名都美術館へ行く~「上村松園と伊藤小坡」 (5月14日)

 伊勢神宮とおはらい横丁での観光を済ませて一気に三重から愛知縦断して長久手まで走る。目当て一度行ってみたかった名都美術館である。

名都美術館

名都美術館 - Wikipedia

 この美術館の存在は去年、高崎市タワー美術館で名都美術館の名品コレクション展を観た時に知った。なかなか充実したコレクションだったので、後期展示だけを二回観に行っている。それからもあちこちの日本画の企画展で名都美術館所蔵品が貸し出されていたので、一度行ってみたいと思っていた。

 さらにいえば前日に行った伊勢の伊藤小坡美術館でも今やっている企画展のチラシをもらっていたので帰りに行けるものならと思った。途中、安濃SAで食事をとったので、長久手市内に入ったのは3時を少し回ったあたり。そしてこの美術館は住宅地の中にひっそりとある。

 この美術館はウィキペディアの記載によれば、自動車部品メーカー林テレンプのオーナー林軍一が一大で蒐集したコレクションを展示する私立美術館だという。愛知で自動車部品メーカーということで、トヨタの傘下企業かと思ったのだが、この林テレンプは全方位で国内自動車メーカーとはほとんどと取引しているのだとか。非上場企業らしいので、かなりの技術力と堅実経営そしているところなのかもしれない。

 しかしこういう中堅企業のオーナーで美術品コレクターがいて、それを財団法人化して美術館として公開するというのは、よくあることである。まあ二代目オーナーとかが先代の意思をきちんと承継しているということもあるのだろう。長野の水野美術館なんかも同じ形のようだ。

 そして今回の企画展はというと上村松園と伊藤小坡の二人展である。

名都美術館

二人のハンサムウーマン

近代の京都画壇で活躍した上村松園と伊藤小坡。女性ゆえの試練を乗り越え画道い邁進した二人の生き様は、彼女たちの手になる美人画同様に見る人の心を打ち、今なお人気を博しています。本展では三十数年ぶりにそんざいがかくにんできた松園の《汐くみ》を含む4点の松園作品と小坡3作品を新収蔵品として初披露し、当館が誇る松園・小坡作品を一堂に展覧します。また、小坡の代表作を拝借し充実を図ったラインナップも見どころで、凝縮されたないようにより二人の画業を振り返ります。

チラシより

 建物はきれいだが1992年開館ということですでに30年が経過している。1階、2階のツーフロアなのだが、2階に上がるのは業務用エレベーターを使うことになる。監視で常駐している警備の人が案内してくれて資料室内あるエレベーターを利用するのだが、いつも近くに警備の人がいる感じでちょっと落ち着かない。いつでも声かけて下さいということで、大変に親切に対応してはいただいているのだが。

 館内のイメージはというと、どうだろう近代日本画中心ということでいうと、山種美術館をだいぶ小ぶりにしたような印象だろうか。

 展示作品は当然企画展ということで松園と小坡の作品だけなのだが、すでに高崎市タワー美術館でこの美術館のコレクションの名品を知っているので、常設展示品を観たいのにと思う部分もないでもないというところ。

 とはいえ展示作品は申し分なく、久々松園作品にうっとりする。そして前日の伊藤小坡美術館で観ることができなかった「山内一豊の妻」もしっかり観ることができた。「乳母浅岡」は前期展示だったようで観ることは叶わなかった。多分、すでに伊勢に戻っていて、お休みしているのかもしれない。

 展示作品の中では、個人的には上村松園の新収蔵品「天保歌舞」がベストだったか。

天保歌舞」(上村松園)1935年

「汐くみ」(上村松園) 1935年

「父のあと」(伊藤小坡) 1918年 四日市市

 上村松園、伊藤小坡は、明治から昭和にかけて活躍した女流画家ということで比較されることが多い。年齢的にいうと上村松園が1875年生まれで伊藤小坡は1877年生とほとんど同時代人ということになるのだが、画家としてのキャリアは松園の方がかなり早くにスタートしている成功を収めてもいる。

