https://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/202304_oosaka.html
東京ステーションギャラリーへ来るのは、2021年の「コレクター福富太郎の眼」展以来。このときにも自分にとってはあまり知らなかった甲斐荘楠音や島成園などの作家を知った。今回も自分の知らない作家名が多数ありで、いろいろと見応え、情報量が沢山ある企画展だった。
まず大阪の日本画というのが目新しい。日本画の画壇というと一般的には東京か京都となる。その京都にも近接した大阪で、ローカルな画壇が形成されていたということになる。
関東の感覚でいえば大阪、京都は東京と横浜くらいになる。でも関東でいうと東京がすべて中心になるけれど、関西的には文化や政治などの中心は京都で、大阪は商都みたいな位置付け。なので画壇も京都に収斂されないみたいなことになるのだろうか。まあいいか。
今回の企画展では、最初に近代大阪を代表する画家三人、北野恒冨、菅楯彦、矢野橋村にスポットをあて、次に江戸時代後期から大阪で脈々と続いてきた文人画の系譜と船場派の系譜を紹介する。さらに大正から昭和にかけて新しい表現を探求した若手画家や女性画家を紹介していく。
ニワカの自分からすると、ほとんど知らない名前ばっかりである。北野恒冨は一応知ってるし、東近美でカメラをいじってる女性の美人画があったくらいで、後は例の福富太郎展で幾つか作品が紹介されていた。でも、菅楯彦も矢野橋村も初めて。そういう初々づくしで覚える情報量が沢山あり、ある意味それだけでお腹がいっぱいになる感じだった。
あとここのところ思うのだが、日本美術史において近代以降、南画=文人画がかなり軽んじられているというか、取り上げられていないような気がしている。フェノロサが「南画は絵あらず、画讃は文字にすぎない」などと南画を誹謗したことをきっかけに南画が急速にすたれていったというのが、美術史においては定説のようになっている。しかし実はいわゆる日本画よりも南画=文人画のほうが、絵としては実は売れていたのではないかとそんな気もしている。
当時、絵をもっとも購入する富裕層にとっては、日本画は部屋を飾る装飾品の一つであり、日本間、床の間を飾るのは掛軸に類するものや屏風絵だったのではないかと。そこでポピュラーなのは風景画、中国風山水画だったのではないかと。
それがフェノロサ=岡倉天心、東京美術学校の系譜ともいうべき「日本画」が主流となり、少なくとも明治期にはよりポピュラーであった南画が軽んじられてきたのではないかと、ちょっとばかりそんなことを思った。例の「つくいも山水」みたいな南画を低くみる感覚である。
ということで、近代以降の南画については驚くほど知らないし情報も少ない。美術史の教科書でも南画=文人画というと、富岡鉄斎、田崎草雲、奥原晴湖とかくらいを知ってるくらいか。そういえば今回の大阪の日本画では、大阪難波出身の野口小蘋はまったく紹介されていない。もっとも出身が関西でも小蘋のキャリアは京都や東京で始まっているので、大阪とは無縁なのかもしれないけど。
てなことで気になった作家、作品を幾つか。
北野恒冨 (1880-1947)
「コレクター福富太郎の眼」展では《道行》など、女の情念系のおどろおどろした作品が印象的だった。そのためなんとなく甲斐荘楠音と同じような括りをしていた。その後東近美で小型カメラをいじる日本髪の美人を描いた《戯れ》を観て、ちょっと印象が変わった。この絵も《戯れ》と同じようなポーズをとっている。
菅楯彦 (1878-1963)
菅楯彦、歴史画、風俗画で名を成した画家。特に大阪庶民の生活を表現した「浪速風俗画」では、芸能、祭礼などを題材にしたという。ちょっと雰囲気が鏑木清方に似ているような感じを受ける。
生田花朝 (1889-1978)
