ラストタンゴ・イン・パリ

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 久々にレコードなんかを聴いている。

 『ラストタンゴ・イン・パリ』のオリジナル・サウンドトラックだ。文字表記は英語ではない。裏側を見てみると小さく「MADE IN ITALY BY EMI ITALIANA Sp.A.」とある。このアルバムをいつ頃買ったのかは不明。

 映画を観たのは映画公開時の1973年あたりではなく、だいぶ経ってから。多分20代の半ばくらいで名画座で観たんだと思う。けっこう衝撃的で、公開当時のポルノ論争などを払拭するような感じでけっこう衝撃を受けた映画だった。おそらくその時の感覚だと、その年に観た映画のベストワンみたいに評価していたんじゃないかと思う。

 当時、ベルトリッチ作品をけっこう追いかけていたはずで、『暗殺のオペラ』『暗殺の森』といったこの映画の前二作を観た後くらいだっただろうか。個人的には『暗殺のオペラ』がベストだったが、この『ラストタンゴ・イン・パリ』もそれに匹敵するくらいに評価していたと思う。

 とにかく演出の冴え、マーロン・ブランドの演技、そしてガトー・バルビエリの音楽、オリバー・ネルソンの編曲、どれをとってもスキのないものだったと思う。さらにいえば音楽と映画の展開が対になっていて、楽曲の転調がそのままストーリーの展開の契機になっているようにも感じた。

 後半、それまで人生への興味を捨て去ったかのような謎めいた中年男、それが若い快活な女性にとって魅力的だったはずなのに、いきなりジゴロのようないで立ちで求愛してくる男へと変わるマーロン・ブランドの演技。そこに被さるようなタンゴの調べ。あれにはやられたという思いがした。

 そうした映画的記憶が蘇ってくる一枚だが、このサウンドトラック盤に関していえば、とにかくガトー・バルビエリの作曲センスとオリバー・ネルソンのアレンジの冴えが際立っている。このアルバムによってガトー・バルビエリはグラミー1973年の賞最優秀インストゥルメンタル作曲賞を受賞している。この受賞にはかなりの部分でオリバー・ネルソンのアレンジが寄与しているのは間違いないと思う。

 この作品の頃のガトー・バルビエリはまだフライング・ダッチマンで荒々しい南米音楽を基調にしたジャズの真っ最中だ。この後に『ボリビア』を録音した後、インパルスに移り『チャプター・ワン』から『チャプター・スリー』を制作し、70年代後半にはA&Mに移籍してメローなフュージョン・ジャズを展開する。そういう意味ではこの『ラストタンゴ・イン・パリ』の時点ではまだ粗削りな部分が顕著なのかもしれない。それらを洗練されたサウンドトラックに昇華させたのはオリバー・ネルソンなのかもしれない。

 ある意味、このアルバムは後のメローでソフィスティケートされたフュージョン・ジャズへと変わっていくガトー・バルビエリを予兆させるものがあるし、そのヒントとなったのはオリバー・ネルソンだったのかもしれない。

 ガトー・バルビエリは2016年に83歳で亡くなっているのだが、アレンジのオリバー・ネルソンはこのアルバム制作の3年後に43歳の若さで急逝している。さらにいえば映画監督のベルナルド・ベルトリッチは2018年に77歳で没し、制作のアルベルト・グリマルディは2021年、今年1月に95歳で亡くなっている。さらにいえば主演のマーロン・ブランドは2004年に80歳で没し、マリア・シュナイダーは2011年に58歳で亡くなっている。映画に関わったほとんどの者がすでに鬼籍に入っているのはなんとも淋しいことだ。

 そんな中で独特な重厚な雰囲気を映像化したカメラマン、ヴィットリオ・ストラーロは80歳で、またトリフォー映画などでも活躍したジャン=ピエール・レオは76歳で存命である。

ささやかな贅沢

 帰宅すると妻が車椅子で散歩に出ている。自分も車を置いてすぐに出かける。駅を超えてだいぶ行ったところでカミさんと合流する。今日はなんとなく夕食を作る元気もなかったので、近くのファミレスに入って早めの夕食をとる。

 例によって生ビールとかワインとかでちょっとだけ飲んだくれる。こういうのを確か一ヶ月くらい前にやっているのを思い出した。

 前回は1500ミリのボトルを頼んで少し残してしまったので、今回は500ミリのデカンタにしたのだが、やはり呑兵衛なんだが結局はデカンタ2杯ということになった。それでもし払ったのは3850円。一人2000円もしないのだから笑える。ファミレス飲みというのはもうコストパフォーマンスは最高だ。しかもカミさんと二人で割と静かに飲食しているので、多分、多分だけど感染リスクは低いだろうと思っている。

