伊藤小坡美術館 (12月9日)

伊藤小坡美術館 | 猿田彦神社(三重県伊勢市)  (閲覧:2023年12月17日)

 ここを訪れるのは三度目。というかここ三年、伊勢志摩に行くたびに訪れている。こじんまりとした小さな美術館。世間的には土曜日で、伊勢神宮外宮周辺は駐車場待ちの車が列を連ねている。駐車場からおはらい通りを内宮に向かう参拝客も多い。そういう世間の喧騒とはまったく無縁。美術館の前の駐車場には車が一台もなく、館内も我々以外誰もいない。土曜日でも午前中はずっとこんな感じだろうか。

 伊藤小坡は明治、大正、昭和と活躍した女流画家。もともと伊勢神宮近くの猿田彦神社宮司の長女として生まれた。そういうことで猿田彦神社近くのこの場所に小さな美術館があるのだろう。

 1877年(明治10)生まれで、幼少の頃より古典文学、茶の湯柔術を習い、1895年に京都四条派の流れをくむ磯部百鱗に絵の手ほどきを受け歴史人物を好んで描いた。

 1898年(明治31)、画家になることを決意し京都に出て森川曽文に師事し、同時に美術史家や漢学者らから漢学、国語、美術史、漢字を学んでいる。1900年(明治33)からは谷口香嶠に師事し、1907年(明治40)の京都新古美術展に出品して四等賞を受賞して画家としての基盤を確立する。

 1905年(明治38)に同門の伊藤鷺城と結婚し、1906年から1914年までに三女をもうけ、家事や子育てに勤しみながら画業を続け、1915年(大正4)に第9回文展に出品した《制作の前》が初入選三等賞を受賞して、上村松園に続く女流画家として脚光を浴びた。

 以後、日常風俗を描写したものから歴史を題材にしたやまと絵まで幅広いジャンルで活躍。1928年(昭和3)に51歳で竹内栖鳳の竹杖会に入会し、歴史画の大作を次々と発表。画業と家庭生活を両立させ1968年(昭和43)、90歳と長寿を全うした。

 上村松園よりは2歳下、松園が竹内栖鳳門下となったのは20歳の時で、一方小坡は51歳。20代から活躍した松園に対して、家事育児のため家庭に入っていたとはいえ、小坡はかなり遅咲きかもしれない。以前、二人を比較して一子をもうけたけれど家事育児を母親にまかせて画業を突き進んだ松園と、家事育児と画業を両立させた小坡、どちらも女流画家として茨の道を歩んだのだろうと思ったりもした。

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 女流画家というともう上村松園の一人勝ちみたいな感じもする。帝国芸術院会員、帝室技芸員文化勲章受章と評価はまさに一人勝ちだ。でもどこかその生き方、性格の凛とした部分とかも加味された評価のような気もしないでもない。戦後の評価は宮尾登美子の小説によるところも大きいかも。

 しかし画力や作品の質という点でいえば、伊藤小坡もけっして劣っていないような気もする。作品のジャンルという点でいえば小坡が歴史画なども描いていて、かなり幅広さがあるのに対して、松園はどこか偏狭というか、まあパターンが決まっているような気もしないでもない。

 近代日本の女流画家ということでいえば、伊藤小坡だけでなく、野口小蘋、奥原晴湖などももっととりあげるべきかなどと思ったりもする。

 

《秋草と宮仕へせる女達》 1928年(昭和3)

 竹内栖鳳の竹杖会入会を機に日常的な題材から、王朝物語などをモチーフにした作品を発表するようになる。この作品も『源氏物語』に想を得たもので、中央に秋好中宮を描き、その周囲に同じ『源氏物語』に登場する7人の女性を描いている。いずれもやまと絵的なひき目かぎ鼻ながら、きちんと表情というかキャラクターの表情が差異化されている。十二単の着物の柄なども美しい。

 

《秋好中宮(あきこのむちゅうぐう)図》 1929年(昭和4)

秋好中宮は、『源氏物語』に登場する人物で、光源氏の従妹に当たり、前斎宮であり、冷泉帝の女御であったことから斎宮女御とも呼ばれる。秋好中宮という呼称は、『源氏物語』には現れず、後世の読者が与えた名で、源治が彼女に近づいて「あなたは春と秋のどちらがお好きか」と尋ねた際、「母御息所(みやすどころ)の亡くなった秋に惹かれる」と応じたことに由来する。 「主要解説」ー伊藤小坡美術館より

 

《伊賀のつぼね》 1930年(昭和5)

 この美術館の目玉というか代表作にして、伊藤小坡の代表作でもある傑作。

伊賀のつぼね(伊賀局)は、南北朝時代南朝の武将篠塚伊賀守重宏の娘で、御第五天皇の寵姫阿野簾子(あのれんし)に仕えた。正平3年(1348)に北朝の武将高師直南朝の拠点賀名生(あのう)の宮を襲撃した際、吉野川の橋が落ちていたので、簾子を逃すために、松桜などの大枝を折り川にかけて簾子を救ったという武勇伝が伝わる。

この画は、伊賀局の豪胆さにまつわるもう一つの逸話を題材にしている。正平2年(1347)、簾子の御所の西の山に亡霊が出るといううわさが立ち、ある夜、気丈夫な局がそれを確かめようと、亡霊が出るとうわさされていた庭で納涼をしていると、松の梢に鬼の姿をした何者かが現れたので一喝したところ、「院(簾子)」のために命を失った藤原基任の霊である」と応えて姿を消した。それを聞いた簾子が、吉永院宗信法印に命じてくようすると亡霊は現れなくなった。

亡霊を敢えて描かず、一見美しい庭に吹く生暖かい風にたち騒ぐ笹や薄、ぬらりと揺らめく局の髪にただならぬ妖気を潜ませる着想がすばらしい。鮮やかな彩色と確かな運筆は、京都の四条派に学んだ小坡の卓抜な技量の到達点を示す。

「主要解説」-伊藤小坡美術館 より