妻、退院する

 昨日の朝、病院の医師から電話があり、数値が良くなっているということで妻の退院の日を決めたいということだった。日にちについてはいつでもいいというので、翌日の今日の13時ということした。あとで妻にもラインすると、なんで今日じゃないんだとちょっと怒っているみたいだった。多分、相当に暇を持て余しているようだ。

 そして今日、13時ジャストに病院へ行く。すぐに担当医師と話しをすると、数値は入院前に比べると相当に良くなっている。そのうえで毎日必ずインシュリン注射を打つことが必要、ただし片麻痺のため本人一人で打つのは難しいので、必ず家族が打つようにということだった。その後については、もともと通院している近所の主治医と相談して欲しいということだった。

 その後、担当看護師から、妻は荷物をまとめていること、それが終わったら二人でもう一度インシュリン注射のやり方についてレクチャーを受けるということだった。そして別室で待つようにいわれたのだが、それからまったく音沙汰なし。しょうがないので本を読んだり、ちょっと眠ったり(いつものように寝不足)していた。30分以上経ってからようやく看護師と妻がやってきた。荷物は持って行ったカバン二つと手提げ袋一つ。

 それから二人でもう一度注射についてレクチャーを受け、例の練習パットを使って実際にやらされる。まだ二回目なので、マニュアル見ながら、見ながら。

 それからようやく病棟をあとにして、一階に降りる。その間際、妻は病室で作ったという折り紙のリースを看護師に渡したりしていた。なんでも二つ作って、一つはリハビリの先生にあげたのだとか。

 入院費の精算は、後日請求書が来てからコンビニで支払うということらしいが、きけばカードでの払いもできるという。あとからコンビニへというのも面倒なので、入退院窓口で手続きして、その場でカードで支払うことにする。金額は5万弱。もろもろの補助もあるので、10日間の入院としてはまあまあ割安かなとも思った。あとはレンタルした病院着やタオルの請求は、これは業者から請求書が後送され、こっちはコンビニ払いということになる。

 その後、外に止めた車を病院の入口に回して妻を乗せ、無事に退院した。帰りに妻が何か食べたいと言ったが、これを許しては元の木阿弥である。とりあえず近所の散歩コースのビオトープに行き、30分ちょっと遊歩道を散歩。それから買い物をして帰宅。

 家についてからは、さっそく自宅での一回目のインシュリン注射を実行。まあまあ無難にできたけど、針を刺すのがなんとも痛々しい。まあそのうち慣れるのだろうけど。

 そしてまたいつもの日常が戻ってくる。この一週間、リビングにはほとんど使っていない。自分の部屋かダイニングキッチンかのどちらかいるだけだ。なので家の中はキレイそのものなんだが、これもまた二人の生活となればそれまでのようになる。まあとっちらかされるといったら語弊があるか。

 とりあえず妻はインシュリンを打つ2型糖尿病患者となった。とはいえいくつか検査もされているので、膵臓などの隠れた内臓での疾患もないようだし、そのへんはなによりだった。あとはまあ、妻も自分も圧倒的に食べる量、アマモノを減らしていかなくてはならない。そういうものだ。 

インシュリンの打ち方

 病院でインシュリンの打ち方を教わってきた。

 前日、妻から連絡があり、病院に来たらインシュリンの打ち方をレクチャーするということらしい。入院時に、退院の時に教わるみたいに聞いていたので、あれれと思うが、まあ教えるというのだから病院へ行く。

 妻の入院している大学病院は完全看護のうえ、コロナの関連でか見舞いはシャットアウトしている。必要なものも病棟入り口で呼び出しボタンを押して、出てきた看護師に渡す。15日に入院してから一度着替えを持って行ったが、その時も看護師に渡しただけ。今回も妻と一緒にレクチャーを受けるかと思いきや、自分一人だった。

 まずエレベーターホールから病棟の入り口付近で、要件を伝える。しばらくして出てきた担当看護師から、別室に案内されてインシュリン注射のレクチャーを受ける。出てきたのは「ゾルトファイ配合注フレックスタッチ」という器具。これには薬剤(GP-1受容体作動薬)が入っていて、毎回針を交換して注射投与を行うというもの。

 このゾルトファイや交換用の針には見覚えがある。兄が糖尿でインシュリンを打っていたので、家にもあったことを思い出した。兄が何度か糖尿以外で入院するたびに、家にあるインシュリン持ってきてと言われたことがあった。当時は、どれが注入器具でどれが針だかわからず、針だけ持って行ったりして、看護師から「これだけ」などとガッカリされたこともあった。

 練習にはまずゾロトファイ配合注、消毒用のアルコール面、注射針の三点を用意する。そして練習用に出されたのが、この練習用パット。

 これをお腹に見立てる。しかし注射は大の苦手。痛みとかよりも針が刺さるところとかが絶妙に苦手なので、自分がされる時にも目を背けていることが多い。採血なんかの時でもいつもそうしている。昔はよく看護師さんに「先端恐怖症です」などと軽口言ってたけど。

 そしてまず「ゾルトファイ配合注フレックスタッチの使い方」というマニュアルを見ながら、看護師さんが一度打ち方を実演してくれる。それから「はい、やってみましょう」ということに。

 

① ゾルトファイ配合注と薬剤GLP-1(GLP-1受容体作動薬)の確認

② ペンのキャップをはずす

③ ペンのゴム栓をアルコール綿で拭う ※消毒

↓ 

④ 注射針の保護シールをはずす

⑤ 注射針をペンのゴム栓にまっすぐ奥まで刺し、止まるまで回す(上側)

⑥ 「針ケース」をまっすぐ引っ張りはずす

⑦ 「針キャップ」をまっすぐ引っ張ってはずす


⑧ ダイアル表示の数字を2単位(ドアーズ)に設定する

⑨ カートリッジ内の気泡を上部に集めるため「トントン」指先ではじく

⑩ 針崎を上に向けて注入ボタンを押し込む(薬液が出ることの確認)

