1月二回目の美術館巡りは東京富士美術館(以下富士美)。
ここを訪れたのは9月の末以来なので三か月ぶり。何度か書いているけど、家から30分くらいで行けるたぶん自宅から一番近くにある美術館。もちろん圏央道という高速道路を使っていくので一本で行ける。電車だとここはかなりアクセスがしんどい。JR八王子駅まで出てそこからバスみたいなことになるのか。美術館の周囲はほぼ創価大学のキャンパスなのだが、創価大学の学生の通学はけっこう大変だろうなと思ったりもする。
ホーム | 東京富士美術館(Tokyo Fuji Art Museum, FAM) (閲覧:2024年1月14日)
現在の富士美は常設展示「西洋絵画 ルネサンスから20世紀まで」。他にミニ企画として「写真で巡る世界遺産の旅」、「特集展示「シルクロードと日本」~池田大作先生と平山郁夫先生が紡いだ文化交流の足跡~」など。
いつも企画展を行っている展示室はシャッターが閉まり閉鎖されている。常設展のみのため入館料も800円になっている。
昨年11月に創立者池田大作氏が亡くなっているので一大コレクション展でもやっているか、その準備でもしているのかと思ったのだが、そういうのはなく今のところ予定もないみたい。創価学会、池田大作氏に対してはいろいろと評価も別れるだろうけれど、東京富士美術館の膨大で価値あるコレクションが、池田大作氏の意思により築かれていったことを考えれば、その功績をコレクションとともにトレースしていくというのは、けっして英雄賛美とかではなく、あってもいいのではないかと思ったりもする。
東京富士美術館とそのコレクション、そして周囲の整備された創価大学のキャンパス。さらに周辺の創価学会の施設、それらはある種の宗教的情熱によって築かれたものだろう。それはヨーロッパの世界遺産に指定されるような宗教施設ー大聖堂、あるいはアフリカやアジア、南米などの巨大な寺院などにも多分通じているのかもしれない。そんなことを、館内から見える創価学会の宗教施設東京牧口記念会館の異形な外観を見ながら思ったりもした。もうこれはギリシャの宮殿じゃないかみたいな独り言も。
常設展-西洋絵画 ルネサンスから20世紀まで
ウィークデイということもあり、展示室はガラーンとしている。まあ自分らだけということではないけど、だいたい1室に一人二人いるかいないかみたいな感じである。コレクションの質や量からすれば、もっと来場者あってもいいと思う。創価大学以外にも近隣にはいくつも大学あるので、もっと学生さん来てくれてもいいとも。
都内の有名な美術館でこの規模のコレクション展を行えば、それも新聞社やテレビ局が後援して広告代理店の宣伝が入ったりすれば、けっこう行列できるだろうなと思ったりもする。そのくらい充実した内容でもある。
2017年に一度「とことんみせます!富士美の西洋絵画展」ということで、コレクションの中から一挙275点を展示してくれたことがあった。ああいうのをもう一度観てみたいと思うのだが、あれをやる労力はたいへんなものがあるとは思う。今年あたり、それこそ前述したように創立者「池田大作先生」の功績を偲んでみたいな形でもいいので、やってくれたらと思ったりもする。
展示作品は69点で前回(9/27)と展示はまったく変わっていない。そして興味がいくのもだいたい同じ絵が多い。今回はというとちょっと細部をクローズアップしてみた。
ドレーパリー
ドレーパリーあるいはドレイパリー。日本語的には衣文、衣襞と解される。
彫像や人物画における着衣のひだやしわの表現のこと。時代や作者によって表現は異なり、衣の下に隠された人体の動き、立体感を示すものとして、画家、彫刻家が表現を追求した。『西洋の芸術史造形篇Ⅰ 古代からルネサンスまで』(藝術学舎)
衣の襞のこと。「衣襞」「衣褶」などと訳す。古代ギリシア以来、西洋美術は衣の表現を好み、特に水に濡れて裸体に張り付いた衣、麻・綿・絹などの素材により襞の違いなどの表現は彫刻家、画家の情熱の対象であった。ドレイパリーのパターンが時代様式を表す場合も少なくない。『岩波西洋美術用語辞典』(岩波書店
ニケのを覆う衣、ビーナスの腰にまいてある布、その襞がまさにドレイパリー。模造品が一緒に並んでいるのはご愛敬(三重・ルーブル彫刻美術館)。
