ピエール・ボナール展に行く

 6時から歯医者の予約をいれていたので、都内まで出かける。差し歯の調整なので診察は5分程度で終了。かなり中途半端な時間である。もう少し早ければ美術館へと足を向けるのだが、スマホでざっと調べてみると、上野の東京都美術館藤田嗣治の回顧展をやっていて、気になっているのだが、金曜日でも8時までである。山手線での移動を考えると正味1時間くらい。それではと竹橋の近代美術館を見てみるとこちらも8時まで。

 そうこうしているうちに時間も6時半を回って、ますます美術館は遠のく感じである。そういえば六本木の国立新美術館でボナールの回顧展が始まったばかりなのを思い出す。ダメ元で検索してみると、通常金曜日は8時までなのだが、今日はなんと9時までやっているという。電車の乗り継ぎがうまくいけば7時半過ぎにはつける計算なので、ここは一つ六本木まで行ってみようかと思った。

 と、このへんのことをすべてスマホでの検索である。乗換案内で電車の乗り継ぎ等もチェックできる。このへんもまたテクノロジー万歳というところか。

 国立新美術館に到着してまず最初に何をしたか、駆け足でボナール展に入ったかというと、そういうこともなくて、取り敢えず暑いので一杯引っ掛ける。どこまでもクサったジジイなのである。軽く一杯速攻で飲んで勢いつけようと思ったのだが、ビールサーバーを途中で交換みたいなことになってしまい、出てくるまでに5分くらいかかってちょっと出鼻くじかれるような感じ。でもほどよく冷えていて美味い。

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 そしていざボナール展である。

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 ボナールというと自分の理解もそうだし、一般的にもナビ派として括られる。さらには日本の浮世絵の影響が大という。しかし自分にはゴーギャンのフォロワーともいうべきナビ派としてのボナールというのが今ひとつ理解できないでいる。

 平板な色面を強調した画法や輪郭線の強調などはゴーギャンの推賞によるいわゆるクロワソニスムなんだろうが、ナビ派を形成したドニ、セリジェ、ランソン等に比べてそのへんがボナールにはやや希薄な感じがする。彼の平板な表現はまさに浮世絵のそれであり、特にリトグラフやボスター等については、ロートレックのそれと似た部分があるように思う。

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黒いストッキングの少女

 浮世絵=ジャポニスムの影響化で装飾的な表現を展開し、次第に色彩を鮮やかにしていく。そのへんはなんとなくフォーヴィズムとの関連とか、どことなく色彩表現を得たルドンみたいな雰囲気もあったりする。

 でも自分なんかには、ボナールというとなんとなく印象派の延長線上にあるような気がしてならない。華やかな色彩よりも色味を抑えたうえで光によって移ろう一瞬を切り取ったような表現。なんとなくドガロートレックの拓いた地平を広げたような感じだ。

 そして妻マルトの水浴する姿を繰り返し繰り返し描いていく。その表現は自分にはほとんどすべて印象派の表現に思えてしまう。

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浴盤にしゃがむ裸婦

 妻マルトは神経症のため、1日に何度も水浴したという。その姿を執拗に描いたという話を聞いていた。ボナールとマルトは、ボナールが26歳の時に知り合ったという。マルトはボナールに16歳であると告げたということなのだが、実際ボナールより2歳下の24歳だったとか。若くして知り合い暮らし始めた二人の親密な関係を象徴するものとして、妻の水浴画を理解していたのだが、実はボナールがこのモチーフを描き出すのはずっと後、彼が51歳の頃だという。

 その頃、ボナールはマルトの友人だという女性ルネ・モシャンティと恋に落ちる。マルトはそれに嫉妬し、ボナールに正式に結婚するように迫る。ボナールは長く暮らしてきたマルトの要求にのんで二人は結婚する。この時、ボナールは58歳。そしてその数週間後にルネ・モシャンティは自殺するのだとか。

 ルネと知り合ってから、マルトの嫉妬、そういう三角関係が7年も続いていたことに驚く。ルネの死と前後してから、ボナールは「浴槽の裸婦」の連作が始まる、

 一説によるとルネは浴槽で自殺したという。それがボナールにはある種の強迫観念になったという説もあるのだとか。

 ボナールのやや神経質そうなひ弱な容貌からは、妻と妻の友人との三角関係など想像しずらい面もあるのだが。同じ頃、ボナールはかかりつけの医師の妻、リュシエンヌ・デュピュィ・ド・フルネルとも親密な関係になり、彼女をモデルに数作を描いている。

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バラ色の裸婦、陰になった頭部

 美しい肢体である。画家の表現力を喚起させるようなどことなくギリシャの彫刻を想起させる。ボナールは比較的平板な表現が多い画家のはずなのだが、なぜか女性の裸婦を描かせるとより立体表現になっているような気がしないでもない。意外と好事家的な部分もあったのかなどと下衆な想像もしないでもない。さらにいえば顔の部分を曖昧にするのも、特定されることで恋人マルトのあらぬ疑惑をもたせないためでは。まあこれは凡人の妄言の類だ。

 それでいて色彩表現は豊かであり、そこには正統な印象主義の継承的な表現があるようにさえ思える。そう、印象主義を20世紀にあって継承発展させたのが、ボナールなのではとそんなことを勝手に思ってしまう。

 今回の企画展で知った事柄をいくつか。

 ボナールを「日本かぶれのナビ」と評したのは、画商にして批評家フェリックス・フェネオンだという。彼は新印象派の理解者であり、シニャックの友人でもあったと聞いている。シニャックのサイケな肖像画でつとに有名。

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フェリックス・フェネオンの肖像

 前述したようにボナールは26歳の時にマルトと知り合う。その時にマルトは16歳称していたのだが、実際にはボナールより2歳下の24歳だった。二人が正式に結婚したのはボナールが58歳の時。ボナールがマルトの友人ルネと不倫関係にあったことに嫉妬したマルトが結婚を要求したからだという。

 この結婚によってボナールは初めて妻マルトが自分より2歳下の56歳だと知ることになったのだとか。実に32年もの間、マルトは8歳もサバを読み続けていたのだとか。

 その後も二人は仲良く暮らし、17年後、ボナールが75歳のときにマルトは73歳で没する。ボナールは深く悲しみ、妻の死を親しい友人以外には知らせなかったという。

 同時代の画家の中では、ボナールとマティスは友人同士であり、マティスはボナールを高く評価したという。二人の絵にはどことなく互いに影響しあった部分が感じられる作品がある。

 一方でピカソは、ボナールを凡庸な画家として評価しないどころか、かなり批判的な言葉を投げかけているという。現代絵画の地平を広げるために格闘を続けたピカソからすれば、確かにボナールは凡庸に映るのかもしれない。でもその出自の部分でいえば、ピカソは10代の頃、色面と浮世絵的な大胆な構図を取り入れたロートレックの習作を続けていた時期がある。そうした部分でいえば、ボナールの絵は親和性があるのではないかと思うのだが、どうなんだろう。

 ピカソマティスと友人同士、マティスとボナールもまた友人同士。でもピカソとボナールはダメ。まあそういうものかもしれない。