⑪ ダイアル表示の確認(⑩で注入ボタンを押すと表示が「ゼロ」になる)

⑫ ダイアルを回し、指示された量に合わせる

⑬ 注射部位をアルコール綿で消毒する

⑭ 皮膚の面に対してまっすぐ根本まで針を刺す

⑮ 「カチッ」と音がするまで注入ボタンを真上から押し込む

⑯ 6秒以上注射針刺したままにする(大体ゆっくり10数えるくらい)

⑰ 注入ボタンを押したまま注射針を抜く

⑱ 注射針に「針ケース」まっすぐつけ、針ケースごと回す(下側)

⑲ まっすぐ引っ張って注射針をはずす

↓   ※使用済み注射針は医療廃棄物になるので、一般ゴミとしては捨てない

⑳ ペンにキャップをつける

  慣れてしまえば簡単なんだろうが、けっこう面倒な手順を踏む。そしてこれを必ず毎日行わなければいけない。これがかなりやっかいなことになる。そしてそれを必ず自分が打ってやらなければならない。医師の判断だと、片麻痺の妻にはこの手順を一人でやるのが難しい。なので家族の自分がやる必要があるということだ。そう、毎日である。

 片麻痺となった妻の介助はずっと自分がしている。とはいえ当初入院してリハビリを行った国立リハビリテーション病院でのOT、PTの成果もあり、妻は一人でできることが多い。着替えも時間はかかるが自分でやる。簡単な料理もできる。退院後、デイケアのOTの先生に教えてもらったという焼売を作ったときなどは、けっこう感動ものだった。

妻、焼売を作る - トムジィの日常雑記

 今、彼女が病院からもらっている薬も自分で管理している。そういうことでいえば、インシュリンもできれば自分で打ってもらいたいと思っていたのだが、投薬の手順を自分でもやってみるとこれは片手では難しいかとは思った。まずはゾルトファイ配合注を回したり、針を取り付けるのが難しい。

 しかし毎日、必ず自分がやるとなるとなるといきなりハードルが上がる。今の予定では、夕食の前の空腹時というとことで夕方に打つことになりそうだ。妻がデイサービスから帰ってくるのはだいたい4時半から5にかけてである。自分は必ずその時間に家にいて、注射を打つことになる。無職年金生活とはいえ、ぜんぜん外に出ないわけでもないので、同じ時間に注射をするために家にいるというのはかなりハードルが高い。

 試みに片麻痺の人のインシュリン注射について検索をかけると、まったく情報がない訳でもない。注射器をたてて固定するような器具もあることはあるようだ。ただしどこで入手できるのかどうかまでは判らない。このへんはもう少し調べてみる必要がありそそうだ。

 でもまずは自分が手順をマニュアルを見ずにできるようになるまで慣れる必要がある。それから準備を自分でして、実際の注射を本人にやらせるとかそういうことをやったうえで、本人にできることの領域を広げていくということになるのだと思う。

 しかし注射嫌いの自分が慣れるのかどうか。まずはそれが問題だ。

一人暮らしをしている

 妻が入院して四日になる。

 ほとんど信じがたいことではあるが、60数年生きてきてほぼ初めての一人暮らし生活である。これは笑えるかもしれない。何をしているかというと、普通に家事して普通に生活している。妻がいるときよりも規則正しく、朝は8時前に起きてきちんとゴミ出しをしているし、なんなら午前中に学習もしてたりする。20日から後期のレポート課題提出があるのだが、まだ観終わっていないビデオ授業がいくつもある。

 金曜日は久々友人と酒を飲んだが、さほど深酒もしていない。もうあまり食べれないし、酒量も確実に減っている。

 昨日は妻からスマホの充電ケーブルが見当たらないと連絡があったので病院に着替えとかと一緒に持って行った。充電ケーブルは当然荷物の中に入れておいたので探せないだけだった。案の定、病院につくと看護師がありましたと言ってきた。妻の話では、充電ケーブルは白いものとばかり思っていたら、黒い網目のものだったからとのこと。まあよくあることだ。

 病院はコロナが始まってからずっと面会を禁止している。とにかく徹底していて、着替えとかを持ってきても、エレベータホールから呼び出しボタンを押して看護師を呼び出して持ってきたものを渡して終了である。病室に入るどころか、病棟内にも立ち入りができない。

 病院を出て車を走らせてしばらくすると妻から電話があって、充電ケーブルがあったこととそれで充電を始めたので電話がかけられたこととか言っている。下着類は自分で洗濯するつもりだけど、洗濯代が150円なので50円玉がいるとか言っている。なのでテレビカードで洗濯ができるはずだと話すと、よく見てみるとか。

 しかしこういうことになると、妻と顔を会わすのは退院間際までないかもしれない。まあそれでどうのということもないが。妻はというと、多分退屈だろうから、けっこう電話をしてくるように思う。今日も二度電話があったくらいだし。

 そして一人暮らしである。思えばずっと家族と暮らしてきたし、誰かのお世話をするような、そんな人生だったような気がしている。

 自分に母はいない。自分が多分5歳くらいの頃に父と母は離別している。それ以来、母とは会っていないから、母の記憶は欠落している。2年前に兄が亡くなったときに相続がらみのことで戸籍関係を調べていくとその3年前に亡くなっていることが判った。かなりの長命だったようだ。

 自分は長く父と兄と祖母の四人で暮らしていた。ずっと祖母が家事をしていたが、高齢になってからは掃除や洗濯などは自分がするようになった。多分中学の後半くらいからだろうか。そして自分が30の時に父が亡くなり、祖母も寝たきりになった。祖母の介護とかも当然したし、汚い話だが下の世話とかも普通にせざるを得なかった。

