『騎士団長殺し』

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

 
騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

 恥ずかしながら『騎士団長殺し』をようやく読み終えた。同時期に読み始めた友人、知人が皆読み終えてニヤニヤしながら、メタファーがねとか言うのを耳を閉ざして我慢し続けた日々、いろいろ大変だった。ちなみに買ったのは多分自分が一番早い。
 まあその間に2〜3冊、別の本を読んだり、仕事では就業規則の改定作業をしたりそれなりに忙しかったんだよとは自分に対する言い訳。実際、正社員、嘱託、パートの三本分の改定作業であり、特に嘱託、パートは正社員の規則に合わせて条文の整理をするなど、ほぼ全面改訂に近かったなどというのもあったと。まあこれもただただ言い訳の類だ。
 しかし二冊合わせて1100ページになるというのはいささか長過ぎるという部分もないではない。最終章までたどり着くとなんのことはない、全体としてこの小説は3.11前史みたいなものでもあり、やや纏まりに欠ける村上ワールドのダイジェスト版であったりというのが率直な感想だ。そのうえでかって『ねじまき鳥』のあたりで現実へのコミットメントについての問題意識を語り、阪神淡路大震災を経た著者の精神性は、可能性のバランスに生きてきた者と信じる力を獲得した者との相違に行き着いたというのが自分の簡単な読後感でもある。
 まあいずれ時間があれば、ダラダラと脈絡なく感想メモみたいなものを書いていくかもしれない。そして村上春樹は多分、信じる力を獲得した者たちをテーマにした3.11以後の物語をきっと書くのではないかと密かに思っている。

 私は東北の町から町へと一人で移動しているあいだに、夢をつたって、眠っているユズと交わったのだ。私は彼女の夢の中に忍び込み、その結果彼女は受胎し、九ケ月月と少しあとに子供を出産したのだ−−私は(あくまで個人的にこっそりとではあるけれど)そう考えることを好んだ。その子の父親はイデアとしての私であり、あるいはメタファーとしての私なのだ。騎士団長が私のもとを訪れたように、ドンナ・アンナが闇の中で私を導いたように、私はもうひとつ別の世界でユズを受胎させたのだ。
 でも私が免色のようになることはない。彼は、秋川まりえが自分の子供であるかもしれない、あるいはそうではないかもしれない、という可能性のバランスの上に自分の人生を成り立たせている。その二つの可能性を天秤にかけ、その終わることのない微妙な振幅の中に自己の存在意味を見いだそうとしている。しかし私にはそんな面倒な(少なくとも自然とは言い難い)企みに挑戦する必要はない。なぜなら私には信じる力が具わっているからだ。どのような狭くて暗い場所に入れられても、どのように荒ぶる嚝野に身を置かれても、どこかに私を導いてくれるものがいると、私には率直に人事ることができるからだ。それがあの小田原近郊、山頂の一軒家に住んでいる間に、いくつかの普通ではない体験を通して私が学び取ったものごとだった。