『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

  • 作者:村上 春樹
  • 発売日: 2013/04/12
  • メディア: ハードカバー
ようやく昨日、読了した。金曜から読み始めて4日くらい。本読む時間が限られ、老眼で読書スピード落ちてきていることからすれば、まあまあ早かったかな。それなりに面白かったし、いつもの、本当にいつもの村上春樹の文章、物語であり、ある種の安心感とともに、とりあえずファンとしては「たまりません」的な感覚だろうか。
内容的にどうかとか、解釈がどうのというのは、プロの読み手におまかせします。そういう分析的な読み方はもうたぶん出来ないようにも思うし、たぶん的外れなことしかでてこないようにも思う。そのうえで単なる思い付き的な感想を羅列しいきます。同じことtwitterにも書いたような気もするけど。
本作はまず、大長編の合間の中長編といったところ。昔から大作の合間にこういう作品書いていますよね、村上春樹は。比較的読みやすい小説。だいたい賛否両論でそこそこに売れてみたいな感じの。
国境の南、太陽の西』『スプートニクの恋人』『アフターダーク』などなど。個人的には『国境の南、太陽の西』に近いような印象をもった。初期の彼の主題ともいうべき、内閉的世界への逡巡や死者の世界からの回復みたいなものが鮮明になっているような気がした。『ノルウェーの森』とかとある種の同質的なものかな。
登場人物も村上春樹世界の古典的な類型みたいな感じもした。多崎つくる君は本当にいつもの村上春樹小説の主人公の典型みたいな。清潔で優等生で、人とあまり関わらない唯我独尊的なんだけど、結局けっこう巻き込まれちゃう。以前から、この手の主人公の特徴として、なんていうか無色透明みたいな印象を持っていたのだが、それをまんまキャラクターとして成立させてしまった。
さらにいえば年齢は36歳だっけ。団塊ジュニアだ。自らの年齢と割りと近い主人公を描いてきた村上春樹もたしか63〜64歳。まさしくの団塊世代だ。だもんで、いよいよ主人公の類型を世代的には子どもたちの世代にもっていかざるを得なくなったということなんだろうな。おそらく彼が日々接する編集者たちもそういう世代が中心になってきてとかもあるのかもしれない。
登場する女性たちもどことなく村上ワールドの古典的類型みたいな感じもしないでもない。シロとクロは『ノルウェイの森』の直子と緑を想起させるし、さらにいえば『国境の南、太陽の西』の島本さん、イズミ、有紀子との相関さえも感じさせる。
死の世界にいるのはシロだけど、本当のところはどうなんだろう。『ノルウェーの森』では、直子と緑に分裂した女性は、直子が死者で緑は生者みたいに比較的判りやすい対比だった。でも『国境の南、太陽の西』はより複層的な感じがした。リアル世界にいる明らかな生者である有紀子に対して島本さん、イズミは明らかに過去に存在したある種の女性が分裂した形で向こうの世界にいる幽霊のようにも思えた。
そうすると『多崎つくる』での女性たちの役回りはどうか。現在の世界で多崎つくるとつきあっている沙羅はいかにもリアルワールドの住人のようにも思える。でもどことなく実在感が薄いようにも思うし、彼女の役割はどこか主人公を過去の世界に誘う霊媒師のようでもある。彼女のだんどりで多崎つくるは名古屋へ向かい、彼をグループから放逐した昔の仲間と邂逅させる。
そこでなんていうかちょっとした疑問が浮かぶ。彼が向かった名古屋は彼が何年かに一度家の都合とかで戻るリアルワールドの名古屋なのかどうか。『ねじまき鳥』で壁の向こうに現れるパラレルワールド。それはかって『風の歌』や『ノルウェーの森』では暗示的に示された過去の世界、あるいは死者の世界がより具現化したものだった。
そのパラレルワールドは大作『1Q84』で月を二つもった世界としてより具体化してくる。そこで私の想像力はある種の疑問を提示する。多崎つくるが向かった名古屋は、アオやアカと再会したその世界は、さらに北極圏を越えて訪ねていったクロのいるフィンランドは、月は一つだったのだろうか。
それは暗示的にも隠されているようにも感じた。名古屋でアオやアカと会うのは日中である。多崎つくるは彼らの職場を訪ねる。別に夜時間を作って酒酌み交わしてもよかろうに。そしてフィンランドでクロを訪れるのも日中。もっともフィンランドは白夜でその時期、端から月は出ない。
なにがいいたいかって、多崎つくるが旧友と再会するのは、パラレルワールドなんじゃないかと。さらにいえば、彼の旧友たちはシロだけでなく、クロもアオもアカもみんなすでにこの世の存在ではない死者たちなんじゃないかと。
まあ、これは単なる個人的な思いつきで根拠がない。色を持たない多崎つくる君は、高校時代グループを作っていた、ある種のアイデンティティを共有化した友人たちに一斉に死に別れた。それが彼の究極の喪失感となって彼の人生を徹底的に規定してしまった。究極の孤独、疎外感を抱いた可哀想な多崎つくる君。彼はパラレルワールドとしての死者の世界にも、もちろんリアルワールドにも居場所をもてない存在として長く生きてきた。
そんな彼を霊媒師の沙羅は死者と対面させることで、もう一度リアルワールドに復帰させようとする。巡礼=聖地や霊場を巡拝するは、ある種の文字通りの意味性をもってくるようにも思えてくる。
ラストの曖昧さ、多崎つくるは沙羅と一緒にリアルな世界を行きぬくのかがきわめて曖昧なのは、沙羅が霊媒というある種のリアリティを持っていない存在であるからなのかもしれない。ただし多崎つくるは過去から復帰してある種の安定感を得て終わっているようにも思えた。たぶん彼はリアルワールドに復帰できたんじゃないかなと、なんとなくそれを暗示する終わり方、そういうようにも思えた。まあそんな程度でいいんじゃないかと思った。
アマゾンなどのレビューでやれ伏線が回収されていないだの、ミスターグレイこと灰田父や緑川のエピソードの唐突な終了や灰田息子の消滅のこととか批判的に書かれているのを幾つか目にした。そうだな、確かに唐突に彼らのエピソードは消滅する。でも、いいじゃないか。あえて言う、断じて言う。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は別にミステリーでも謎解き小説でもない。
村上春樹はチャンドラーの文体、雰囲気が好きだし、初期の『羊たちの冒険』や『世界の終わりと、ハードボイルド・ワンダーランド』なんかも探偵小説の手法「seek and find」を用いている。本作でもどことなくそういう初期の作品の香りとでもいうのだろうか、そういうある種の謎解きみたいな雰囲気も醸されている。でもそれがすべてじゃない。だから当然、伏線の回収なんて単純なことは起きない。そういうことなんだと思う。
個人的には灰田は当然のごとく向こうの世界の住民=死者だと思う。多崎が作り上げた幻想、あるいは死者の類なんじゃないかと思う。なんか、なんでもかんでも安易にパラレルだの死者だので解決するなといわれるかもしれないけど、とりあえず現在の、とりあえず一気読みしたところで、きわめて個人的な思いつきの、きわめて皮相的な感想です。