 そして祖母が特養に入ってからはしばらく兄と二人暮らしをした。お互い干渉しあわなかったが、当然家事は自分がしていた。

 40を前に結婚して共稼ぎ生活となり子どもも出来て、家事育児を分担する生活が続いた。でも10年と少ししたときに妻が病気で身障者となった。家事育児と介護の生活。

 妻は最初に8ヶ月入院した。その後も検査で2週間くらい入院したこともある。そのときには子どもがいたから、当然子ども一緒に生活をしていた。

 そして今回の妻の入院である。子どもは家を出ているので、2週間限定とはいえ完全な一人暮らしである。還暦過ぎて、いや四捨五入すれば70代というところでいきなり初めての一人暮らしである。若い時分なら遊ぶとか飲み歩くとか、そういうこともあるかもしれないが、さすがにそんな元気もない。

 一人で過ごす夜といってもなんの感慨もない。一人の時間を満喫できるか、いやなぜかせわしなく家事している。今日はなにをしたか、週に一度の掃除の日である。ずっと毎週土曜日か日曜日に掃除をしている。昨日は病院に行く用事もありそのあと少し買い物をしたりとかあったので掃除できなかった。

 掃除のついでに妻の寝室、衣服やらなんやらで散らかった部屋を少し整理した。さらにリビングのコタツ回り、ふだん妻が趣味の折り紙をしているあたりの整理もした。妻は片麻痺で右手しか使えないのだが、それなりに器用にいろいろ作品を作っている。デイでも褒められたり、利用者の方やスタッフから作って欲しいとリクエストされたりもするのだとか。

 そうなるとコタツ回りは折り紙の破片とか諸々が散乱する。よく文房具屋や画材屋で折り紙が欲しいと言うので買ってあげる。折り紙は次第に増えていき、少し使ったもの、未使用のものなどが散乱する。仕方なくキャスター付きの簡易的なキャビネットを買ったが、その引き出しも満杯状態だ。そのうち整理しようと思っていたのでいい機会でもあり折り紙や文具類を整理する。

 この間、無くなったと言っていた腕時計が二つ見つかった。一つはベッド脇のワゴンの奥の方から。もう一つは折り紙の入ったキャビネットの奥底から。どっちだったか忘れたが、たしか父親からもらった大事なものだったとか言っていたやつだと思う。まあそういうものだ。

 そして掃除をして買い物に出かけ、帰宅後簡単な食事を作って食べる。そうして一日が終了した。老人の初めての一人暮らしなんてそんなものかもしれない。ぼーっとしていれば二週間なんてあっという間だし、妻が戻ってくればそれまでの日常に戻るだけのことである。何か新しいことなんていうことは何もありません。

 まあ最後なので、以前妻が作った折り紙作品らしきものでもアップしておきますか。

 

妻、入院する

 妻が入院した。

 糖尿病の治療である。当初、教育的なものかと思っていたが、治療がメインのようだ。本人あまり自覚はないようだが、数値的にはかなりヤバいものになっている。

 当初、医師から聞いていた予定は15日だったが、正式には前日に連絡しますとのこと。そのとおりに昨日の朝、連絡があった。

 病院には1時に行くことになっている。妻は最後の晩餐(昼食だけど)だということでお昼を外食したいと言っている。そういえばここ数日、最後の晩餐週間みたいに、外食が続いている。とはいえ年金暮らしなのでつつましい生活、せいぜいファミレスばっかりだけど。あとは月曜からすでにデイサービスをやめているので、昼飯もちょっとおしゃれなカフェでランチみたいなこともあった。

 先週、定期健診で通っている病院の神経内科の先生に、糖尿病で入院することを告げると、若い女医さんニコリとしながら「厳しいわよ」とおっしゃっていた。妻は最後の晩餐モードになったのは多分それからだと思う。

 いろいろと準備はしてあったのだけど、結局家を出るのが遅かったのであまり時間もなく、早めの昼食も病院から割と近いマックになった。お互いセットを頼んだけど、一つはポテト、一つはサラダにしたのだけど、サラダは当然妻が食べた。ポテトは二人で食べたけど。

 1時ジャストに病院に入り、最初にまずコロナの抗原検査を受ける。ここで陽性となると多分入院は延期になるのだろう。そのあと入院受付窓口で手続きしてから病棟へという流れになる。

 まずは妻を病院の1階入り口で下して車いすに乗せて、自分は車を駐車場へ。病院に一番近い障害者用駐車場に、昼過ぎで外来患者もだいぶはけるだろうと淡い期待で行ってみると満車状態。入口のバーの前で待たされる。もう1時を過ぎているのでかなりあせる。10分ちょっと待ってようやく1台出ていく車があり入ることができる。

 出ていく車の人は、高齢者だけど別に車いすでもなく、当然障害者でもない。いちおうこの駐車場は障害者専用なんだけども。やはり入口で手帳や駐車禁止等除外標章を提示するとかしないといけないのだろうか。もっともこの病院はもともと駐車場スペースが限られる。高齢化社会にあっては十分な駐車スペースを設けないと、みんな便利な身障者スペースを使うのだろうなとは思う。

 やや遅れて妻と合流してすぐに2階の抗原検査の場所へ。そこで15分くらい待ってからようやく検査してもらい、それから入院受付窓口に行く。そこでもやはり15分くらい待ってから窓口の女性に必要書類を渡して手続きを終える。それから本館と棟続きの別の棟に移動して9階の病室へ。

 そこではまず主治医から簡単な入院治療について説明を受ける。入院を決めるために前に訪れた時の先生とは別の医師でかなり若い。さらにその横にインターンらしき若い女医さんもついているが、その先生は一言も発せず、主治医の先生だけが説明してくれる。

