『ゴジラ-1.0』 (5月1日)

 

 近所のシネコンで『ゴジラ-1.0』を観た。Amazonプライムで視聴可能になるようなのだが、妻がゴジラは大画面で観たいと宣うので。

 以下感想だけど、多分ネタバレ満載かもしれない。まあいいか。

 ゴジラが殺伐としていて、大量殺戮するところなどは、これまでのゴジラ映画とはちょっと違う部分もあるが、人間ドラマ部分のあまりにもご都合主義的な設定にはいささか興ざめする部分もある。

 良かったのは伊福部昭の音楽!

 ゴジラ駆逐作戦の途中やエンドクレジットであの音楽がかかると、なんとなくゴジラらしいと思ったり。安定の伊福部昭だ。

 結局のところ、VFXというのか、コンピューターグラフィックスで映像化された戦後まもない日本と、そこを襲うゴジラの迫力ある画面が売りというのだが、盛り上がったのは自分にはあの音楽だけだったというオチだった。

 今回の-1.0の意味は、敗戦で焼け野原になってゼロから再出発する戦後日本をまた焦土と化すゴジラの襲撃という意味で、-1.0と名付けたということらしい。もしくは1950年代の第1作そのその前史という意味合いもあるのだろうか。

 CGによって作り出されたゴジラは迫力がある。しかし人間ドラマ部分のご都合主義と類型化があまりにもアレだ。戦後まもないとはいえ、安易に特攻崩れを主人公とする必要があるか。そして最後にゴジラに特攻を試みて、自らの戦争にけりをつけるという点も、突っ込みどころが多すぎる。

 まず前提として戦後まもない日本をゴジラが襲撃する。当時日本は進駐軍と称する連合軍、実質的にはアメリカ軍が占領統治していた。なのに当時冷戦構造で対立を始めていたソ連を刺激しないためという理由で、アメリカ軍は全面に出ないことを決定した。武力を放棄した日本はほとんど丸腰状態でゴジラと対峙するという設定。これがまずありえない。

 ゴジラがどういう経緯で生まれたのか不明だとしても強力な放射能を有した巨大生物である。その侵攻が日本に留まらない場合は、アメリカ本土にもソ連や中国の本土にも被害が及ぶ可能性がある。そういう世界的危機の中でアメリカ軍が撤収して、丸腰の日本にすべてをおっ被せるだろうか。

 もともと日本の占領統治は、ソ連が東日本、特に北海道の統治を主張し、それをアメリカがはねのけて日本を一括統治したのだ。もしアメリカが身を引くとなったとたんに、赤軍はまちがいなく北海道に進駐するだろう。祖国防衛という名目があればなんでもする国である。

 さらにいえばゴジラの襲撃とそれを日本で押しとどめるためとなれば、アメリカは間違いなく核攻撃を行うはずだ。朝鮮戦争においてもマッカーサーは核使用を主張し、トルーマンの反対で中止したという経緯もある。ゴジラを日本で駆逐するためということであれば、核兵器使用強行はなんの反対もなく実施された。すでに二度の実験使用済みだったのだから。

 もしアメリカが核使用を躊躇すれば、ソビエトが祖国防衛を名目に核使用を強行したかもしれない。ある意味でゴジラは格好の核実験のターゲットになっただろう。まあ一般的に考えれば、米ソを含む連合軍によるゴジラ駆逐作戦が実施されたのではないかと。

 荒唐無稽な怪獣映画で、当時の国際情勢をからめていきっても仕方がないだろう。それにしても丸腰の日本が、払い下げ同然の駆逐艦と開発途中だった幻の戦闘機一機だけでゴジラに立ち向かうというのはあまりにも現実性がない。

 もっともそうした現実性のなさと、ゴジラの都市破壊シーンのリアルっぽさ、それがこの怪獣映画の肝でもあるのかもしれない。そして多分そのへんが海外で圧倒的な支持を受けてヒットしたところなのだろう。

 欧米でヒットを続けるマーベルシリーズ。特撮シーンのリアルさに比して、主人公たちの超人性について、「そこにリアルはあるのか」を問うのはあまりにもナンセンスだろうから。

 最後にこの『ゴジラ-1.0』で思ったこと。それは主演女優浜辺美波の不死身性だ。東宝看板女優の彼女を途中で死なせることはできないという、ある種古風なスターシステムもあるのだろう。さらには彼女の首筋のアザ、ラストシーンで首だけのゴジラ細胞分裂などから、ゴジラ復活を暗示しているのだろう。次回はじょじょにゴジラ化する美人女優を見ることができるのか。あるいはゴジラ細胞を植え付けられた多くの日本人がゴジラ化して、大陸や欧米に進出するとか・・・・・・。

 第一作『ゴジラ』は冷戦による東西の対立、互いの核兵器開発競争といった世界情勢の中で、核戦争の恐怖、そうした雰囲気の中で醸し出される漠然とした不安をゴジラという巨大生物に具象化させたものだ。なぜか日本を襲撃する放射能に汚染された巨大生物は、水中の酸素を一瞬に破壊するオキシジェン・デストロイヤーによって駆逐された。そのヒットによりシリーズ化され70年を経た今日に至るというところだ。

 もともと漠然とした不安から生まれた得体のしれない巨大生物である。自分が考えるゴジラはといえば、多分突然と現れ都市を襲い、殺戮の限りを尽くし、忽然と去っていく。不安が現実化しただ意味もなく破壊され、殺される人々。そういう不条理性のストーリーで十分なのではないかと思ったりもする。まあそれでヒットするかといえばハテナということになるだろうが。

 もう一つ思ったことがある。それはアフターコロナならぬアフターゴジラである。ゴジラは体内に放射能を生成するある意味生きた原発である。そして口から発する放射線によって破壊の限りを尽くす。襲撃された都市は汚染されるだろうし、生き残った人々にも放射能の影響は出る。汚染と除染、被爆による影響、巨大生物の存在をみせることなく、その脅威の実態の結果を描く。そんな物語があったら、多分誰も観たくはないだろう。でもそれが放射能を帯びた巨大生物のリアルなのではないかと。

 ゴジラ核兵器を二度使用された日本で生み出された。そしてゴジラリバイバルとして『シン・ゴジラ』、さらに今回の『ゴジラ-1.0』が制作されたのは、多分深刻な原発事故を経験し、現在もメルトダウンが進行中の日本だからなのだろう。

 体内でおそらく臨海を繰り返し核物質を作り出すシステムを抱合した、およそあり得ない巨大生物。その暴発による破壊、殺傷。一度駆逐しても、またいつその襲撃にあうか判らないという恐怖。ゴジラという架空の存在を作り出し、仮想的な恐怖を追体験することで、実は現実の恐怖から目逸らししているのかもしれないと、まあ大いなるフィクション、ただの怪獣映画で何をイキっているんだと、ちょっと自重してみる。