政権交代と権力の腐敗

 アメリカではトランプ共和党からバイデンの民主党政権交代した。4年での交代である。一方東アジア辺境の島国日本では、自民党による一強政権がすでに8年にも渡って続いている。政権交代が行われず、自民党の補完勢力である公明党との連立政権により、国会でも過半数を占める勢力となっており、この間の政治の劣化、権力の腐敗は酷いものがある。

 まず国会を開かず閣議決定により大きな政策変更を行う。開かれた国会においても、政府は野党の質問や追求にまともに対応せず、閣僚は官僚が作成した作文を長々と読むばかり。さらには質問に対してもまったく関係のないことを長々と説明して時間を浪費させている。さらには安倍政権下での政治スキャンダルとなった森友事件では、平然と公文書の改竄が行われた。そのことを追求された財務官僚は証人喚問においてすべての質問に対して起訴される可能性を理由に答弁を拒否する。その後、起訴猶予になっても説明は一切ないままである。

 さらには加計学園事件のように、首相の知人に対するあからさまな利益誘導が成され、それを追求しても有能な官僚が急に記憶を失う。桜を見る会にいたっては、安倍元総理の後援会への供応など明らかな政治資金規正法違反や買収行為があっても、秘書が略式起訴されるだけ。総理大臣が国会の場で虚偽答弁を118回も行っても、「結果として事実と異なる」という言葉だけですべてが済まされる。

 またここ数年だけでも与党の代議士が立て続けに贈収賄や選挙違反、政治資金規正法違反などで起訴されているうえ、大臣室で金を受け取っても睡眠障害を理由に説明を拒否し、その後起訴猶予宇された有力政治家、実際に金を収受して議員辞職した者などが続出している。

 すべては8年もの長期にわたり与党が圧倒的な多数を占める状態が続き、選挙においても政権交代が行われないこと、またその可能性により与党議員が危機意識をもつことが一切ないことに起因することだ。

 欧米や隣国の韓国、台湾などでは頻繁に選挙による政権交代が行われる。そのことにより権力は対峙する野党勢力やマスコミとの間に緊張感をもち、権力の腐敗や与党の劣化が成されないように努力を続ける。野党も次の権力を目指すために切磋琢磨している。そしてなによりもマスコミが権力をきちんとチェックし、それが違法なことを行っていれば紀淡なく追及していく。

 日本においてはまずマスコミによる権力のチェックがほとんど機能していない。特に安倍第二次政権が誕生し、与党が国会で過半数を占めるようになってからは、権力に迎合する姿勢が顕著になっている。これには権力側からの様々な介入やプレッシャーがあることも事実ではある。しかしマスコミ側はそれを跳ね返すのではなく、積極的に迎合していく姿勢も垣間見える。

 もともと日本のマスコミは官製報道の性格が強く、戦前の大本営発表をそのまま報じるような権力の拡声器のような性格が強い。日本の民主主義がきちんと定着していないのと同じように、日本には欧米のようなジャーナリズムが確立していない。だから記者たちが記者クラブという権力との癒着機関を設け、政治家と平然と会食を共にする。マスコミのトップが総理大臣と年に数回会食をするなどという欧米では考えられないことが慣例化していく。

 すべては日本の政治に権力の腐敗を修正するような選挙による政権交代が行われないことがに起因している。それは21世紀になってから特に顕著となっているように思える。今世紀になってから民主党が2009年から2012年の3年間政権を担当したが、下野とともに民主党は離散集合を繰り返し、結局政党自体が分裂してなくなってしまった。たった一度の政権交代の後は自民党政権が続き、政府とマスコミが一体となったプロパガンダにより、野党には政権担当能力がない、悪夢の民主党政権、もう政権交代はこりごりという意識、イメージが国民の間に定着している。

 しかし民主党政権はそれ以前の自民党政権時代に起きたリーマンショック負の遺産を引き継いでいる点、2011年に起きた東日本大震災の対応に追われた点などを差し引いても、かなりの改革を行った部分もある。逆にその改革が自民党政権時代に恩恵に預かってきた富裕層やエスタブリッシュメントを畏怖させ、財界、官僚、自民党が一体となって民主党の足をすくったというところが多々ある。本来挙国一致して原発震災に立ち向かうべきときに、自民党民主党政権の足を引っ張り続け政局化をもくろんだ。一部民主党の中にも自民党と手を組んだ勢力があったことは残念ではあるが。