 当初は一週間から10日という入院期間と聞いていたのだが、若い主治医の先生は10日から二週間くらいと。治療を中心に、そこに教育プログラムを組み込む。入院中もインシュリンを投与するが、退院後も自分で続けて投与してもらうという。妻、インシュリン注射決定の瞬間である。妻は一応数値がよくなれば投与はしなくてもみたいに抵抗はしていたが、どうもこれは決定のようである。妻が障害者であるということもあり、「ご主人にも注射の仕方とか覚えていただかないと」ということらしい。

 自分、注射はするのも人がされるのも嫌いだし、いつも目を背けているのにできるのかどうか。まあいいか、これまでも妻の病気関連ではいろいろとクリアしてきてるからなんとかなるか。いや、なんとかしないといけないんだな。

 その後は担当看護師から説明を受けて妻は病棟へ。この病院は完全看護のうえにコロナの影響で、家族を含めて入院者以外は病棟に入れないきまりなので、妻とはナースステーションの前でお別れ。荷物も看護師に預けてさよならとなった。

 結局、1時に病院に入って、妻と別れたのが3時少し前くらいだっただろうか。これまでの経験からすれば、えらいことシステムアップしていて、入院までの時間も短縮されているような印象だ。

 これで二週間、妻は糖尿病の治療を受ける。まあこのまま数値が悪くなって、気がついたら合併症が出て悪化して・・・・・・、みたいなことからすれば、改善とまでいかなくても悪化をとどめるという点でもいいきっかけだったかもしれない。

 駐車場から車を出して少し走り始めたところで、さっそく妻から電話があって、あれがない、これがないとか、化粧落としをもってこなかったとか諸々言い出す。そこで必要なもの、忘れたものをラインにして。土曜日にまとめてもっていくからと言って電話をきった。

 そのあとは、時間も早かったのでいつもは妻の車いすを押して散歩する高麗川遊歩道に一人で生き、7~8キロ歩いて帰った。

バート・バカラック死去

 昨晩遅く、TwitterのタイムラインにやたらとBurt Bacharachの文字や彼の画像が流れてきた。ひょっとしたらと検索をかけるとニューヨーク・タイムズtweetで彼が死去したことが判った。

 

(閲覧:2023年2月10日)

 94歳、自宅で亡くなったということ。大往生といえることか。

 まあ正直いつ訃報を飛び込んできてもしょうがないかとは思っていた。最後に来日したのが9年前の2014年だったか。そのときの映像を見ても随分と老けたなという印象があった。オーケストラの前で何曲かピアノを弾き、か細く歌う。観客にとっては、もう動くバカラックを見ることができるだけでいいや、みたいな感覚だったのではないか。当時で85歳くらいである。そして2020年にも来日が決まっていたが、コロナ禍の渡航制限もあり公演は中止になったという。

バート・バカラック、4月の来日公演が中止に (2020/03/26) 洋楽ニュース|音楽情報サイトrockinon.com(ロッキング・オン ドットコム) (閲覧:2023年2月10日)

 改めてバート・バカラックの足跡を確認してみる。上記のニューヨーク・タイムズの評伝は詳細であり、Googleの日本語翻訳でも大意はつかめる(フィフス・ディメンションが5次元になるとかは置いておくけど)。

 またウィキペディアやでRollin' Stone Japanのサイトでも彼の長いキャリアのおおまかは確認できる。

バート・バカラック - Wikipedia (閲覧:2023年2月10日)

バート・バカラックが94歳で死去 20世紀を代表するポップス作曲家 | Rolling Stone Japan(ローリングストーン ジャパン) (閲覧:2023年2月10日)

 もともとはマレーネ・ディトリッヒに見い出され、彼女のショーのアレンジ・指揮、 専属ピアニストとしてキャリアを出発させた。それから映画音楽やポップス・シーンでハル・デヴィッドと組んで数々の成功を収める。バカラック、デヴィッド、そしてコーラス・ガールからバカラックが見出したディオンヌ・ワーウィックとのトリオでの多くのヒット曲。

 さらに女優アンジー・ディッキンソンとの結婚。バカラックは四度結婚しているが、ディキンソンは二番目の妻だったか。彼女の代表作を一つ選ぶとしたら、ハワード・ホークス監督、ジョン・ウェインディーン・マーティンが主演した「リオ・ブラボー」あたりか。気のいい酒場の鉄火場女は印象的だった。

 バカラックは1973年にミュージカル映画「失われた地平線」の失敗から長く低迷する。80年代三人目の妻となるキャロル・ベイヤー・セイガーとのコンビで復活する。クリストファー・クロスの「ニューヨーク・シティ・セレナーデ」がこの時代の代表作だろうか。

 個人的には、特筆すべきはジョージ・ロイ・ヒルの「明日に向かって撃て」の映画音楽を担当したことだろうか。

 自分は多分この映画からバカラックに入ったと思う。多分、映画を観てあの美しい自転車シーンとそのバックで流れるB.J.トーマスの「雨に濡れても」に魅了され、全編スキャットで演じられる「South America Gateway」に痺れた。

 当時、横浜桜木町から近い紅葉坂に青少年センター会館があり、そこには広い学習室や視聴覚教室などがあった。その視聴覚教室では時々レコード・コンサートが開かれていた。館のスタッフかボランティアの方がレコードをかけ、時々曲や演奏者の解説を行うようなプログラムだったか。そこでは映画音楽からフォーク、ロックなど多種多様な音楽を聴くことができた。自分はそこで初めて井上陽水を聴いたように覚えている。

 中学生の時、多分学習室で勉強していて飽きてきたためか、たまたま開かれていたレコード・コンサートに顔を出した時かかっていたのが、この「明日に向かって撃て」のサントラだった。すでに映画は観ていたように記憶しているのだが、これに痺れた。

