「トニー滝谷」を観た

トニー滝谷 スタンダード・エディション [DVD]
レンタルで借りて観た。以前から村上春樹の短編が映画化されたということは知っていたけれど、観ることもなく過ごしてきていた。TUTAYAとかでも何度か手にしたことはあったのだけれど、今ひとつ観てみようという気がおきなかった。正直がっかりするのではという気持ちがあったからだ。
村上春樹の作品の映像化は難しいという先入観めいたものがある。知っている限りでは村上作品で映画化されたものはこの映画とデビュー作の「風の歌を聴け」くらいだろう。同じ神戸出身の当時出始めたばかりの大森一樹がメガホンをとったATG作品。この映画を確か銀座の並木座で観たと記憶している。それは大森作品としていえばなかなかに面白い映画だったかもしれない。役者だって小林薫巻上公一坂田明もそれぞれなかなかに好演だ。そしてなによりも真行寺君枝がとてもチャーミングだった。でもこの映画は村上春樹の世界とはとてつもなくかけ離れた作品になっていた。
当時新人作家だった村上にとって映画化は断りきれないものだったのだろう。しかし自ら映画好きであり、学生時代はシナリオとかも勉強していた彼にとってこの映画は相当にがっかりするような内容だったのかもしれない。以後彼が自作の映像化に首を縦に振ることはずっとないままだった。
しかしこの「風の歌を聴け」を最近観てみた。若い時分に観た映画を何十年もしてから観ると、けっこうがっかりすることが多いのだが、意外と普通に観ることができたし楽しめた。若い映像作家大森の趣向を凝らした映像とでもいうべきか、稚拙ではあるが楽しい映画的文法が駆使されていてとても愛らしい一品になっていたと思う。そうまんざらでもない佳作だ。
そしてこれがとても重要なことなのだが、この映画にはもともと大森一樹が同時代をそこで住み、村上春樹と同じ空気を吸っていた、彼等にとって懐かしい神戸へのノスタルジックな思いが強く溢れていたように思う。その懐かしい神戸の風景もまたあの震災によってすべて喪われてしまった。それを思うとこの映画に描かれた様々な風景には別の意味での郷愁がある。なんでもない街の景色がかってはあったが今は永遠に喪われてしまったものであるということ。
まあいい、この映画の話はまた別の話だ。この映画以来、村上作品が映像化されることはなかったのだが、それが市川準監督により映画化された。それもメジャーな長編ではなく短編集「レキシントンの幽霊」に収録された掌編である。俳優は一人芝居中心の喜劇役者イッセー尾形である。どんな映画なんだろうとはある意味ずっと気になってはいた。しかも公開当時の評判はけっこう高評価を得ていた。
なにより企画段階、あるいはシナリオとかを観たうえでたぶん村上春樹が映画化にOKを出したはずなのである。きちんと自作が映画的に消化され得ていると評価したのだろうだから。
それでは感想はというと、これはたぶん相当な傑作だということ。村上作品の映像化という部分と切り離しても独立した映像作品として傑出していると思った。それでいて原作の持つテーマ、究極の孤独と喪失感がきっちり消化されている。演出もムダがない。ほとんどをセットで処理し、カメラの左から右へのパンによってシーンを移行させるという描き方もうまくいっている。色調を抑えてグレイを基調にした映像もまた素晴らしい。さらに坂本龍一による音楽もまた美しい。そういう部分ではすべてにおいて隙がない映画だ。
役者もまた素晴らしかった。イッセー尾形は少々年齢的にとおが立っているようにみえた部分もあった。学生時代から中年までのトニー滝谷を演じているのだが、ちょっと学生としてはう〜んと思わないわけでもないにはない。でもそれは彼の演技総体からすれば瑣末なことでしかなかった。彼はこの作品のテーマともいうべき、究極の孤独が体現された存在であるトニー滝谷をきっちり演じきっている。映画を観終えると、彼以外のどんな役者でもこの映画はうまくいかなかったのではとさえ思えるくらいのはまり役だったように思う。
そして、そしてこの映画のヒロイン、トニー滝谷の妻役を演じた宮沢りえ、彼女の美しさにはもう言葉がないくらいだ。トニーの若く美しい妻。トニーをして「服を着るために生まれてきた」と言わしめるくらいに美しく服を着こなす。なにかにとりつかれたように衣服に浪費を重ねる女。着こなし、立ち居振る舞い、さらに内からにじみ出るようなはかなさ、すべてが美しい。
正直彼女がこんなに素晴らしい女優だとは思わなかったな。ずっと以前からオードリー・ヘップバーンの佳麗さはある種別次元みたいな思いをずっと抱いている。まあ美人というよりはファニー・フェースなんではあるが、私にとっては別格的存在だ。でもこの映画の宮沢りえを観ていて思った。なんだ、日本にもいるんじゃんないか、別格の女優さんがと。
良い原作と良い演出、良い音楽。良い役者さんと、別格のヒロイン。これだけ揃って失敗するはずがない。「トニー滝谷」は珠玉のような名作だと思う。この監督は買いだなと思い、ぐぐってみると悲しいことに一月近く前に脳出血で急逝されていたことを知る。
http://www.asahi.com/showbiz/nikkan/NIK200809200007.html
良い映画に巡りあい、その監督のことをもっと知ろうと思い、調べてみるとその死に行き当たる。それもほんの少し前のことだという。なんとも悲しい事実だ。そなんことを思って映画を思い返してみると、この映画には孤独、喪失感とともに、生とは正反対のものがなんとなく基調をなしているようにも思えてきた。それはけっして重々しいものではないのだけれど。