栃木県立美術館~コレクション展 (12月15日)

 栃木県立美術館の常設展はコレクション展として4月から9月まで実施していた「もう一度見たい!県美コレクション総選挙」の投票結果によるもので、県美コレクションの名品が揃っていた。同時に投票時に寄せられたコメントがそのまま展示されていた。

 もっともたいていの作品は、だいたい常設展示されているのでお馴染みのものばかりといってしまえばそれまで。とはいえ栃木という地にあって、これだけの名品を揃えるのは、関係者の尽力や理解があってこそ。美術品の購入となるとすぐに価格面がとりざたされ、悪しき価値論や費用対効果みたいな話が横行する。美術館の運営、美術行政はさまざまな世事の常識や文化への無理解に晒されている。

サン=タドレスの海岸

《サン=タドレスの海岸》 クロード・モネ 1864年 30.6✕69.5

 モネ24歳のときの作品。モネは、18歳の頃にブーダンと知り合い戸外制作を始め、22歳の頃オランダの風景画家ヨンキントに出会い影響を受けた。この時期のモネは風景画家として習作を続けていた時期。のちにターナーを研究し、1874年の印象派第1回展に《印象日の出》を出品する。そうしたモネの歴史をトレースすると、印象派モネ誕生の10年前にすでにその萌芽があるようにも感じられる。

《風景、タンバリンをもつ女》

《風景、タンバリンをもつ女》 ウィリアム・ターナー 1840-50年頃 88.5✕118

 ジョゼフ・メイロード・ウィリアム・ターナー(イギリスの人名はやたらと長い)、イギリス、ロマン主義の風景画家である。光を効果的に捉え、その中に溶け込むような風景を描いた最初の一人かもしれない。筆触分割といった手法はもちろんないが、外光的に光に移ろう風景を捉えたという点、印象派の画家に大きな影響を与えたのではないかと思う。モネもターナーを研究したと伝えられている。

 ターナーはイタリアへの憧憬が深く、1819年、44歳の時に初めてイタリア旅行をしている。その時の記憶をもとにした作品なのかもしれない。

 郊外で女性がタンバリンを叩きながら踊るという主題にはなにか由来的なものがあるのかどうか。そう思うのは、例えばコローの作品にも確か女性がタンバリンを持って踊る姿を描いた作品があったか。西洋美術館所蔵《ナポリの浜の思い出》だっただろうか。この作品を観て、タイトルを見たときにまっさきに思い出したのはそのこと。コローもまたイタリアへの憧れが強く、生涯に三度イタリア旅行をしている。

《テダムの谷》

《テダムの谷》 ジョン・コンスタンブル 1805-17年頃 52.8✕44.8

 ターナーとともに19世紀イギリス風景画を代表する画家。歴史的には、18世紀まで風景画はオランダで発達するが、宗教画や歴史画よりも低くみられ、風俗画と同じように低い範疇にあったという。ざっくりいえば絵葉書的な価値みたいなものだったのだろうか。

 より美術史的にいえば、風景画は宗教画の中にじょじょにある種の背景として描かれてきたが、主題的な価値はないものだった。ひらたくいえば刺身のつまみたいなもの。さらにいえばその風景は実際の土地を写実的に描いたものというより、画家の想像力による理想的な景色でもあった。

 この絵に描かれる風景は、コンスタンブルの故郷の風景である。なんの変哲もない風景画の中に、神話や宗教、物語の背景としてではなく自然そのものが描かれているところが当時的には新機軸でもあったという。風景画が独立したジャンルとして確立され始める時期の作品といえるのかどうか。

 しかし遠景の村の表現にはどことなく、かっての宗教画の背景にあるような理想的風景ー「世界風景」のような雰囲気もあり、コンスタンブルが過去の名画の背景にある風景の表現を学んだ痕跡も感じられる。

パリ夜街

《パリ夜街》 清水登之 1926年 88.9✕116.2

 栃木県出身のご当地の画家である。若くしてアメリカに渡米し、そこから画業をスタートさせている点、ほぼ同時期に同じくアメリカに渡米して画家となった田中保と同じようなキャリアを持っている。実際、田中と清水は1歳違いであり、オランダ人画家フォッコ・タダマが開いていた画塾に同時期に入塾して学んでいる。その後、清水はニューヨークに移り、いったん帰国したのちに田中を追うようにしてフランス、パリに移住している。シアトル時代は二人は異国の地での同胞として仲が良かったようだ。

 しかし、パリ時代、清水はパリで画家として活躍していた藤田嗣治や同じく画業を学んでいた三宅克己、海老原喜之助らと交流していたが、田中保は日本人グループとはほとんど疎遠のままでいた。