 本来的には政権交代こそ長期政権による権力の腐敗を防ぐ唯一の手段だ。とはいえ20世紀の政治状況にあっては1955年の保守合同によって生まれた自民党政権は、1993年に細川内閣が誕生するまで約40年にわたって長期政権を続けたという歴史的事実もある。しかし当時の自民党政権は現在のような一枚岩の政党ではなく、右派、タカ派から中道、さらには左派リベラルまでを抱合する幅の広い政党だった。

 党内には右派系、民族系と中道、リベラルがそれぞれ派閥を形成し、中選挙区においても各派閥が切磋琢磨して選挙で競い合っていた。いわば中小の政党による連合政権のような性格があった。そのため右派系派閥を中心とした政権が続けば、逆ばねとして次には中道系派閥が中心となった政権ができた。さらにいえば民族系やリベラルはそれぞれがキャスティングボードを握って、疑似的な連立政権を形成することもあった。

 端的にいえば岸、佐藤と続いた派閥は田中派と福田派に分裂した。田中派は軽装備経済重視の中道路線、福田派は日米軍事同盟を堅守するタカ派路線を進めた。田中派と同じく経済重視の中道路線として池田派を継いだ大平が宏池会を踏襲した。リベラル派は三木武夫が派閥を主導し、民族派河野一郎の後を継いで中曽根康弘が派閥を形成した。

 今、思うと当時の自民党には魅力的な政治家が多数いた。政策通も多くそれぞれが大臣やそれ以上を目指して切磋琢磨していた。実際当時の自民党議員はよく勉強もしていたという話をよく聞いたり読んだりもした。

 それは派閥の連合体である自民党の長所でもあった訳だが、ある時期から派閥の合従連衡はそのマイナスの部分ばかりがとりあげられ、金権政治の象徴のようにして批判されることが多くなった。

 そんな派閥政治が終止したのは政治改革を主張して成立した1993年の細川内閣による小選挙区制の導入である。小選挙区により1名しか当選しないということは、中選挙区により派閥ごとの議員が切磋することがなくなるということだ。その分、党機関による候補者調整がメインとなり、党の総裁や幹事長の権力が増すことになる。ようは党内官僚が幅を利かすようになる。

 この小選挙区制度導入を実質的に主導したのは小沢一郎である。壊し屋としてこれまでも政党をスクラップアンドビルドしてきた希代の政治家は、基本的に政策通でもなく政局の人であった。自民党を出てからの小沢は、新進党自由党民主党国民の生活が第一日本未来の党、生活の党、国民民主党立憲民主党と渡り歩いている。一貫しているのは、彼が政策の人ではなく政局の人だということだ。

 小沢が作った小選挙区制の中で自民党の派閥政治にとどめをさしたのが奇人小泉純一郎だ。「自民党をぶっ壊す」をフレーズに自民党総裁となり、郵政選挙で多数を占めると一気に自民党を機関運営化した。それまでの派閥の合従連衡はじょじょに影を潜め、総裁の権威権力、党実務と選挙を束ねる幹事長の権力は増していった。

 それは第二次安倍政権によって完成をみたといえる。彼らの権力のバックボーンとなったのは選挙による多数派だ。総理総裁に批判的な議員は公認を外されるか、同一選挙区に別の候補を立てられる。選挙区から比例区に回される。総裁の意を受けてそれらを行うのが幹事長ということだ。

 そうなると議員たちは総理や幹事長の顔色をうかがうようになる。勉強して政策通となり、それにより派閥の長に重用され大臣を目指す。そうした議員の権力への階梯の登っていくということはなくなり、総理や幹事長の覚え目出度い者が出世するようになる。当然、議員の質も劣化していく。

 今、コロナ禍にあって政権はまったく機能していない。大臣は首相を筆頭に官僚の作文を朗読するだけの存在である。機動的な政策が必要な場合にも対応は遅い。トゥーレイト、トゥーリトルの状態がここ1年続いている。緊張感のない長期政権の弊害が顕著に現れている。その中で声を上げる与党政治家は皆無に近い。

 こうした自民党政権、腐敗した権力構造を作った張本人は実は小沢一郎小泉純一郎なのかもしれない。そしてその劣化と腐敗を一掃することができるのは、選挙による政権交代だけである。政権交代により下野すれば自民党も再生する。もともと政権党としての蓄積部分も多い。潜在的には人材も豊富なはずだ。次の選挙、もしくは次の次のところで政権交代が起きないとこの国はもたないかもしれない。