 そしてそれからほど近い時期に、親に頼み込んで買ってもらったのがこの二枚組のレコードアルバムだ。

BURT BACHARACH GOLDEN DOUBLE DELUXE

 1971年リリースで3000円。中学生にとっては高価である。よく買ってくれたなあと思ったりもする。確か秋葉原電気屋のレコード売り場で買ってもらった。もう嬉しくて嬉しくて、帰りはずっと抱きしめるようにしていたし、翌日からはずっと繰り返し繰り返し聴いた。

 多分、中学三年生かそこらの時期だから、おおよそ51年前のことになる。もちろんいまも持っているし普通に聴ける。今も久々、ターンテーブルにのっけて聴いている。アルバムも豪華な仕様で真ん中には大きなバカラックのポートレイトまでついている。

 

 解説はジャズ評論家の大家岩波洋三氏である。

 収録曲は以下のとおりだ。

A面

1.雨に濡れても (”明日に向かって”より)

2.恋よ、さようなら(ミュージカル”プロミス、プロミス”より)

3.エニー・デイ・ナウ

4.ボンド・ストリート(”007/カジノ・ロワイヤル”より)

5.永遠の誓い(ミュージカル”プロミス、プロミス”より)

6.涙でさようなら(ヴォーカル・バート・バカラック

B面

1.恋のおもかげ(”007/カジノ・ロワイヤル”より)

2.プロミス、プロミス(ミュージカル”プロミス、プロミス”より)

3.リーチ・アウト

4.世界の窓と窓

5.自由への道(”明日に向かって”より)

C面

1.サン・ホセへの道

2.アルフィー

3.小さな願い

4.サンダンス・キッド(”明日に向かって”より)

5.去りし時を知って(ミュージカル”プロミス、プロミス”より)

6.ア・ハウス・イズ・ノット・ア・ホーム(ヴォーカル・バート・バカラック

D面

1.愛を求めて

2.太陽をつかもう(”明日に向かって”より)

3.メッセージ・トゥ・マイケル

4.パシフィック・コースト・ハイウェイ

5.ディス・ガイ(ヴォーカル・バート・バカラック

 1枚目のA面1曲目の「雨にぬれても」のインストルメンタルが流れるといろいろな思いでが蘇るような気がする。


www.youtube.com (閲覧:2023年2月10日)

 そしてサントラ盤からの採録の全編スキャットによる「South Anerica Gateway」。

  

(閲覧:2023年2月10日)

 自分がバカラックのメロディに魅了されたのは、まあ多くの人がそうかもしれない、ポップでありながら抒情性、ペーソスのようなものを感じさせる「雨にぬれても」だと思う。でもバカラックサウンドを彼の指揮アレンジによるこの二枚目アルバムから聴き始めたのは、バカラック体験としてはけっこう良いスタートだったように思っている。

 バカラックサウンドの特徴は、一般的には複雑なコード進行、ジャズ的エッセンスなどと説明される。これにディオンヌ・ワーウィックによって歌われたこともありモータウン、ソウル風エッセンスも。さらに60年代アメリカで流行したボサノバなども取り入れられている。

 このへんからは個人の感想、趣味、思い込みの部分ばかりだけど、彼のアレンジは特徴的なストリングス、さらにトランペットやフリューゲルホルンの効果的使用、さらにオルガン、時にはウクレレなど、一般的なポップス・オーケストラではあまり使用されない楽器を使ったり。

 そしてバカラックがブレイクした60年代から70年代前半にかけて在籍したのがA&Mレコードだ。クリード・テイラーをヴァーブから引き抜いてCTIレーベルを創り洗練されたイージー・リスニング・ジャズを確立したレコード会社である。このA&Mで音作りをしたのはバカラックサウンドが結実するのに大きな影響があったのではないかと、そんなことを思っている。以前、そのへんのことはロジャー・ニコルズについて書いたときに、ほとんど思い込みによるものだけど、その時の感想は今も変わっていない。

ロジャー・ニコルズ ROGER NICHOLS&THE SMALL CIRCLE OF FRIENDS - トムジィの日常雑記

 そしてバカラックA&Mといえば、彼の秘蔵子として売り出されたカーペンターズを思い出す。彼らの最初のヒット曲「CLOSE TO YOU」もバカラックによるものだ。デビューしたての頃、カーペンターズバカラック・メロディをライブで必ずというくらいに演奏していた。


www.youtube.com

 

 この動画はおそらくテレビでの収録でなんとなく口パク的だが次の動画はライブ、しかも多分傷痍軍人を慰問したときのもののようだ。これは間違いなく実際に演奏しており、カーペンターズがライブバンドとしてもかなりの実力の持ち主であり、リチャードのピアノプレイも見事だし、もちろんカレンの歌声は素晴らしく、ドラムもきちんと叩いている。なによりも彼らのコーラスワークの見事さ。

 バカラックというとディオンヌ・ワーウィックがそのサウンドの体現者のようにいわれるが、カーペンターズもまたバカラックサウンドの判りやすく伝えたミュージシャンだったと改めて思ったりもする。

(閲覧:2023年2月10日)

 カレンの美しい歌声に聴き惚れていて思い出したが、カレンの命日は2月4日だった。1983年、もう40年も前のことになるのか。

 自分にとってバート・バカラックビートルズで音楽趣味を形成したような、一番のベースになる人だった。

 かってクラシック三大B(バッハ、ベートーベン、ブラームス)にならってポップス三大Bなんていうのがあったような気がする。ビートルズバカラックでもう一人が思い出せない。ネット検索するとビージーズなんていうのが出てくるがどうも違うような気がする。それならまだビーチ・ボーイズの方がましなような気がする。個人的にはなんとなくアーヴィン・バーリンあたりでいいかなと思ったりもする。

 そういえばビートルズもたしかバカラックをカバーしているのがあった。多分これだな。

(閲覧:2023年2月10日)

