもらい戦争という非日常を描くことに画家たちは喜々として取り組んだ。

 藤田の有名な《アッツ島玉砕》は戦争の壮絶さと悲劇性を劇的に描いている。でもどこかで西洋の戦争画に匹敵するような大画面の作品に取り組む画家の高揚感が浮き彫りにされているような気がしてはならない。藤田を含む多くの画家は、軍に強いられて戦争画に取り組んだのではない。おそらく彼らは報酬をもらい、戦争というテーマで大画面の作品に取り組む機会を得たことを喜んでいたのではないか。彼らは基本絵を描くことが好きなのだ。

 そうした点でいえば、どこからの報酬を得ることなく、結果として巡回展の成功により安定した収入を得られたかもしれないが、丸木夫妻が《原爆の図》に取り組んだのは戦争記録画に描いた画家たちとは異なる。いやおよそ対極にあるといっていいかもしれない。原爆被害という悲劇、それがもたらす災禍。そこから戦争の悲劇、そして戦争は常に弱者に対してふりかかる災厄であることを、これでもか、これでもかと描いていった。

 第一部《幽霊》は愛知県立大学で修復が完了して、現在は第二部《火》は修復作業にあるという。一部から十四部まではすべて四曲一双の屏風画として展示されている。日本画の特性として常設展示には馴染まない部分もあり、以前観たときもかなり劣化があるような印象を受けた。とはいえ私設美術館ではその修復費用や保存維持の費用捻出もなかなかに大変なものと推察する。

 そういえば最初に観たときも、展示室には空調があまり効いていず、部屋の片隅には扇風機が回っていた。こうした展示状況で作品保護の点で大丈夫だろうかと思ったのをなんとなく記憶している。

 《原爆の図》は戦後の日本画を代表する作品であると同時に、原爆被害を描いた作品としても後世に伝えるべき第一級の芸術作品だと思う。そういう意味では公費を投じて保存、修復、維持を行っていく必要もあるのではないかと思う。

 戦前の造形美術作品はすでに多数が重要文化財指定されてきてもいる。でも記憶では戦後作品についてはまだ1点も指定がない。《原爆の図》は途中で不幸にも社会主義陣営の反米プロパガンダとして利用された部分があるかもしれない。でもそうした部分を捨象しても、戦争の惨禍を描いた普遍的な美術作品としてきちんと評価されるべきだと思うし、戦後の重要文化財指定作品となる価値は十分過ぎるほどにある思っている。

第一部《幽霊》 紙本墨画 原爆の図丸木美術館蔵

 

原爆の図第三部《水》 紙本墨画 原爆の図丸木美術館蔵

 

原爆の図第四部《虹》 紙本彩色 原爆の図丸木美術館蔵 

 

 原爆の図第五部《少年少女》 紙本墨画 原爆の図丸木美術館蔵

 

 原爆の図第六部《原子野》 紙本彩色 原爆の図丸木美術館蔵

 

原爆の図第八部《救出》 紙本彩色 原爆の図丸木美術館蔵

 

 

 

松下真理子個展「人間動物」

 美術館の1階で昨年夏にパレスチナに滞在した画家松下真理子の個展「人間動物」が開かれていた。7日までの開催ということで、今回この美術館に訪れたのはこの個展を観たかったということもある。

 松下氏は帰国後、イスラエルによるガザへの空爆の直後、イスラエル国防相の「私たちは human animals(人間の姿をした動物)と戦っている」という発言を聞き、自分たちにも敵対者を人間と見なさない意識やジェノサイドに通じる搾取があると考え、作品制作に向かったという。

 カギとなるイメージは赤い「炉」であり、それはアウシュビッツの「ガス室」や福島の「原子炉」のイメージと重なっている。

 この個展について紹介する朝日新聞埼玉版の記事では、松下氏の言葉を引用して個展の紹介記事が掲載されていた。

digital.asahi.com

「炉の中にいるのは、弱い者、性の痛みを持つ人、そして動物たち。どこか予言的に描き始めていましたが、多くの命が奪われている今のガザとも重なっています」

 多くの作品がダンボール支持体にして、絵具を塗りこめたような抽象画だ。2階で丸木夫妻の《原爆の図》を観てから、松下氏の作品を観て思うのは、おそらく戦争の悲劇を具象で描いても《原爆の図》を超えるインパクトは難しいのだろうということだ。

 そして1950年代には単純に原爆の惨禍や戦争被害を単純な図式のなかで描くことができたかもしれない。しかし21世紀の現在、状況は複雑化し、加害、被害も入り組んでいる。丸木夫妻が原爆の被害者としての日本人を描くことから、一方で戦争の加害者でもある部分にぶち当たり、それをも作品化することになったように、今では被害、加害の裏面性も当たり前のようになっている。

 ガザに一方的な攻撃を加えるイスラエルも、その攻撃の口実をハマスによるテロからの防衛とする。ロシアによるウクライナへの侵攻を非難する欧米諸国は、一方的にガザへの空爆を続けるイスラエル支持する。そしてパレスチナアラブ諸国に対してロシアは支援を口にする。国際関係の複雑な入り組みの中で、ガザの市民は日々戦火に追われている。

 そうした複雑な状況を現代の芸術家はどう表現するのか。例えばゲルハルト・リヒターは、アウシュビッツの惨劇を表すのに抽象表現をとった。そして松下真理子氏もまた抽象度の高い原色を塗りこめる形で現代のジェノサイドを表出した。