風の里訪問

小学校の卒業式の後はふじみ野の風の里保育園に挨拶に行く。以前から一度行きたいと思っていた。子どもが1歳の時から三年生になるまでお世話になったところである。ようやく小学校を卒業するまでになったことの報告とお世話になったことのお礼を兼ねてというところである。風の里を訪れるということを妻が仲の良かったお母さんに話したようで、我が家の他にも二組の家族が一緒に行くことになった。
新学期準備で忙しい中であったけれど、事前に連絡すると快く訪問することを了承していただいた。当日もたぶんご多忙なんだろうに園長先生は時間をさいていただきいろいろとお話をしていただいた。園長先生は私より一回りくらい上だから、たぶん60代の後半になられる。でも相変わらず精力的にお仕事をされているようでとても若々しい。応接室でこうやって先生とお話をしているうちに、ついついここに子どもを預けていた時のことが思い出されてくる。なんとなく目頭が熱くなるような、ちょっとやばい雰囲気になってしまう。
雪の降る中を自転車の後ろに娘を乗せて登園した日のことなんかがなぜか頭の中を巡ってくる。当時住んでいたマンションは機械式駐車場で雪が降ると機械がストップして車が出せない。けっこう忙しい時期だったのだろう、私も妻も会社を休めない。どっちが送っていくか、雪の中である。しょうがない私がみたいなことだったのだろう。雪の中だから当然自転車をこぐことも出来ず長い道のりをひたすら押していった。途中で一度だけこけて私も娘も雪だらけになった。
この保育園は早朝保育から夜間の延長保育まで、けっこうなんでもありてきに利用させていただいた。もちろんきちんとしたルールはあるけれど、けっこう親の都合というか、そういうものに理解を示してくれていた。けっこう園的には迷惑せんばんだったのだろうけど、親的にはそういう風に勝手に思ってもいた。それもこれも園長先生のお人柄によるのだろうとも思ってきた。
娘はこの保育園に通う子どもたちの中でもたぶん1〜2を争うくらいに、この園で過ごした時間が多かったに違いない。週5日間、朝8時から夜8時まで、時には夜の8時が10分、15分ずれ込むこともあった。他の子どもたちが5時くらいから7時くらいまでの間に順々に親たちのお迎えで帰っていく中で、娘は保育士の先生たちが代わる代わる相手をしてくれる中でずっと私や妻が迎えに来るのを待っていたのだろう。
一度など妻は妻で決算期で忙しく、迎えに行くはずの私は会議が長引いていて、8時を過ぎてもまだ会社にいるということもあった。あの時はさすがにしんどかった。結局迎えに行ったのは9時をだいぶ回った頃。途中で何度か電話を入れたがほとんど針の筵状態だった。仕事と子育ての両立が難しいという現実の中で、ほとんど綱渡り状態でしのいできた。
なんども書いてきたけれど、この保育園に巡り合わなかったら、こと我が家の場合は満足に子育てができなかったように思う。共稼ぎしながら、なんとか一人娘を小学校卒業までしのいでこれた。そう思うと風の里保育園に対してお礼の言葉何度述べても言い尽くせないような思いだ。
この保育園があってこそなんとかやってこれた。でもそれもほんの偶然のことなのである。たまたまその次期にふじみ野という地に住むことになり、そこで子どもをもうけた。産休が1年で終了して職場に復帰した妻とともに子どもを預ける場所をいろいろ探したが、なかなか見つからなかった。1歳になったばかりの娘を最初に預けたのは、いまはなくなってしまったみずほ台のマンションの1室にある託児所だった。最初は毎日娘を連れて行って出ようとすると娘はわんわんと泣いた。マンションの1室に詰め込まれた子どもたち、そこで一緒に過ごしている娘を見るにつけ、なんとかしなくちゃいけないなと思った。
そんな時、上福岡と合併する前の大井町に新設の保育園が出来るという話を町の広報で知った。町が委託した私立保育園で夜8時まで子どもをみてくれるという話だったのですぐに応募した。建築中の保育園の前を何度か通ってみて、広々とした環境を目にした。妻にここに決まるといいねと話したことを昨日のように覚えている。
ここにうまく入れたときには、けっこう小躍りして喜んだし、子育てちゃんとやっていかなくてはならないとも思ったものだ。保育園での6年間、併設する学童のアフタースクールでの3年間、都合9年間もここで過ごすとは思ってもいなかったかな。
妻が脳疾患で突然倒れ身障者になってからも、なんとか生活を維持するうえでずいぶんとこの園には世話になった。妻がリハビリ系の病院に入院している時に、園長先生と今や片腕的存在となっている娘さんとご一緒でお見舞いにきていただいたこともあった。「お手伝いできることは出来るだけしますから、なんでもいってください」というお言葉に思わず涙してしまったことも思い出す。
実際、妻の入院中は、娘をけっこう夜遅くまで面倒みていただいたことが何度もあった。娘にとってはある意味第二の家みたいな場所だったろうから、本人も安心していられたし、親の側からしても本当に安心できた。
なんか思い出すと本当に感傷的な思いが様々によぎってくる。でもいちおう園にご挨拶できたことで、一つのけじめができたかなとも思った。いや漠然とそんな思いを抱いたままで園に挨拶にきたというのが正直なところだった。園長先生がこんな風におっしゃってくれた。
「お父さん、お母さんがこうやってここにいらっしゃることが、子どもにとっても小学校の卒業ということの一種のけじめということで理解されるのだと思います。とても大切なことだと思います」
たぶんこんな風なことをという意味であるが、なるほどそういうことだったんだと妙に得心してしまった。風の里にご挨拶に伺うことで、子育ての一里塚としての小学校卒業に区切りをつける、たぶんそういうことだったのだろう。子どもにとってもお前がこうやって無事に小学校を卒業できたのは、もちろん親たちの努力やもろもろもある。でもそれ以上にいろいろな方のお世話になってきたということがある。そしてお前の場合は多くの時間、風の里保育園で育まれ、多くの先生や関係する方々のお世話になって育ってきたんだということを自覚してもらいたいと、たぶんそういうことだったのだろう。
子どもは家庭だけで育てるのではない。かっての共同体社会が全体で子どもを育てていた。現在は、社会全体で子育てをすることが理想的なのである。子どもは社会の関係性によって育まれていくべきなのである。そして我が家の場合は、その社会的関係性は概ね風の里保育園を中心にしたものだったのだと思う。改めてお世話になった先生方、親御さんたちに感謝したいと思っている。