 これはオリジナルのR&Bコーラスグループ、シュレルズをカバーしたものだ。

 

 今日は朝からずっと、バカラックの曲を聴いている。iTunesバカラックのプレイリストには約150曲、9時間弱収録してある。雪がしんしんと降る中しんみりとバカラックのメロディに浸っている。

 自分の音楽的趣味を形成した大きな部分、そのクリエイターが鬼籍に入った。なにか無性に淋しい。そして20世紀が、自分がまだ若く、自分が形成された時代が遠くなっていくのを感じる。中村草田男ではないが、こんな気分である。

降る雪や 20世紀は 遠くなりにけり

丸二日寝込んでいた。そしてマイナカード

 日曜の夜から月、火と体調不良で寝込んでいた。

 主な症状はふらつき、もうとにかくふらふらしている。これで発熱でもしていれば、風邪とか、ついにコロナにつかまったかと思うところだが、熱は平熱のまま。咳もないし喉も痛くない。去年、コロナに罹った子どもが(軽かった)、一日、二日発熱、後は咳、喉の痛みと鼻水と言ってたけど、いずれもない。そろそろ花粉が出始めてていて、鼻水ずるずるが始まるところなのだが、それもない。とにかくふらふらして起きているのがしんどい。

 後はかなり喉が渇くのと頻尿だったか。日曜は下痢とかがあったが、月曜からそれもばったりとなかった。なので一応常備しているコロナの抗原検査キットも使おうかどうしようか考えてやめた。とにかく寝ていた。食欲もほとんどないので、去年淡路で買った玉葱スープの素を使ったおかゆを二食くらい。妻ともあまり接触しないようにしていた。

 コロナでないとしても、風邪の類であれば、来週から入院するのに染すのも気がひける。入院の延期なんてことも困る。

 寝ているときに考えたのだが、これって疲労とか脱水症状とかそういうことではないのかと思った。というのは、先週はとにかく歩いた。

水曜 17.7キロ

木曜   4.4キロ

金曜   6.6キロ

土曜 16.4キロ

日曜 11.1キロ

 日曜は散歩している間もなんだかやけに喉が渇いていた。でもトイレのこともあるのであまり水分をとらなかった。結局、これかなと思ったりもする。脱水状態と疲労

 還暦も遠に過ぎた身で、いきなり運動過多。そういうことだったのだろうか。

 昨日は、まだ若干ふらつきがあったが、午前中は妻の神経内科の定期的な通院があり、病院に送っていく。小1時間で終わったのでいったん家に帰り、30分ちょっと寝ていた。本当にちょっとの時間でも寝ることができる。

 午後は、市役所に申し込んでいたマイナカードの受け取りに行く。基本的にはマイナカードには反対である。性急過ぎるし、使用目的が不明瞭だ。IT社会であるので様々な社会生活において統一したIDナンバーが必要というのは判らないでもない。一方で国民背番号制みたいなものにはなんとなくヤバさを感じないでもない。管理社会の弊害、オーウェルの『1984』ではないが、国家による個人管理にはきな臭いものを感じる。

 そもそものところ、マイナンバーも携帯したり保険証代わりなどということはなかったのでは。個人情報保護や流失、悪用などのセキュリテイ面からも厳重保管のはずだった。マイナンバーカードが始まり、各人に通知カードが届いた頃、企業がなにを求められたか。年末調整などの税務に必要なので社員からマイナンバーを預かる。しかし厳重保管のため、マイナンバーを扱う社員を限定する、コンピューターも通常のネットワークから切り離し、保管スペースは別室など用意する。そしてそれらを明記した個人情報保護規定を作成する。

 当時、そういう規定を作ったり、社員に説明するなどの仕事のほとんどが自分の管轄だったので、けっこうシンドイ思いして規定作りや、何度も社員への説明とかした記憶がある。マイナカードが保険証のように携帯可能なものとなると、あの個人情報保護規定はなんだったのかと思ったりもする。今、企業では諸々改訂作業とかしているのだろうか。

 だいたいにおいて個人IDが必要だということであれば、アメリカのような社会保険番号、まあ日本だったら年金の番号で十分のような気もする。なぜ新たなID番号を作り、それに様々な他の番号なりなんなりを紐づけるのか。結局、それに関わる管理コストが諸々ビジネスとなって金が落ちるということ、そこに利権が生まれたりとか、そういうことを勘繰る訳だ。

 マイナカードを保険証として利用する、それによって健康情報の一元管理が可能となり、国民にも利便性が高まるというけど、そもそもそんな大きなシステムが現在のところ構築されているのだろうか。いつも思うのだが、各病院、各医院、ようするに医療機関のシステムは、おそらく個別である。そういう分散された閉じたシステムをすべて連結できるのかどうか。

 例えばだが、各患者のカルテ情報は今電子化されつつある。通院のときに医師は患者を問診しながら、画面にもろもろ入力している。今では手書きカルテなどあまり見ることはないかもしれない。でもカルテの保有は結局のところ各医療機関である。そもそも患者にとっては自身の個人情報=健康情報なのであるけど、それを閲覧することはまずありえない。各医院に請求すると医療情報として有料で提示されるような仕組みのはずだ。

 マイナカード=保険証で一元管理されたときに、カルテ情報は医療機関で共有されたり、患者が開示閲覧を求めたら、すぐに端末やスマホで見ることができるようになるか。多分、絶対にならないだろう。

 まあそんなことを考えるていくと、マイナカードなど絶対にうまく運用できるとは思えない。そもそもこの国の政府、社会が大きなシステムをうまく運用できる訳がない。おそらくかなり早い段階で、みずほのシステムのように様々にダウンするに違いないと踏んでいる。