生田花朝は、女流画家で菅楯彦に入門して大和絵、国学、有識故実を学び、ついで北野恒冨に人物画を学んだ。同じ風俗画でも師匠の菅楯彦よりも色彩が鮮やか。『なにわむかし絵本』みたいなタイトルで絵本にしたくなるような、ちょっと嬉しい絵。
矢野鉄山 (1894-1975)
新南画の矢野橋村の甥にあたる。南画家小室翠雲に師事、のにち富岡鉄斎に私淑した。細密な描写には従来の南画や山水画とは異なるある種の幻想性が帯びている。
島成園 (1892-1970)
大阪日本画の女流画家の第一人者で、彼女の門下から多くの女流画家が輩出した。大阪府堺市生まれで、兄は画家、図案家の島御風邪。10代の頃から兄の仕事を手伝いながら、独学で絵を学ぶ。1912年、若干二十歳で第六回文展に入選し、以後も入選を重ね、京都の上村松園、東京の池田蕉園とともに三都の三園と並び称せられた。
成園は1920年28歳で銀行員と結婚し、1924年頃から夫の国内外の転勤に同行して画業は断続的になる。それは生まれ故郷の大阪から離れたことが一番の理由だったようだ。1946年に夫の定年により大阪に戻り画業を再開させた。20年以上を銀行員の妻として暮らした期間も大阪に留まって画業を邁進していたなら、歴史のIFかもしれないけれど、上村松園のキャリアに並ぶ活躍をしていたかもしれない。
同じ女流画家でも伊藤小坡は、妻としてまた母として子どもを育てながらも画業を継続した。それに対して成園が画業から次第に遠ざかっていったのは、一つには夫の経済力の差だったのかもしれないし、やはり大阪というバックグランドを離れたことだったのかもしれない。
成園は単なる美人画だけでなく、その内面性や女性の情念といった部分もリアルに、あるいは誇張して表出するなど、単なる<きれい>ではない個性的な作画に努めた。この絵も単なる夏祭りの装いだけではなく、左側三人の子どもと右側にたたずむ子の着物や髪飾り、表情から現前と存在する貧富、格差を表出している。
木谷千種 (1895-1947)
今回、一番興味を覚えた女流画家。大阪の裕福な商家の生まれで、1907年12歳で単身渡米、シアトルで洋画を学び1909年に帰国。その後女学校に通いながら日本画を学び、1913年頃18歳で上京し池田蕉園塾で美人画を学ぶ。1915年に帰阪して北野恒冨、野田九甫に師事、同年に若干二十歳で第九回文展に入選。二十歳での初入選は3年前の島成園に続くもの。1918年京都に転居し菊池契月に師事。1920年結婚を機に大坂に戻り画塾を設立して後進の女流画家育成に努めた。
12歳で単身アメリカ、シアトルに留学して洋画を学ぶというのが驚き。もっともこれは裕福な子女という背景があってこそであり、苦学しての渡米とは違う。1904年に単身渡米して同じシアトルで働きながら洋画を学んでいた田中保や1906年に同じくシアトルに渡った清水登之とはまったく異なる。木谷千種はお嬢さんで何不自由のない留学生活を送っていただろうし、貧困と人種差別の中で画業をスタートさせた田中や清水とはおそらく接点もなかったのだろうと思う。
しかしシアトルのどこかで、木谷千種と田中保、清水登之が出会っていたら、同じ日本人の美人のお嬢さんを見かけていたら、そんな想像をしてしまいたくなる。
三露千鈴 (1904-1926)
大阪生まれ、母、妹とともに木谷千種の八千草会で美人画を学ぶ。1915年キリスト教に入信し布教活動に参加するも病弱で同年22歳で死去した。
この絵の母子像のモデルは、病弱な自身を応援して慈しむ育ててくれた母親で、抱かれる幼い子は自らかあるいは妹。母への感謝と母親が子に寄せる愛情を画題にしているという点でいえば、上村松園の《母子》を思い出すが、《母子》の制作は1934年でこの作品の8年後のこと。松園が《秋の一日》を見たことはあっただろうか。
吉岡三枝 (1911-1999)