 これまで勤めていた頃は週に2~3回は外で飲むのが普通だった。それを考えると月に数回こうやってファミレスで飲んだくれるというのは、まあ月並みだけど庶民のささやかな贅沢なのかもと思っている。とはいえ飲み過ぎは年齢的にもしんどいだろうから、まあほどほどにしなくてはとは思っている。

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子どもの引っ越しのお付き合い④

 3日、4日と連続で千葉の子どもの新居まで荷物を届けた。これでほぼ子どもの部屋で当面生活に必要なものから、子どもの趣味のものまでだいたい搬出した。その都度、妻が一緒に行きたいというので当然車椅子を載せていく。そうなると我が家の小型ミニバンでは積載量に限界がある。結果として何度も行くことになる。一回の往復でだいたい180キロくらいになる。まもなく65になるという人間にとってはこの往復もひょっとしたら寿命をなんぼか縮めることになっているかもしれない。

 そして今日、子どもがそれまで友だちとシェアしていたアパートに残っていた自転車を一人で回収して新居まで届けてやった。ミニバンは三列目を全部たたむとなんとか自転車を積むことができる。2時半くらいに自宅を出発して自転車を積んだのが3時頃。千葉の新居のある団地に着いたが5時近く。それからとんぼ返りして家に着いたのが6時半くらいだったか。

 試しにここ一ヶ月ちょっとでどのくらい千葉まで行ったかと指を折ってみたら、なんと9回になる。これもちょっと驚きである。一回往復180キロだから1600キロちょっと。ガソリン代やら高速代やらを数えるとどのくらいになるのだろうか。まあいいか、これでもう引っ越し騒動も一段落というところだ。

 帰ってから子どもの部屋を見ると、まだまだいろんなものがあり、ガラーンとした部屋ではない。それでも子どもの不在感はひしひしとしてくる。ベッドもそのままだし、本棚には買い与えた児童書の類がけっこう入ってる。机には大学の教科書やノートなんかもある。ものはあっても心理的にはやはりガラーンという感じがする。

 引っ越した当初はベッドもなく、ベッドが欲しい子どもは布団を積み上げてそのうえで寝ていた時期があった。ああいうのは可愛らしくもいじらしいものがあった。

 子どもの成長は早い。この家に引っ越してきたのは14年前、子どもは小学4年生だった。それから中学、高校、大学とあっという間に月日が経った。まあ多分、もうこの家に戻ってくることはないのかもしれない。じょじょに子どもの残していったものも少しずつ処分していくことになるのかもしれない。子どもの成長と旅立ち、まあそういうものなんだとは思う。

池田20世紀美術館再訪

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公益財団法人池田20世紀美術館

 この美術館を訪れるのは4年ぶりくらいになる。

池田20世紀美術館 - トムジィの日常雑記

 雰囲気のある素敵な美術館だ。本邦初の現代美術館とうたうだけあって、20世紀現代美術の名画が多数揃っている。しかも著名な画家のある時期の代表作ともいうべき大作が所蔵されているので、来るのが楽しみなところでもある。

 しかもそのほとんどがガラスケースなしで直に絵を至近で鑑賞できるので、その筆触を間近で見ることができる。これも楽しみの一つである。

 前回も観て一目で虜になった作品、多分この美術館で一番気に入っただけでなく、キスリングの作品でも一番気に入っているのがこれ。

 やや気だるい、生活に疲れたような表情には道化師の内面が透けて見える。そしてそんなモデルへの画家の優しい眼差しも感じさせる。

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 美しくも寂しげな表情は観る者の心に何かしらの思いを想起させるような魅力に溢れている。

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『教会と花咲く木々』(モーリス・ド・ヴラマンク

 寒色を用いた暗い色調は「花咲く~」という画題とは正反対の雰囲気である。至近で観ると画家の情熱、熱量がそのままキャンバスにぶつけられたような激しいタッチを感じさせる。

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『ヴィーナスと水兵』(ダリ)

 ダリが王立美術学校の学生だった21歳の作品。キュビズムを取り入れた画風だが、習作という感じはせずすでに完成されたものがある。ダリの天才性を示す作品だと思う。

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『女と静物』(フェルナン・レジェ)

 平板な感じであえて筆触を消している。キュビスムから抽象画へと移行する時期のこの画家にあっては筆触表現は必要なかったのかもしれない。

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『近衛兵と鳩』(ピカソ

 ピカソが88歳の時の大作。前回観たときはあまり心動かなかったが、今回はやはりピカソの偉大さを見せつけられたような感じがした。この美術館の目玉でもあり、また国内にあるピカソの作品の中でも五指に入る傑作だと思う。その筆触には画家のパッションみたいなものが感じられる。

 この美術館は入り口及び常設展示が2階になっていて、階段を降りた部分が特設展示のギャラリーとなっている。今回は企画展として「生死(しょうじ)を超えてダミーが観(み)た世界 石井武夫展」が開かれていた。