 とはいえ、基本的に小市民である。マイナカードの申請率がすでに国民の7割近く達するという状況らしい。そうなると中庸も目指す小市民としては、あくまで徹底抗戦とはいかない。なので今回は申請取得した。別にポイントに目が眩んだ訳ではない。妻はここのところずっと「早くしないと、ポイントが」とテレビ報道などに煽られるままに言っていたけど。

 マイナカードの取得手続きはなんだかんだで30分くらいで終わった。マイナポイントは一応健康保険証利用の申し込みで7500ポイントが決裁サービスに付与される。以上である。帰宅後、それまで通知カードを保管していたところに二人分のマイナカードを放り込んで終了。

 今日はというと、まだ若干ふらふらする。

ウエスト・サイド・ストーリー

 ずっと観たいと思っていたが、ようやくディズニー+で観た。

ウエスト・サイド・ストーリー | Disney+

 レビューなども高評価であり、観た知人、友人たちもだいたいが「面白かった」と口を揃えていう。なのでいつかは観ないととは思っていた。でも、少し前までは劇場公開が終わっても半年とか1年とかすれば必ずDVDが発売され、TSUTAYAでもレンタルできる。でも今ではDVDやブルーレイの販売はあるが、たいていは有料配信サイトによるサブスクになっている。こうした目玉的作品はというと、有料配信されない。

 「ウェスト・サイド・ストーリー」もディズニーが配給に関わっており、ディズニー+でのみ配信されている。自分のところはここ数年、AmazonプライムNetflixの有料会員だが、さらに会員になるのもなあ~という思いでいた。年金生活者にはけっこうこういうのも負担ではある。とはいえビートルズの「Get Back」がどうしても観たくて、暮れに会員になっちゃったけれど。

 しかし「Get Back」は、延々痴話げんかが続くし、ポールは才能あるけど独善的だし、ジョンはいい加減過ぎるし、ジョージはナイーブだし、リンゴはいい奴過ぎるしと、とにかく長すぎた。あれは同世代的に聴いてきたビートルズ・ファン以外にはちょっとシンドイドキュメンタリーかもしれないな。

 ということで「ウエスト・サイド・ストーリー」である。その感想は率直にいえば微妙である。やはり前作が偉大過ぎた。というか前作は、お気楽ミュージカルに初めて社会的なテーマを含めたという画期的な部分、大規模なニューヨークでの屋外ロケ、そしてあの横長巨大なシネマスコープ。なにからなにまでが斬新だった。といってもジェローム・ロビンス振付のダンスナンバー、レナード・バーンスタインの音楽は素晴らしいけれど、劇映画としてはどうか、ストーリー展開はというと、いささか陳腐だったかもしれない。それをあの大画面、音楽、躍動的なダンスという力業で押し切ったのだと、そんな風に思っている。

 すべてにわたって個人の思い込み的感想でしかないけれど、いっちゃなんだが、同じロバート・ワイズ作品のミュージカルでは「サウンド・オブ・ミュージック」の方が遥かに出来が良いとは思う。やっぱり主役の差だろうか。ある部分ジュリー・アンドリュースは一人で映画をもたせるけれど、「ウエスト・サイド物語*1は主役の一人、二人でもたせるのではなく、あくまで集団劇で展開している。

 とはいえ「ウエスト・サイド物語」では、マリア役のナタリー・ウッドが唯一の一枚看板の大スターだ。歌も吹き替え、ダンス・シーンもほとんどない彼女を主役に持ってきたのは多分、興行上客を呼べるスターを使うっていうことだったのだろう。リチャード・ベイマー、ラス・タンブリン、ジョージ・チャキリス、リタ・モレノでは弱すぎる。もっともナタリー・ウッドはこの映画に出るにあたって、自ら歌う気満々だったようだし、実際に歌っていてのが吹き替えられたことでお怒りになったらしいけれど。

 60年代の大作ミュージカルでは、ヒロインを歌わない(歌えない)大スターに演じさせ、専門歌手が吹き替えはよく行われていた。「マイ・フェア・レディ」のオードリー・ヘップバーン、「王様と私」のデボラ・カー、そして「ウエスト・サイド物語」のナタリー・ウッド。いずれも吹き替えで歌っているのはマーニー・ニクソンである。

マーニ・ニクソン - Wikipedia (閲覧:2023年2月9日)

 話がほとんど1961年の旧作の方にいってしまったが、2021年のスピルバーグ版のである。いい映画だし、原作(ブロードウェイ・ミュージカル)により忠実らしい。「ロミオとジュリエット」を現代に翻案し、人種差別や貧困という社会的テーマを盛り込んだ作品としていえば、及第点以上とは思う。スピルバーグの演出もそつないし、若い役者さんたちもよく演じている。でもね、どうしても前作と比べてしまうのだよ。するとどうしても物足りなさが出てくる。

 主役のトニー役はアンセル・エルゴートも悪くない。もともとトニー役は前作のリチャード・ベイマーもそうだったけど、共演者に比べると役回りはでくの坊的。ナイスガイだけど、踊りがうまいわけでもない。当然、歌も吹き替え。まあヒロインのスターの相手役的存在だ(刺身のつまとは言わないが)。それを考えると今回もけっこう無難にこなしているように思う。まあヒロイン役が新人なのだから。

 この若い長身の俳優、どこか見覚えあるなと思っていたら、ジョン・グリーンの「さよならを待つふたり」を映画化した「きっと、星のせいじゃない」で若くしてガンに侵された男の子役を演じていた彼だった。あの小説も映画もアメリカでは評判だったらしいけど、日本ではさっぱりだったみたい。

 そしてマリア役のレイチェル・ゼグラー、小柄だけど多分歌も上手い。なかなか魅力的だ。でも、やっぱり華がないというか、なんかこのニューフェイスの娘を見ると、ナタリー・ウッドって偉大だったんだなと思ったりもした。子役からアイドル女優となりそのまま人気女優のポジションを確保したナタリー・ウッドは単なるエリザベス・テイラーの小物的コピーじゃなかったんだなと。

