一週間くらい前に新聞でこの展示を観た。たしか春に新潟市美術館でやっていたのものと同じものだと思う。その時にも行きたいものだと思ったが、やはり新潟は遠い。そう簡単には行けないということで断念した。
小倉遊亀 絵筆にこめた愛(新潟市美術館|新潟)|EXHIBITIONS | 美術手帖
今回の平塚もそうだがいずれも滋賀県近代美術館所蔵品を中心にしたものだ。滋賀県は小倉遊亀の出身地ということもあり、約60点の作品を収蔵しているのだが、現在リニューアル中ということでこのユニークで異彩を放つ女流画家の作品は各地を巡回しているということなんだろう。
自分にとって小倉遊亀というとやはり竹橋の近代美術館で観た「浴女その一」だ。今回も出展されているが、細密な線描と浴槽内の湯でゆがんで見えるタイルの表現など、構図と表現の妙というか、妙にポップな感じがしてとても気に入っており、この作品から彼女の作品を親しむようになった。
さらに東京芸大美術館で観た「小径」も今回出品されている。平面的な表現ながら幸福感に溢れる作品で、後期の作品だが彼女の代表作と称されている。
その他では滋賀県近代美術館所蔵という戦後、昭和20年代の作品といわれる二つの作品が興味深かった。というのはちょうどその時期に日本ではピカソやマティスの展覧会が開かれており、小倉遊亀は洋画の新潮流に触れ、その表現を自身の作品に取り入れていったという。この二つの作品にはマティス的なデフォルメ表現や鮮やかな色彩感覚の影響があるといわれており、それが妙に得心できた。
小倉遊亀は105歳とたいへん長命だった画家だ。亡くなったのは2000年と割と最近といえば最近である。生まれは1895年(明治28年)、まあどうでもいいことだが自分の祖母は1898年(明治31年)生まれで1996年に亡くなった。祖母とはずっと暮らしてきたから、明治女というものの気性みたいなものがなんとなく理解できる。
もっとも小倉遊亀は穏やかな性格の方らしく、そのへんは男性関係でいろいろとあった究極の自己中を貫き通したうちの祖母とは随分と異なる。まあいつか祖母のことをきちんと書きたいと思いつつ、そのままになってしまったなと思ったりもする。
小倉遊亀は女子大学を出た後、横浜の女学校で教師をしながら独学で絵を描いていたという。そして独学の限界を感じて安田靫彦の門をたたき、弟子となってさらなる修練をつんでいったという。
小倉が勤めたのは横浜のミッションスクールで大正時代のことだというのが、その学校の名前は捜真女学院。そう東白楽と反町のあたりにある女子校である。記憶を辿っていくと、大昔そこの女生徒とつきあったことがあったっけなどと、訳のわからんことを思い出した。まあ横浜生まれの地域ネタみたいだ。
小倉遊亀は1936年、43歳の時に山岡鉄舟門下の修行者73歳の老人小倉鉄幹と結婚する。30歳も歳の離れた老人との結婚。独身の人気女流画家が突如孤高の老人と結婚する。当時としても珍しいことらしくけっこうスキャンダルに報じされたという。そのへんから小倉遊亀は生涯処女なる説もでてくる。
そのへんのことについては以下のブログに詳しく、けっこう楽しく読ませてもらった。