 二人の経歴を併置してみるとそこには大きな違いが明確になっている。清水は渡米後も結婚のために一時帰国しているし、最終的にはフランスから戻り日本で画家としての生計をたてる。一方の田中は一家離散して単身渡米した以来一度も故郷に帰ることなくパリで客死する。いくつかの文献によれば、田中も日本に帰国し、そこで画業を確立しようと試みたが、フランスから出品した作品も帝展に落選するなどしてその道も閉ざされていたという。

 清水登之や当時パリにいた日本人画家あるいはその卵たちには、帰るべき日本が、帰るべき故郷があったが田中にはそれがなかったということなのかもしれない。

  田中保 清水登之
1886 埼玉県岩槻町に生まれる  
1887   栃木県国府村に生まれる
1902 父の死で一家破産し離散  
1904 単身渡米、シアトルに暮らす  
1906   陸軍士官学校への受験に失敗
1907   単身渡米、シアトルに暮らす
1912 フォッコ・タダマの画塾に入学 フォッコ・タダマの画塾に入学
1917 アメリカ人ルイーズ・カンと結婚 ニューヨークに渡り、画塾に入学
1919   結婚のため一時帰国
1920 フランスに移住 再渡米
1924 東久迩宮、朝香宮、作品購入 フランス、パリに移住、藤田嗣治らと交流
1927 サロン・ドートンヌ会員 帰国、東京を拠点に活動
1929 サロン・デ・ナショナル会員  
1930   二科展で二科賞受賞
1932   従軍画家として戦争画を描く
1939 パリで病没 陸軍美術協会に参加
1945   栃木県の生家に疎開、12月に死去

 清水登之の画風の部分でいえば、やはり同時期に渡米してアメリカで画業を続けた国吉康雄に近い部分があるような気もする。なんとなく表現主義的な雰囲気が感じられる。これは清水がニューヨークに移りアート・スチューデンツ・リーグで学んでいたこと、ほぼ同じ頃に吉原も同じアート・スチューデンツ・リーグにいたことなどが影響しているかもしれない。当時のニューヨークにはヨーロッパでの芸術動向が流入していたはずで、新潮流に触れる機会があったのでは。

 田中保もシアトルでの画業を始めた頃、習作としてキュビスムフォーヴィスム的な作品も残している。西海岸という芸術において辺境の地であったが、後に妻となる美術批評家ルイーズ・カンからの影響もあったかもしれない。しかしその後の画風からすれば新潮流の受容は限定的だったようだ。

 清水の作品を観るとき、どうしても同時期に渡米して画業を出発させた田中保、国吉康雄のことを考えざるを得ない。アメリカでの異邦人としての画家、パリの異邦人としての画家、清水のこの《パリ夜街》にもどこかもの淋し気な雰囲気が感じられる。

モーターサイクル・ママ

《モーターサイクル・ママ》 篠原有司男 1973年

 栃木県立美術館といえばこの作品が浮かんでくる。それほど印象が強い。素材はカーボード、ポリエステル樹脂など。カーボードはひらたくいえば段ボール。なんというか塊感、雑多なエネルギーのようなものが感じられてくる。

 篠原有司男は現代美術作家で、1969年以降ニューヨークを活動拠点としている。ボクシング・グローブに絵具をつけ、支持体を殴りつけて抽象画を描くボクシング・ペインティングで知られる。

 抽象表現主義のキーワードとして、描く行為自体が作品に含まれる「アクション・ペインティング」がある。床に置かれた巨大なキャンバスの上を歩きながら、絵具を流し込んだり、散らしたりするジャクソン・ポロックの姿をとらえた映像から生まれた言葉でもある。それ以降、多くの野心的な作家が様々なアクション、パフォーマンスを行いながら作品を描いている。

 篠原のボクシング・ペインティングもその範疇にあるのだろう。そうした奇抜なパフォーマンスでは、天井から中吊りになったまま、足に絵具を塗りをそれを床に置かれたキャンバスに引き延ばしたりして描く白髪一雄がいる。篠原のそれが行為=パフォーマンスにふっているのに比べれば、白髪のそれは作品創造に振っているのかもしれない。

 白髪一雄の作品《高尾》が2018年にオークションで1034万ドルで落札されたという。当時のレートは110円くらいだったので11億3千万くらいになるのだろうか。パフォーマンス主体の篠原のボクシング・アート作品にはそれほどの価格がつくとは思えないが、偶然性に左右されるような作品でも高額で取引されることには諸々思うこともある。

 

 栃木県立美術館、近隣の公立美術館としてはなかなか面白い企画展が開催され、常設展示でも西洋画、日本画現代アートなど多岐にわたる作品を観ることができる。個人的にはかなり気に入っていて、群馬県立近代美術館とともに年に数回訪れるところだ。とはいえ、往復で220~230キロあり気軽にふらっと行くにはなかなかハードルが高い。年齢のせいかロングドライブが以前に比べると少々しんどくなってきている。あとどのくらいこうやって県外の美術館に出かけられるか、これもまたいろいろと微妙に思うことがある。まあ元気なうちは年に数回訪れたい美術館だ。