上野の森美術館のモネを観た後、時間が少しだけあったので西洋美術館にも寄ってみた。時間は4時くらいだったので正味1時間半の勝負。まあ何度も来ているところなので1時間ちょっとでも楽しめるし、なんとなく時間配分も自然とできる。
モネ補遺
西洋美術館のモネのコレクションは国内有数の規模だ。上野の森のモネ展にも《波立つプールヴィルの海》が貸し出されているみたいだが、主要作品はほぼすべて観ることができる。上野のモネは西洋美術館で完結するみたいな感じだろうか。
《雪のアルジャントゥイユ》
上野の森の方では《アルジャントゥイユの雪》(ジュネーヴ美術史美術館)が出品されている。英語のタイトルは《The snow at Argentuil》。でもって西洋美術館のこの作品の方は《Snow in Argentuil》。微妙だ。
いずれも1875年の作品。モネは35歳でこの時期、妻カミーユと生まれたばかりのジャンを連れてアルジャントゥイユに暮らし始めた。生活は困窮しマネの援助を受けている。1876年、エルネスト・オシュデと知り合いモネの作品を多く買い上げてもらうなど、援助を受けているが、その翌年オシュデが破産し、モネの経済状態も悪化する。その翌年の1878年、病弱なカミーユは3月に次男ミシェルを出産するも健康状態は悪化し、9月に32歳で亡くなる。
この時期、アルジャントゥイユで過ごしたモネの生活は困窮状態にある。そんな中で制作された作品の1点。モネは雪景色を多数描いている。オルセーの《かささぎ》なども有名。印象派の画家では、シスレーやピサロも雪景色を題材にした作品もあるが、やはりモネの表現は抜きんでているような気がする。
《舟遊び》
多分、西洋美術館のモネの中ではこの作品が一番好きかもしれない。そしておそらく《睡蓮》とともに西洋美術館のモネ作品の目玉的なものかもしれない。たまに長期で見かけないときは海外に貸し出されることもある。以前、「《舟遊び》しばらく見ませんね」と監視員に聞いたとき、「今は海外に旅してます。帰ってくるのは半年くらい先です」みたいな答えが返ってきたことがあった。
舟上のモデルはアリス・オシュデの娘のブランシュとシュザンヌ。モネとオシュデの家族はエルネストが破産した後一緒に住んでいて、アリスは病床にあるモネの妻カミーユの面倒をみている。カミーユが死んだあとも、アリスとその子どもたちはモネと同居を続けている。カミーユが亡くなったのは1879年なので、この《舟遊び》は8年も後の作品だ。
その後、アリスの夫でかってのモネの支援者だったエルネスト・オシュデは1891年に亡くなり、翌1892年7月にモネとアリスは正式に結婚する。支援者の妻との同居が始まったのは1878年8月なので14年の歳月を経ている。こういうのも道ならぬ恋みたいなことになるのだろうか。
《睡蓮》
モネは1908年頃から視力が低下していき、1913年に白内障と診断され後に2度手術を受けている。自分も片方だけだけど去年白内障の手術を受けたけど、たしかに両目ともにこの病気だと視力は相当に低下して、周囲はぼやけていく。晩年のモネの絵は抽象的ともいわれるが、これは多分病気の影響が大なのではないかと思っている。モネと白内障について言及したブログもググるとけっこう目にすることもある。
眼科の豆知識~画家モネと白内障~ | 金沢文庫アイクリニック
(閲覧:2023年12月20日)
第95話:白内障の話 その2 モネと白内障: ひらめきの散歩道
(閲覧:2023年12月20日)
モネの目の状態の悪化は、まちがいなく絵の表現にも影響している。晩年の《睡蓮》や《薔薇の小径》などの連作はほとんど抽象画と化しているものがある。そして20世紀の新進気鋭の画家たちによってモネの晩年の作品は再評価され、抽象画の嚆矢とされていたりする。抽象画と眼病、多分そういう論文がけっこうあるのではないかと思ったりもする。
本作は西洋画のコレクションを開始した松方幸次郎がモネのアトリエを直接訪ねて、画家本人から購入したということは有名だ。
その他の常設展示
今回の常設展示では1点も撮影していない。というか最近は西洋美術館の常設展示ではもう撮影することはほとんどない。基本ミーハーなので、撮影可だとけっこう写真は撮る。試しに西洋美術館の作品画像どのくらいあるか、適当に写真保存してあるフォルダーを見てみた。西洋美術館に最初に行ったのは、割と遅咲きで2015年頃から。というか美術館を回るようになったのも多分その前後から。
