『候補者たちの闘争』を読む

 

ドキュメント 候補者たちの闘争――選挙とカネと政党

ドキュメント 候補者たちの闘争――選挙とカネと政党

 

 井戸まさえの『候補者たちの闘争』を読んでいる。これは昨年の安倍がぶち上げたミサイル危機だの、小池と前原による希望の党の立ち上げとそれの凋落、野党第一党民進党の分裂、結果として安倍自民党の大勝というとんでもない茶番劇となったあの異次元総選挙のインサイドレポートである。

 著者の井戸まさえは元民主党の代議士であり、離婚後すぐに結婚出産した子どもが一時無戸籍となった経験を元に『日本の無戸籍者』という著作をものにしているライターである。そして昨年の総選挙にも立憲民主党から出馬して次点で落選した現役政治家でもある。

 いわば本書は民進党の分裂に翻弄される候補者の立場から、内側から希望の党に選別される候補者たちの様々な人間模様を描いている。それはそのまま現代の政治、選挙事情の一端を伝えることになっている。さらには女性の政治進出を阻む事情も実例とともに描いている。

 政治の内幕モノは面白い。それが生きた人間ドラマを形成しているからだ。さらには一次資料として政治学者、歴史学者の評価と選別により政治的事実、歴史事実として構成されるべき事実性をもっているからだ。もちろんそこには著者の恣意性、主観性が当然色濃いものとなっている。

 本書を読んでいて、いや手にとったイメージ、装丁から想起されるものにどこか既視感がある。それは自分にとっては随分と前に廃業してしまった出版社、サイマル出版会の出版物を思わせる。あの出版社は面白い政治、社会系のノンフィクションを出していた。ハルバースタムの『ベスト・アンド・ブライテスト』もサイマル出版会からだった。本書にサイマルとの近似性を感じさせるのは、多分本書でも紹介されているジェラルド・カーティスの古典的名著、自民党の代議士が選挙に勝ち上がり政治家となっていく姿を密着してレポートした『代議士の誕生』を思い出させるからではないかと思っている。

 この本で異次元総選挙の野党の側からの総括めいた部分がある。そこを少し長いがそのまま引用してみる。

3「異次元総選挙」が残したもの

野党共闘」という産道

 小選挙区で勝利するために最も大事なのは闘いの構図だ。つまり、いかに一対一の勝負に持ち込めるかである。

 民進党蓮舫代表時代に進めた「野党共闘」は、共産党との連携が鍵となっていた。共産党から提示されていた全国十五選挙区で野党共闘ができれば、他の選挙区の統一候補は民進党の候補者になり、仮に小池新党ができたとしても、そこそこの結果が生まれるのではないかというのが、参議院選挙の経験を踏まえたうえでの判断で、それがあと一歩のところでまとまりつつあった。

 しかし、都議選での惨敗を受けて蓮舫が代表を辞任、前原新代表が選出された段階で共闘は危ういものになっていた。そして希望の党との合流は、市民を含めた、それまでの共闘路線に大きな溝を作ることになった。

 それを埋めたのは、まさにひょうたんから駒の立憲民主党の誕生である。

 一方で、立憲民主党共産党は共闘すればするほど、支持層の重なり部分が大きくなる。つまり比例区では票の食い合いをする関係でもある。

 結果的に、共産党議席を減らし、比例区の東京ブロックでは二議席にとどまった。

 ただ、これが共産党にとって後退かといえばそうとも言えない。何より、すべての選挙区で共闘をせず、いくつかの選挙区ではバラバラに闘うことによって、共闘がいかに当選への必須条件であるかを可視化することに成功した。

 そこに共産党の戦略的な判断があったのだとすれば、今後の政局を考えたうえでも、政党としては正しい行動だったと言える。加えて、共産党は、実質的に他党の比例順位を左右できることをも党の内外に示したのだ。

 この結果は次回の選挙において、候補者心理、政党心理のどちらに対しても影響を与える。特に野党が勝利した選挙区では、共産党抜きでの選挙は難しくなる。共産党から離れては勝利できない、共産党との共闘という産道をを通らなければ産まれることはできないという、強烈な体験の残像を他党の候補に与えることができたのである。      P36-37

 この分析は見事だ。まさしくこれは選挙を闘った候補者だからこをの卓見だと思う。しかし一方でここでいう他党、立憲民主党にはもう一つのジレンマが存在する。それは民主党自体、いやそれ自体からこの政党が抱えるアイデンティティのようなものだが、元々民主党自民党から分派した新党さきがけ日本新党小沢一郎自由党社民党の合体によって成立している。彼らはある意味では骨の髄まで反共なのである。自民党から分派した出自をもつ彼らの念頭には常に穏健な保守政党というイメージがある。彼らにとって共産党との共闘はそのDNAの部分で拒絶されるべきものなのだ。