 今回、この「ストーリー」の後に旧作「物語」も観返したけれど、やっぱりナタリー・ウッドの存在感は抜群だ。明らかに主演女優として演じているし、そういう風に撮られている。監督ロバート・ワイズもきちんと主演女優を際立たせる演出、カメラワークしていると思う。そういう点でいうと、レイチェル・ゼグラーにはこの役は荷が重すぎたかもしれない。

 さらにいうとスティーブン・スピルバーグは確かに自分たちの世代の名監督、名匠である。様々な話題作、大作をものにしてきている。おそらく現代のハリウッドの名監督という点ではスピルバーグとスコセッシが双璧ということになるのではないか。とはいえ、この人は観客の度肝を抜くような演出、ストーリー展開、ある意味スペクタクルの巨匠でもある。逆に小品的な作品だとどこか凡庸な感じもしないでもない。

 そしてなによりも演出力の人ではあるが、役者を際立たせるような作品あまりなにようにも思ってしまう。男優を際立たせるとか女優をとにかく美しく見せるとか、そういう役者の良さを最大限に引き立てるような演出はあまり上手じゃない、あるいはやらない人という感じがしないでもない。

 このへんは出自というか、大学で映画を勉強して独立プロで映画作りをはじめてテレビドラマから入った人という部分もあるのかもしれない。ハリウッドのスターシステムでの映画作りとかとどこか無縁の人みたいな。

 なので実をいうと今回の映画でも、役者さんたちはあまり魅力的ではない。主役の二人はともかくとして、ドラマやダンスナンバーを際立たせる助演陣が今一つ輝いていない。リフ役のマイク・ファイスト、ベルナルド役デヴィッド・アルバレスも全然華がない。唯一アニタ役のアリアナ・デボーズがリタ・モレノのそれを踏襲している。まあ助演陣の中では一番キャリアがあるようだけど。

 観ていて微妙さを感じた要因の一番はこのへん、助演陣の力不足というか際立たせkたが今一つというところかもしれない。もともと群像劇、群舞の魅力によって成立しているのに、そこが弱すぎるというところが。ようは躍動感あるラス・タンブリン、どこまでもかっこいいジョージ・チャキリス、この二人がいない、この二人に代わるべき役者がいない、そこがすべてなのかもしれない。

 そして極論的にいってしまえば、スピルバーグは大好きな監督だけど、巨大トラック、鮫、巨大UFO、恐竜、戦争スペクタクルのリアリズムは描くことができるけれど、人をきちんと描くことには長けていない。そういう人じゃないかと。いや自分はかなりスピルバーグが好きな監督ではあるのだけど。

 ということで、今回の「ウエスト・サイド・ストーリー」を観終わって、すぐにDVDのライブラリーから旧作「ウエスト・サイド物語」を引っ張り出して、結局新旧二本立てみたいにして観てしまった。まあこうやって新作をディスって旧作持ち上げているのは、どこか老人の遠吠え的な感もないではないとは思うけど。

 もう一度「ウエスト・サイド・ストーリー」を観るかとなると、これも微妙である。まあ長生きしたらもう一、二回くらいは観るとは思う。でもって「ウエスト・サイド物語」はというと、多分これまでにも劇場、DVDと何十回と観ているけど、きっとこれからも何度も観ることになるのではないかとそう思ったりもする。

 新作「ストーリー」を良いと言っていた友人にそんな話をすると、そこまで酷くないということと、旧作への思い入れみたいな部分を指摘された。でもって、とりあえずお互い確認したのは、結局のところこのリメイクはスピルバーグは撮りたかったということに尽きるということなんだろう。どこかの記事で読んだがスピルバーグもそんなことを言っていたみたい。

「ずっとミュージカルを作りたいと思っていた。挑むべき作品を探しつづけてきました」と、幼少期からの夢を叶えた念願の企画であることを明かす。

スティーヴン・スピルバーグが明かす、『ウエスト・サイド・ストーリー』を現代に蘇らせた意義|最新の映画ニュースならMOVIE WALKER PRESS

(閲覧:2023年2月9日)

 長いキャリアの中で初のミュージカルか。そしてきっと若い時に胸ときめかした旧作をリメイクしたかったのだろう。でもね、どうせならもっと違う映画にアプローチしても良かったのじゃないかと思ったりもする。まだ「サウンド・オブ・ミュージックj」の方がアルプスでの屋外ロケやナチスの迫害とかが題材となるので、スピルバーグ的ではないかと思ったりもする。なんといっても「シンドラー」や「ミュンヘン」撮ってる人なのだから。

 さらにいえば、いっそのこと自作のミュージカル・リメイクなんかも面白かったのではないかとそんな気もしないでもない。そう、「未知との遭遇」とか「ジュラシック・パーク」とか・・・・・・。

 個人的には「ウエスト・サイド・ストーリー」として現代版を作るとしたら、多分40年くらい前だったのではないかと思ったりもする。同じ移民でも白人系とストレートに黒人。そして、マイケル・ジャクソンにベルナルド役をやらせたかった。彼だったら、ジョージ・チャキリスを超える異次元のカッコ良さでダンスナンバーを引きたてたに違いない。

 こうやって諸々妄想できるのも映画の愉しみ、映画を観終わった後の楽しみの一つでもある。

 

2021年版

ウエスト・サイド・ストーリー (映画) - Wikipedia (閲覧:2023年2月9日)


www.youtube.com

 

1961年版

ウエスト・サイド物語 (映画) - Wikipedia (悦雁:2023年2月9日)


www.youtube.com

*1:便宜的に旧作は「物語」、新作は「・ストーリー」としているみたい