子どもの巣立ち

 訳あって子どもが急遽引っ越すことになった。高校の時からの友人とアパートで一緒に暮らすのだとか。もともと就職が決まったときに一緒に住む予定だったのだが、諸事情からペンディングになっていたのだが、先週になって急に決まった。

 といっても引っ越し先は同じ沿線の4駅手前で車だと30分もかからない距離だ。持っていく荷物も衣類を中心に最低限でスーツケースで3個分くらいだったか。それでもそれなりの荷物なので車に荷物を載せ、アパートまで送っていった。

 いずれは子どもが家を出ていくもので、遅かれ早かれやってくるのだろうが、このタイミングは親的にはいささか意表を突かれた感じでもある。23年間育ててきた、一緒に暮らしてきた家族が巣立つのは親としては正直淋しい。とはいえいずれは自立してもらわなければいけないのだから、まあ致し方ないのかもしれない。

 一人っ子だし、わがまま放題に育ててしまった感もある。子どもとぶつかると、子どもは過干渉の親と断じてくることもある。じゃあ、何でも自分でやればいい、もっと家の手伝いをみたいなことを言い返しても、家にいてやってもらえてしまえば、それを受容してしまうという言い分だ。子ども的にもこのままではマズイという意識もあるのだろうとも思う。

 自分の子育てを振り返ってみるとどうにもうまくいかなかったのではと、反省することばかりだ。当初は共稼ぎだったので1歳になるかそこらで保育園に入れた。自分と妻で交互に送り迎えをした。子どもは朝8時に預けて、迎えに行くのも延長保育ぎりぎりの夜の8時まで。一番長く保育園で過ごしたのがうちの子どもだった。保育園から小学校に上がっても、保育園が併設している学童に入れた。

 でも家にいるとき、休みのときにはよく一緒に遊んだ。土日、妻は疲れて家でゴロゴロしていることが多かったが、自分は近所の公園や車で少し行ったところにある動物園などにも積極的に連れて行った。欲しいものはなんでも買い与えた。

 共稼ぎ子育ての生活が崩れたのは妻が病気になったときからだ。15年前、子どもを迎えに行き家で過ごしているときに、妻が仕事が終わった後の会食中に倒れたという連絡が入り急いで子どもを連れて救急搬送された都内の病院に向かった。重度の脳梗塞、その後脳浮腫による減圧開頭手術、左上肢、左下肢機能全廃による片麻痺高次脳機能障害・・・・・。

 自分にとっては仕事と家事、子育て、妻の介護がすべて押し寄せてきた。そして子どもにとっても忙しない父親と病気の母親との生活が始まった。本当であれば母親の愛情を受け、成長とともに母娘で紡ぐような生活のすべてが失われた。

 そんななかで自分が心掛けたことは出来るだけ、子どもに普通の生活を送らせたいということだった。だからあまり家事手伝いとかはさせなかったし、母親の面倒をみさせるということもしなかった。できるだけ普段どおりの生活を送らせること。あとは金銭面での苦労をさせたくないということだった。

 自分自身でいえば、父と母は自分が4~5歳の頃に離婚している。自分は父と祖母によって育てられた。正直にいえば母親の記憶はまったくない。さらに父はそのころ事業に失敗し、それからはずっと安月給の肉体労働者として過ごしてきた。兄も中卒で就職した。しかし浪費家で金銭感覚がマヒした祖母は、父と兄の稼ぎを使い、多分それだけでは足りず小さな借金をいくつも作った。

 そういう家庭で育った自分は貧困がどんなものか知っている。とにかく当座の数千、数万はあったとしても預貯金というものはほとんどなく、なにかまとまった金が必要とする場合には借金をする以外になかった。家は狭いボロ家であることが多かった。4人家族で六畳一間で過ごしたこともあったし、そこから脱してもせいぜい二間の家で暮らした。友人を家に連れてくるどころか、見せることすら恥ずかしいような住環境だった。

 貧乏は子どもの根性を捻じ曲げる。それは多分、自分が自身のこととして一番わかっていることだ。だから自分は結婚し子どもができたときに、とにかく子どもに自分のような貧困を味合わせることだけはしたくないと思っていた。

 妻が倒れたとき、新しく家を建てたばかりで、それぞれがローンをもつ2本立てだったが、それが全部自分で背負わなくてならなくなった。それまで共稼ぎで余裕があった生計費も自分1人である。そのころの年収でいえば、自分より医書系出版社で働く妻の方が幾分か多いような感じだったから、このまま自分1人で働き、ローンを返していけば、いずれは家計も破綻するようなことになりかねない。

 とにかく家を売り、もっと安い家を探す。ちょうどリーマンショックが起きて景気は最悪な時期だったが、なんとか家を売却して今の家を購入した。売却しローンを完済し、家を買っても多少プラスになり、とりあえず借金なしで持ち家をもつことができた。

 今の家は会社からも近く、また子どものことで学校等に行くにも都合がよく、会社を一時ぬけて教師の面談とかにも対応できた。妻のこと、子どものことで仕事がおろそかになる部分もあり、ある部分そのことで出世が遅れた。それでも職住近接でなんとか埋め合わせもでき、50代には経営に加わることができたし、経済的にもだいぶ安定したんだとは思う。

 子どもは私立高校から都内の私大に通った。いろいろぶつかることもあったが、中学から大学まで同じ部活を続けたし、まがりなりにも真っ当な学生生活を送ってくれた。よくいう非行とかそういうことで寄り道をすることもなかった。子どもが高校にあがるときに、夜なべして体操着やジャージに名札を縫い付けたこと、学食のない学校だったので3年間弁当を作ってやったことなど、もう一度やれといわれても多分できないだろうことを続けてきた。

 そのようにして育ててきた子どもが、とくに心の準備もできないまま、あっという間に家を出ていく。かなり淋しいことだが、多分もっと大きな喪失感、脱力感が押し寄せてくるのはもう少し先のことになるのかもしれない。

 アップした画像は多分2歳くらいの頃。父親がパソコンに向かっているのを間近でみていて真似をしたくなったのだろう。本当に20年前にはこんなんだったのが、あっつうまに一丁前の大人になって巣立っていくのだ。

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