  試しに二人の経歴を簡単に併記してみる。

    上村松園   伊藤小坡
1875 0 誕生    
1877 2   0 誕生
1887 12 京都府画学校、鈴木松年に師事 10  
1890 15 第三回内国勧業博覧会一等 13  
1893 18 幸野楳嶺に師事 16  
1895 20 竹内栖鳳に師事 18 伊勢の磯部百鱗に師事
1898 23   21 京都に出て森川曽文に師事
1900 25   23 幸野楳嶺門下谷口香嶠に師事
1902 27 長男(松篁)誕生 25  
1903 28   26 第五回内国勧業博覧会に出品
1905 30   28 谷口香嶠門下伊藤鷺城と結婚
1906 31   29 長女知子誕生
1910 35   33 次女芳子誕生
1914 39   37 三女正子誕生
1918 43 「焔」制作 41  
1928 53   51 竹内栖鳳主宰竹杖会に入会
1930 55   53 「伊賀のつぼね」帝展に入選
1934 59 母仲子死去、「母子」制作 57  
1936 61 「序の舞」制作 59  
1940 65   63 山内一豊の妻」制作
1941 66 帝国芸術院会員 64  
1944 69 帝室技芸員 67  
1948 73 文化勲章 71  
1949 74 死去 72  
1968     91 死去

 二つ違いの女流画家ということだが、キャリア的には圧倒的に上村松園の方が上だし、早熟である。12歳で京都府画学校に入学、15歳で第三回内国勧業博覧会一等である。確かこの一等作品はイギリス皇太子の買上げになったという。最終的には帝室技芸員で女性として初の文化勲章だ。帝室技芸員はたしか松園の前に女流南画家の野口小蘋が1937年になっていたと記憶している。

 竹内栖鳳の門下に入ったのも上村松園は20歳で1895年のことである。それに対して伊藤小坡は51歳で1928年。ずいぶんと離れた姉弟子妹弟子(そんな言葉はないか)ということになる。まあ画業においては圧倒的に上村松園だ。

 ただしことプライベートな部分でいえば、上村松園が私生児として一子上村松篁をもうけただけなのに対して伊藤小坡は結婚して三女を産み育てている。母として妻として家事や子育てをしながら画業を続けたのは、おそらく夫の伊藤鷺城の協力があったのだろうとは思う。

 別に結婚して子どもを育てたということが、いわゆる女の幸せなどというつもりは毛頭ないし、子育てや家事を母親にまかせて画業に専念した上村松園の実人生が不幸だったなどとも思わない。でもどこかに絵に対する向かい方みたいなところで松園、小坡にはかなり異なるスタンスがあったのではないかと思う。

 上村松園は、精神性や女性美の理想形を純化して捉えようとしていたところがある。それに対して伊藤小坡はどことなくゆるい部分がある。同じ母子を描いても、自分の実母に理想の母親像を投影した松園と、自身と子どもへの愛情のある眼差しを描いた小坡はどこか異なる部分がある。さらにいえば母子像への第三者的な目線と主観的な思いみたいなところか。

 自分でも感覚的にものいっているような感じがするので、どうにもうまく言語化できていないけど、例えば同じ印象派の女流画家であっても、メアリー・カサットの描く母子像とベルト・モリゾの母子像はなんとなく異なる。いずれも親近感あふれる絵なのだが、カサットにはどこか覚めた部分がり、モリゾのそれはより私小説的な感じ。

 そのへんはなんとなくだが子どもとの距離の近さを日々実感したかどうか、それよりもあくまで母子像を対象として画家の目で客観的に見る部分みたいなところもあるのではないかとか、まあ思いつきではあるがちょっとそんなことを考えてみる。

 多分、伊藤小坡は松園の描いた「母子」のような作品は描かないだろうし、上村松園も小坡の「父のあと」のような生活臭がある作品は描かないだろう。これは絵の良し悪しではなく、絵に対峙する際の精神性みたいな部分かもしれない。

 愛知県の美術館ということでなかなか足を運ぶことは難しいだろうとは思う。でも、機会があれば二度三度と行ってみたい、名都美術館はそういうところだと思う。しかし愛知県民は、そして長久手市民はけっこう幸運だと思う。気軽に行けるこじんまりとした、それでいて豊富なコレクションがある美術館があるということで。