 さらに社民党はというと、その支持母体であった労働組合=総評は、共産党系のナショナルセンター労連系との間で長くヘゲモニー争いを続けていた。社会党系と共産党系のヘゲモニー争いはある意味で、日本の左翼運動や市民運動にとって宿悪のようなものなのだ。

 なので、立憲民主党議員の中で比較的選挙に強い、いわば野党共闘を必要としない者たちは、その出自たる反共意識を元に共産党との共闘に対して常にネガティブに動いていく。昨年の総選挙にあっても野党共闘に反旗を翻し、民進党を早々に離党した松原仁細野豪志といった連中はそうだ。彼らは途中から逆風に晒された希望の党にあってもきちんと勝ち上がってきている。

 そして同様に前原誠司野田佳彦といった政治家も選挙区に強い。彼らには野党共闘を、共産党との共闘をする必然性がないのだ。

 それに対して選挙区での基盤が確立していない多くの候補者にとっては事情が違う。彼らにとって小選挙区自民党と競い合い勝ち上がるためには野党共闘共産党の支援が必須なのである。そのへんの温度差が民主党民進党立憲民主党の中には混在しているのだ。選挙に強い前原や野田、細野、前回の選挙ではあえなく落選した馬淵澄夫のような政治家にとっては、野党共闘で多くの議席を獲得することよりもまずは共産党との旗色を鮮明にすることが行動の第一原理なのかもしれない。

 さらにもう一つの視点がある。それは地方議員の問題だ。立憲民主党系にしろ、国民民主にしろ、ようは旧民主党系の地方議員にとっては共産党はまさに凌ぎをけずる相手でもある。彼らにとっては保守系無所属自民党公明党は敵ではない、ある種の棲み分けができている。常に最後の一議席を競い合うのは共産党なのではないかと自分は思っている。

 かって住んでいた場所でほんの少しだが、民主党系の地方議員との間で交流をもったことがあるのだが、彼らの反共意識、反共産党意識は強烈なものがあった。彼らにとっては旧秩序のまま利権や地主層の権益にそって動く保守系議員のほうがよっぽど親和性があるようにさえ見えた。とはいえ組織性が限定されている民主党系は無党派層の気まぐれに期待することが多く、選挙では勝ったり負けたりを繰り返してもいた。

 自分の皮相な見方でいえば、最近、立憲民主党野党共闘から後退めいた姿勢が見え隠れしているのは、来たるべき選挙に向けて地方組織を次々と立ち上げていることにあるのではないかと、そんな気がしてならない。

 しかし、井戸氏が述べているように「小選挙区で勝利するためには」「一対一の勝負に持ち込めるかどうか」なのである。一対一の相手はもちろん自公であって共産党ではないのだ。立憲民主党が大局的見地から反共主義を封印できるかどうか、それが野党共闘の道筋、産道というものかもしれない。

 もう一つだけ、あえていえば共産党が方向性だ。今の共産党はある意味、前衛党から社民主義にシフトしているとはいえる。しかし所謂科学的社会主義を党是としていることには変わりない。欧州の共産党が2000年前後、ベルリンの壁崩壊とともにマルクスレーニン主義を捨て去ったことからすれば、先進資本主義国の中での共産主義という立ち位置はどうなのか。

 それは世界史レベルでいえば一党独裁を堅持しつつ資本主義に邁進する中国共産党とともに特異な形であるのかもしれない。

 グローバルな資本主義の隆盛のなか、格差は19世紀の階級社会との近似性さえ感じさせるほど際立ってきている。新たな階級闘争は再生されるべきものがあるかもしれない。しかし一方で根強い反共主義がまん延する日本にあって共産党がより広範な支持層を拡大し、シフトを広げるためには<真の>共産党でも、<正しい>共産党でもなく、市民社会にあって平等、公正、公平に立脚した政治イデアをうたいあげる必要があるのかもしれないと夢想する。

 近未来的には立憲民主党との野党共闘、そして自公政権公明党のような存在になれるかどうかである。かっては、いや今であっても公明党はカルト宗教を支持母体とする政党なのである。それに共産党が取って代わっても何も問題はないと思う。

 話は脱線に次ぐ脱線だが、『候補者たちの闘争』は様々な政治的思索をを引き起こす魅力的な本だと思う。