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 石井武夫という画家をまったく知らない。調べると茂原市出身で画業を続けながら筑波大、大阪芸術大などで教授を務めた人とある。彼がダミー人形を画題にしたのは、36歳の時に5歳の娘を脳腫瘍で亡くしたことにあるという。病室での娘は様々な管がつけられた状態であり、それがダミー人形というイメージを想起させたのかもしれない。ダミーは幼くして死んだ娘でもあり、あるいは人間の代わりに様々にテストされる代用品でもある。ダミーは人の痛みや生死を代用される存在というイメージがあるのかもしれない。

 ときに不気味で不安定でもあり、ときに人を圧倒するような存在感ある作品が多数展示されている。常設展の大家の名画とは趣の異なる作品群でもあり、2階と1階ではちょっと次元が異なるような感じさえした。

 ちなみにこの美術館では1975年に竣工されすでに45年を経過した施設のため、エレベーター設備もない。ただし階段には車椅子用の昇降機が設置されており、妻は車椅子のまま階下に降り、また昇ってくることが出来た。こうした昇降機の設置してある美術館んとしては、これまでも諸橋近代美術館などで利用したことがある。バリアフリーという点ではたいへん有難いのだが、その都度係の人についてもらうというところで若干心苦しい部分を感じた。

門脇吊橋

 箱根で一泊した後、思い切って伊豆に足を伸ばした。目当ては伊東の池田20世紀美術館なのだが、その前に少しだけカミさんのために観光を入れてみた。

 カミさんが無類の吊橋好きなので、ネットで「伊東」「吊橋」などと検索するとすぐにヒットしたのがここ。

門脇吊橋

 駐車場も有料ながらすぐ近くあるようだったので、移動も割とスムーズに行きそうということで行ってみることにした。しかし便利な世の中になったといえばそのとおりだが、とにかくネットで検索すれば有益な情報が簡単に入手できる。

【城ヶ崎海岸の吊り橋】駐車場の料金や場所について。無料駐車場はあるの?

 記事にあるとおりで駐車場には身障者スペースもあり、そこから吊橋までは車椅子を押していける。カミさんは手摺につかまりながらゆっくり橋を歩くのが好きなので、吊橋の手前に車椅子を置いて50メートル足らずの吊橋をわたる。遠くの海景を眺めるのは楽しいが、下は20メートル強の岩場で自分のような高所に弱い者にはけっこうくるところでもある。

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 吊橋を渡り終えると段差のある遊歩道で、江川担庵が設置した砲台後などもあるようなのだが、さすがにそっち方面はカミさんには難しいので断念。吊橋を再度歩いて引き返した。

 帰りに土産物屋でソフトクリームを食しながら、土産物をちょっと見ていたら何気に人を食ったようなTシャツを発見。まあこういうのはご愛敬だろうか。

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絵心とかそういうものについて

 今回も健保の保養所に泊まった。フロントで受け付けをすませるときに、これまでの施設利用の有無を聞かれたので、多分通算すると20回くらいみたいに答えたら、割と驚かれた。20回はさすがにちょっと言い過ぎかとも思ったけれど、最初に利用したのは20代で取次に勤めていた頃からだから、かれこれ40年近くになる。特に利用するようになったのは所帯を持ってからだし、頻繁に行くようになったのはカミさんが病気になってからなのだが、多い時は年に2~3回は利用してたから20回はあながち嘘でもないかもしれない。

 今回泊まった部屋は多分初めてのところだったけど、何気に部屋に飾ってある絵に目がいった。そして割と瞬時に多分玉堂と大観かなと思ったら案の定だった。

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 もちろん複製画なんだが、和室の部屋の調度品として割といい趣味だなとは思った。もっともこういうのはちょっと絵が好きな人なら簡単に判るものだとは思う。自分もここ5~6年は美術館通いをしているし、美術鑑賞系の本も10冊以上読んでいる。なのでほんの少しは絵心がついてきたのかなとか少しだけ思ったりもする。もちろん半可通であることには変わりないし、人に自慢できるものでもない。それでもこうやって部屋に飾ってある絵とかにも目がいくというのは、ちょっと嬉しいかもとか思った。

 そうやて考えると、この保養所の他の部屋にはどんな絵が飾ってあるのかとか、他の保養所はどうだったのかとか少し気になりだした。そして今度泊まる時の楽しみが一つ増えたようにも思った。まあ旅館などに大観の複製画は割と定番なのかもしれないし、それもまたおもてなしみたいなことかもしれない。

 そこそこのホテルとかだと、同じように洋画の複製画なんかが飾ってあるかもしれないとか思ったりもする。映画なんかでもそういうシーンがあったかも。さらにいえばもっと高級、それこそ超がつく高級ホテルだと著名画家のリトグラフくらい普通に飾ってあるかもしれないなどとも思ったりもする。

