銀座周遊 

 久々、都内を周遊する。

 八重洲口からアーティゾン美術館へ。その後、京橋から銀座方面に歩く。

 こうやって都内のメインストリートを歩くのは何年ぶりのことだろうか。

 まず東京駅の丸の内地下から出発して地下通路を通って八重洲口に。外に上がると、このあたりは来るたびに景色が変わっている。なかったはずのところに高いタワービルが林立する。以前、来たときは建設中だったミッドタウン八重洲がそびえ立っている。かっては東京駅をはさむようにして立っているツインタワーがランドマークのようだったけど、今はそれもあまり目立たなくなっている。

 アーティゾンの入るビルの隣は建設中で、以前はアーティゾンからその建物の解体状況を見ることができたけど、今はもうだいぶビルの形になっている。都市は常に普請中であり成長を続けている。

 

 京橋の周辺が様変わりしたのはいつ頃からだっただろう。一緒に行った友人が、「ここらに映画館あったよね」と話してくる。そう、京橋といえばテアトル東京があったはずだ。スーパーシネラマ方式、1000人が入れる大劇場。その地下にはテアトル銀座という小ぶりの名画座もあった。

 その大画面で「風と共に去りぬ」、「2001年宇宙の旅」、「天国の門」などを観た記憶がある。一番最初に来たのは多分小学生の頃。その時テアトル東京で「風と共に去りぬ」、テアトル銀座で「2001年宇宙の旅」がかかっていた。自分は「2001年」が観たかったが、連れて行ってくれた父親は「風と共に去りぬ」を選んだ。

「『風と共に去りぬ』は観ておくべき映画だ。今は判らないかもしれないが、いつか判るよ」と父は言った。

 結果として、自分が映画ファンになったのは、その時「風と共に去りぬ」を観たことが大きかったかもしれないし、小学生の自分には「2001年宇宙の旅」は理解出来なかったかもしれない。

 懐かしい昭和の記憶である。

 

 京橋から銀座へと歩く。両側のビル、店、看板、それらには馴染みのものもあれば、そうでないものもある。ポーラ、山野楽器、明治屋教文館などなど。

 

 そしてウィークデイなのに歩道を歩く人の多いこと、多いこと。モデルのようにスタイルのよい若い女性。小ぎれいな夫婦や子連れ、そして中高年の二人連れなどなど。どうも日本人ではないけれど、東洋風。そうかテレビで盛んに喧伝する春節の休みに来日した中国系の観光客か。

 よく見てみると、みんな一つや二つ高価なブランドメーカーの紙袋を下げている。そしてブランドの店舗の前に。驚いたのはルイ・ヴィトンの前では入場規制がかかっていて、列が店舗前から長く伸びている。中国富裕層による爆買いというやつか。

 彼らは円安の日本でブランド品を数十万から数百万円購入する。テレビで盛んに観光客が訪れる観光地や高級レストラン、あるいは高級ブランド店などの様子が紹介される。観光立国日本は「凄い日本」なのだそうだ。でもそれは円安政策によって作られ、さらに21世紀前後の不況からまったく脱することなく、所得が低迷する国が安く買い叩かれていることの証でもある。「凄い国日本」は「凄く安い国、日本」なのだ。

 今は日本を訪れる中国人たちは中産階級以上、いわゆる富裕層なのかもしれない。集団での旅行は解禁されたのかどうか。かってのように銀座の通り沿いに何台も止まるバスから繰り出す、スーツケースをひきずった東洋系の観光客集団ではない。みんな個々に歩いている。でも訪れる先には高級ブランド店ばかりだ。

 見ているとティファニーバレンチノにも列は出来ていないし、入場規制はない。やはりルイ・ヴィトンは別格のようだ。

 富裕層が闊歩する間を浮遊する二人組の我々。一人は有給をとった現役、そしてもう一人は年金暮らし。浮遊層たる高齢者たち。

 

 友人と遅い昼食をとることにする。もともと友人は銀座アスターの本店に行きたがっていたのだが、なぜか水曜日はお休みでした。門のところの名称を見てみると漢字の表記がある。「銀座亞壽多本店」とある。「アスター」は「亞壽多」なのだ。長生きはするものだ。初めて知った。

 

 友人が買い物があるというので三越に入ることにする。ここもウィークデイなのにけっこうな人出だ。外国人の比率はどのくらいなのだろう。判らない。

 友人が「あれ、ジュディ・オングだよ」と言う。視線の先には高そうなダウンのコートを着た小柄な婦人がいる。自分は後ろ姿しか見ていないのだが、友人に言わせると間違いないとのこと。まあ銀座の三越ともなれば、かってのスターが普通に買い物しているのも日常というものかもしれない。

 個人的にはジュディ・オングにはあの「魅せられて」のドレス風で両腕をひらひらさせて歩いて欲しいものだと思ったりもするが、そんな訳ないだろうと言われればその通りだ。

 

 三越でライオンを見たからということもなく、なんとなく流れでビヤホールライオンに行ってみることにした。なぜか知らないが、自分は銀座に来るとライオンに行きたくなる。多分、子どもの頃に父親に連れられて銀座に来るとたいていライオンに来ていたせいではないかと思うの。

 改めてライオンの中に入ると、由緒正しいビヤホールの作り。天井が高く、少々賑やかしがあっても、この天井の高さは騒音を吸収してくれるような、そんなイメージがある。

 ライオン七丁目店が作られたのは1934年、昭和9年のことだ。大日本麦酒株式会社の本社が竣工され、その1階に開店した。90年前のことだ。その前年1933年は確か昭和天皇(現上皇)が生まれた年だったか。たしか永六輔が同じ年の生まれで、ラジオで昭和天皇の声色をしていたのを何かで聞いた記憶がある。まあどうでもいい話だ。そうか上皇と生きていれば永六輔は91になるのかと、ますます昭和が遠くなっていくのを感じたりもする。

 

 ウィークデイの午後遅くの銀座のビヤホール。席はけっこううまっている。圧倒的に年配客が多い。外国人の年配夫婦連れ。一人で遅めのランチを食べている40代前後のイケてる女性。老婦人が一人で奥の方の席にいて、ランチビアと軽食。昔的にいえば山の手の婦人風か。

 自分と友人が座っている席の前に6~7人の男性客が座って来た。久々にあった風の高齢男性。これは賑やかなことになるのかなと思ったのだが、声高になることもなく楽しそうに話しをしている。品の良い老人たち。といっても多分、自分たちとさほど年齢は変わらないかもしれない。友人曰く、良い大学を出て、良い上場企業を勤め上げた、品の良い老人たちの集まりだと。

 昼下がりの銀座ライオンには品の良い中高年の客で賑わっている。そんな中であまり品性のよろしくない我々はその日に観た絵のことなどを語り合っていた。