島成園に師事した女流画家。ウィンドウショッピングを楽しむ女性を描いたモダンな作品。白、緑と赤の補色の使い方、現代的な風俗を画題にしている点など、すべてがモダンである。それでいて女性独特の清潔感があり、いわゆる男性目線からの女性像とは一線を画している。
女四人の会
女四人の会
大正元年(1912)から4年までに文展入選を経験した女性日本画家、島成園、岡本(星野)更園、吉岡(木谷)千種、松本華羊によるグループ。四人は西鶴研究会を組織して、大阪の浮世草子『好色五人女」をテーマに、成園がおまん、千種がお七、更園がお夏、華羊がおせんを担当し、大正五年(1916)五月、大阪三越を会場に五十数点の美人画を並べた「女四人の会第一回展」が開催された。若い新進女性画家のグループ展は話題を集めた一方で、生意気だとする批判も受けた。第二回展の開催も予告されたが、実現しなかったと考えらている。
『図録』用語解説より
島 成園(1892年生) 当時 24歳
岡本更園(1895年生) 当時 21歳
木谷千種(1895年生) 当時 21歳
松本華羊(1893年生) 当時 23歳
若い美人画家によるグループ展である。かなりセンセーショナルに喧伝されただろうし、興味本位的な部分もあったかもしれない。今風にいえば美人アイドル画家グループである。その分、反発もあるだろうしバッシングもあったのだろう。第二回展が開かれなかったのもそういう理由が大きかったのだろうか。
写真のイメージだと岡本更園は普通の美人風、木谷千種は利発なお嬢さん風、島成園は負けん気の強そうな雰囲気、そして松本華羊はなにかおっとりした感じがする。
画家収入調べ
『図録』の解説12Pに大正14年の関西「画家所得一覧」が載っている。そのなかで著名かつ今でも教科書などにも出てくる画家をピックアップし、今の価値相当に換算してみた(かなり下世話)。1926年(大正15/昭和元年)の公務員初任給は75円で、現在は約18万円とすると、だいたい1円を約2400円としてみた。
竹内清楓の当時36000円は破格というか、超売れっ子だったんだと改めて思う。橋本関雪も今の評価に比べるとかなり人気が高かったということか。逆に女流画家は上村松園、木谷千種、伊藤小坡とやはり男性陣に比べるとかなり低めでもあるか。
関西の売れっ子女流画家である島成園の名前はない。兄御風はあるのだが。大正14年というと、おそらくその頃は夫の転勤に伴って上海に渡っている頃かもしれないので、画業はほとんど中断されていた時期ということもあるかもしれない。
まあこういうのは下衆っぽいのでこのへんでやめておくか。
画家名 | 当時所得 | 現在換算 | |
---|---|---|---|
1 | 竹内栖鳳 | 36,000 | 86,400,000 |
2 | 橋本関雪 | 25,000 | 60,000,000 |
3 | 菊池契月 | 11,200 | 26,880,000 |
4 | 鹿子木孟郎 | 10,000 | 24,000,000 |
5 | 山元春挙 | 10,000 | 24,000,000 |
6 | 西村五雲 | 9,200 | 22,080,000 |
8 | 堂本印象 | 8,500 | 20,400,000 |
7 | 土田麦僊 | 8,000 | 19,200,000 |
9 | 上村松園 | 6,000 | 14,400,000 |
10 | 福田平八郎 | 5,900 | 14,160,000 |
11 | 富田溪仙 | 5,000 | 12,000,000 |
12 | 北野恒冨 | 5,000 | 12,000,000 |
13 | 小野竹喬 | 4,200 | 10,080,000 |
14 | 小出楢重 | 4,150 | 9,960,000 |
15 | 木谷千種 | 4,000 | 9,600,000 |
16 | 伊藤小坡 | 3,400 | 8,160,000 |