 絵を飾るというのは良い趣味だし、それに目がいくというのもちょっとした趣味心みたいな感じがしたりもする。

ポーラ美術館「CONNECTIONS 海を越える憧れ、日本とフランスの150年」再訪

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 ポーラ美術館「CONNECTIONS 海を越える憧れ、日本とフランスの150年」を観てきた。この企画展は昨年の11月に行っている。その時にもう一度来たいと思っていたが、閉幕まじかになんとか観ることができた。

ポーラ美術館補遺~並列展示とか - トムジィの日常雑記

  今回の目玉ともいうべきコランの『フロレアル』、『眠り』とそれに影響を受けた黒田清輝『野辺』の並列展示は圧巻だ。そしてその横には同じくコランのフォロワーであっただろう岡田三郎助『花野』も。

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 コランのもつ 理想美としての裸婦が、黒田や岡田らによる受容とより東洋的なリアルさのある表現に移行する様がかなりリアルにわかるような気がする。コランは外光派といわれるが、明らかにその表現はアングル、ブーグローらのアカデミズム絵画のそれに近い。背景の草の表現はバルビゾン派の写実というよりは省略下された印象派の表現に近いかもしれない。

 それに対して黒田はより写実にシフトしており、モデルの目を開かせることによって羞恥とある種の諦観的な表情を示している。これに対して岡田は印象派的な表現を進めていて、絵画表現としては黒田を凌駕するようにさえ思える。

 この三種三様の裸婦、前回も思ったことだがやはり画力、表現としてはコランが圧倒的である。黒田の『野辺』はまだ模倣、習作的な感じがする。それも含めてみずみずしい印象を与えてはいるけれど。それに対して岡田三郎助のそれは印象派的な習作といってしまえばそれまでかもしれないが、完成度はましている。自分がよく知っている岡田三郎助の作品といえば、同じポーラ美術館所蔵の『あやめの衣』などだが、あの背中のスベスベ感にはどことなくアカデミズム派の表現に回帰しているような気もしないでもない。黒田の『野辺』1907年作、『花野』1917年作、『あやめの衣』1927年作という10年の経過により画家たちの表現の成熟度みたいなことも少しだけ考えさせる。

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『あやめの衣』(岡田三郎助)

 そのほかで気になったのは前回も書いたことだけど、常設展示でスーラ、シニャック岡鹿之助の作品を同じ部屋で並列展示していたこと。

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 岡鹿之助は点描表現を中でスーラと同様に静的な抒情性を醸し出している。点描にプラスしてアンリ・ルソー的な素朴な表現を取り入れている。抒情性や詩情を獲得するのは、色彩、構図、構成、画題などによるものだということを再認識する。

 またスーラとシニャックのそれを観ていると、点描が次第に大きくなることで、新印象派からフォーヴィズムに移行するのかなとか思ったりすることもある。この二人にさらにアンリ・エドモン=クロスを加えるとさらにそんな思いを強くするものがある。ついでにいえば初期のマチスにもかなり大きな点描みたいな絵があったようにも思う。

 その他ではセザンヌ静物画を安井曾太郎岸田劉生等が模倣した習作と並列展示しているのも興味深かった。みんな近代絵画の父ともいわれるセザンヌの表現を獲得すべく苦労していたんだなと改めて思ったりもした。同じセザンヌ静物画でも数年の経過によって完成度が増していることなども並列展示によってよくわかる。ただし、好みでいえば、みずみずしさなども含めていうとより若い作品の方が自分などは気に入っている部分もある。

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ラム酒の瓶のある生物』(セザンヌ)ー1890年頃

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『砂糖壺、梨とテーブルクロス』(セザンヌ)ー1983年、1894年

 この企画展は上述したように4月4日で終了し、4月17日からは「フジター色彩への旅」という新たな企画展が始まる。それ以降も常設展では黒田の『野辺』は展示されるようだが、それと同時にコランの『眠り』もしばらく展示が続けられるという。『眠り』は120年ぶりに公開となった作品だということだが、コラン自体が多分フランス本国ではあまり重要視されていない画家なのかもしれない。

 『フロレアル』は制作時に政府買い上げとなりルクサンブール美術館に収蔵されたという。現在はオルセー美術館(アラス美術館寄託)に収蔵されている。フランスでは外光派自体があまり評価されていないのだと思う。コランはやはり黒田清輝の師匠ということで日本では特別な存在となっているということもあるのだろう。『フロレアル』には複数の習作があり、その一つが今回の企画展にも展示されていた東京芸術大学所蔵のものである。

 いずれにしろいましばらくの間、『眠り』がポーラ美術館で観ることができるのは嬉しいことだと思う。箱根に行く楽しみが増えた感がある。