それでまあ全部ではないと思うけど、適当に抜き出してみるとあっという間に200点くらいの画像が出てきた。もちろんかなりの重複はあるにしろ、けっこうミーハーそのもので撮っているみたいだ。その中のいくつかをアップする。
《悲しみの聖母》
ピックアップした画像で一番多かったのが実はこれ。西洋美術館でこれが一番好きということでもないのだけど、なんていうか来るたびに撮っている。ときには顔のアップ、指のアップ、青いマントのドレイパリーのアップなんかも。ショップで額絵も買ったりもしているので、多分に相当好きだということだ。
ジャンルというか時代的にはバロック様式に入るのだろうか。ドルチはこの絵と似通った聖母像を多数制作している。たしか《親指のマリア》とかだったか。江戸時代中期密入国して捕縛され幽閉されたイタリア人シドッチの所持品の中に《親指のマリア》の複製があったと、たしかトーハクでそれを見た記憶があるのだが定かではない。
《自画像》
これも何枚も画像が出てきた。多分気に入っているのだと思う。カペは18世紀末から19世紀初頭にかけて活躍した女流画家。フランス革命後に女性に門戸を開いたサロンに最初に参加した画家の一人だとか。でもこの当時、女性が画家として生きていくのはたいへんなことだったのではと想像する。ましてこの美貌だし。
この作品は彼女が22歳くらいの頃の作品。自信ありげに上から目線くれている、小生意気というか、自分の才能にある意味絶対の自信もっているような表情。ロココの時代の末期、こういう野心的な女性画家が出てきたのは、やっぱり新しい時代の到来ということだったのだろうかなどと思ったりする。
《帽子の女》
たぶんこの作品も西洋美術館で一、二を争う人気作品。国内のルノワール作品ではこの作品とポーラ美術館の《レースの帽子の少女》が抜きんでているような気もする。いずれも「真珠色の時代」の代表作。この作品も額絵を持っていて階段のところにかけていたりする。
《アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)》
戦後、松方コレクションをフランスに返還要求したときに、フランスがこの作品を日本に返還するのを渋ったと聞いたことがある。返還交渉を通じて、よくぞこの作品を戻すことに成功したと、交渉にあたった外交官を絶賛したくなる。第一回の印象派展が開かれたのが1874年なので、印象派以前の作品といえるかもしれない。
図録解説によれば、ルノワールは自信作としてサロンに出品したが残念ながら落選したとある。主題的にはドラクロワの《アルジェの女たち》に着想を得たということから、ロマン主義的な影響もあるのかもしれない。サロンの落選でルノワールもまた新しい表現として印象主義に向かう契機の一つになった作品かもしれない。
《洗礼者聖ヨハネの首を持つサロメ》
これも何度も写真を撮っている。工房の作品だがX線写真などの解析によるとサロメの右腕や侍女の首のあたりはティツィアーノの真筆であるとされている。しかしサロメといえばファム・ファタール(運命の女)=男を破滅させる魔性の女の代名詞とされる。やはりモローの《出現》やビアズリーの妖艶な挿絵などが有名だ。それに対してこの作品はというと、なんというか肝っ玉母さん風というか女の二の腕みたいな感じをいつもしてしまう。とても魔性の女には見えないが、この二の腕なら断首も容易かと納得したり。
《あひるの子》
これも何枚も写真が出てくる。それだけ自分にとっては印象深い作品なのかもしれない。とにかくこの少女の正面を見据えた視線、目力みたいなものを感じさせる。
《母と子(フェドー夫人と子どもたち)》
これも好きな作品。なんていうか画力の高さ、三角形の安定した構図など、とにかくスキがないというか。こういうのが名作、名品というのだろうなとなんとなく思っている。
カロリュス=デュランは第三期共和制期のサロンで活躍した画家で、後に国民美術協会の会長に就任するなど人気を博した人。日本から留学した藤島武二や有島生馬も師事したという。
《哲学者クラテース》
《ゲッセマネの祈り》
何度か観ているうちに、ヴァザーリ、ヴァザーリ、どこかで聞き覚えがあるなと思っていて、『芸術家列伝』の著者であることを思い出した人。『芸術家列伝』は全部は読んでいないけど、主要な画家についてはつまみ食い的に読んでいる。ルネサンス期の芸術家のエピソードはたいていのこの本に拠っていることが多い。画家にして建築家、芸術理論家であり、同時代の芸術家の評伝を記録した人。