このドレイパリー、西洋美術だけでなく東洋美術にもある。仏像などにもまあ普通に表現されている。例えば興福寺の《無著・世親菩薩立像》(運慶作)なんかでも袈裟の衣文がはっきり描かれている。
この衣文、西洋用語辞典ではないが画家の情熱にちょっとだけ着目してみた。
《ヘッドフォード伯爵夫人アン・カーの肖像》
《ジョフラン夫人》
《ユスーボフ公爵夫人》
ヴァン・ダイクはバロック期の肖像画家。ナティエとルブランはロココ。時代的な隔たりはあるが表現的にはさほどの違いはないか。しいていえばヴァン・ダイクは陰影表現が強く写実的、ナティエは写実性よりもどこか軽やかなな感じ。ルブランはドレイパリーについてだけいえば写実的な感じもする。
ドレイパリーの表現は線描だけでなく、絵の具の濃淡による陰影によって立体感を視覚的に生じさせる表現のような感じがする。それは西洋絵画が追求してきた遠近法などと同じで、3次元の空間を対象をいかに2次元の中に表出させるかということに尽きるのかもしれない。なにかの本で遠近法は2次元の絵画の中に3次元を描くイリュージョンみたいなことが書いてあったような気がする。同じようにドレイパリーも一種のイリュージョンなのかもしれない。
と、ここまで考えてきて、そういえば日本画の中ではドレイパリーの表現あまりみないなと思ったりもした。日本画は基本線描の世界で、立体感を出すことにあまり積極的意味を見出していない。遠近法も部分的に用いるが、明確な消失点をもたなかったりもするし、表現的には墨や顔料の濃淡による空気遠近法が主流のような感じか。美人画などの着物の襞もどちらかといえば、やや太めの線描で描くことが多かったりもする。
日本画でも例えば浮世絵風景画は、遠近法を積極的に取り入れていて、ある種のイリュージョン効果を狙っているところがある。でも肖像画、美人画などはどちらかといえば平面的、2次元的で、ドレイパリーに対する描き手の情熱は薄いような感じだろうか。
まあこのへんは全部、適当な思いつきなので、的を外した物言いかもしれない。
様々なクローズアップ
《煙草を吸う男》
若い男が、燃え木に息を吹きかけ火をおこし、パイプに火をつけようとしている。燃え木の火によって照らされる男の横顔、上半身、左手。それに対してもえ木の下部やそれを持つ右手は影となっている。さらに男の後頭部や背中は深い闇に溶け込んでいる。
光と影による劇的な対比、バロック期の独特の表現でもある。夜の画家と称されるラ・トゥールは長く歴史の舞台から消えていて、20世紀初頭に再発見された画家である。この作品も1973年に個人宅で発見され、父ジョルジュ・ラ・トゥールと息子エチエンヌの合作とされる作品だ。
この風景画は中央に配置される人物たち、これはギリシア神話「アモルとプシュケ」の一場面だ。恋人アモルに見放され。もの思いに沈んでいるプシュケを農夫たちが慰めようとしている場面。
風景画は16世紀にじょじょに表れてきたものだが、基本的には宗教的な主題や神話的主題の背景として描かれたもので、それは実際には存在しない理想的な風景=世界風景だったといわれている。その後、そうした主題はじょじょに後退して風景描写の割合が高まるようになる。
クロード・ロランは自然の光と大気の表現に腐心し、この絵でも牧歌的な風景を現出させている。そして本来の主題たる「アモルとプシュケ」は風景の中に溶け込んでいて、そこに特段の意味を持たせてはいないようでもある。
《釣り人のいる川の風景》
《宿の前での休息》
《ローマ、クィリナーレ宮殿の広場》
カナレットのヴェドゥータ(景観画)は楽しい。細部の描写を観ていると飽きない。この絵でも犬同士のお見合いのような描写。二匹の犬はとても吠えあっているようには見えない。
そして右の母子の様子からはなんとなく二人の会話が聞こえてきそうな気もする。母親は子どもを急かせている。「早く歩きなさい」という声がする。子どもちょっとぐずりかけているような。
4人の美女
《漁師の娘》
白いすべすべした手、腕、首から胸のあたり。とてもこれは漁師の娘には見えない。本来の漁師ならもっと浅黒く、日に焼けてもいるだろう。この娘は画家のアトリエで漁師の衣装を着せられたモデルだろうか。
《散歩》
《若い女》
《ヴァイオリンのあるマルト・ルバスクの肖像、サントロペにて》