小杉放菴記念日光美術館「旅する日光」 (5月13日)

展覧会・催し物|小杉放菴記念日光美術館 (閲覧:2023年5月16日)

 この美術館には何度も訪れている。

 東照宮にほど近く、日光市神橋駐車場の前にある。だいたいいつも空いているけれど、休日は周辺観光の車でメチャ混み状態になる。以前、正月に徒歩で行ったことがあるけど、前の道は大渋滞なのに美術館の中は閑散としていた。まあ正月の初詣客は日光で絵を観ないだろうなとは思うけど。

 今回はというと、この美術館が得意とする日光の風景画。特に力を入れて蒐集している明治期の風景画を中心とした企画展「旅する日光」である。この美術館のコレクションの中心でもある日光出身の小杉放菴(未醒)の作品は一室に展示してあるが、さらに彼が画業の最初期に五百城文哉の下で修業していた時代の日光の風景画も数点展示してあった。

 思えばこの日光の風景画、当時の外国人旅行者の土産物用に描かれた水彩画をまとまって観たのもこの美術館だし、五百城文哉の名前を知ったのも多分ここだ。

 今回も日光の社寺や風景を描いた絵の中で特に興味を覚えたのはというと、「外国人が見た日光」のパート。紹介されていたのはジョン・ヴァーレー・ジュニア、アルフレッド・パーソンズ、ヘレン・ハイド、ロバート・コロネル・ゴフ、ロバート・ウィアー・アラン、アルフレッド・イーストなど。

 このへんの画家は京近美で観た「発見された日本の風景 美しかりし明治への旅」展、府中市美術館開催の「ただいまやさしき明治」展などで知った画家たち。明治期にはお雇い外国人だけでなく、極東のオリエンタリズムという新しい画題を求めてイギリスを中心にアメリカなどからも多くの外国人画家が訪れている。なかには10年以上の長期滞在し、日本画や版画などを習熟した者もいたという。

 今回注目したのは二人の画家。

ルフレッド・パーソンズ

《日光の小堂》 1892(明治 25)年頃 紙/水彩 28.4×46.4 cm

 これぞ水彩風景画という作品。中心に外国人観光客夫婦とも思える男女二人をおき、小堂の階段には寺男かなにか。小堂と境内、遠くの山々など風景画の模範みたいな作品だ。まあ凡庸といってしまえばそれまだが、美しい作品。

 アルフレッド・パーソンズは水彩画家、植物図などで著名で、王室美術アカデミーの正会員、イギリス水彩画家協会の会長も歴任したという。

アルフレッド・ウィリアム・パーソンズ - Wikipedia (閲覧:2023年5月16日)

 パーソンズは1892年に香港経由で来日、約9ヶ月滞在。長崎、神戸、奈良、宇治、彦根、鎌倉、日光、富士山、熱海、箱根、東京などの各所をめぐり水彩画を制作している。来日中に富士山登頂、帰国後は『日本印象記(Notes in Japan)」を著している。

ヘレン・ハイド

 この人の絵《日光》は二荒山神社参道を描いた作品。画像はないがまあ普通の風景画ではある。ただしこの女流画家の経歴はけっこう面白い。というか世紀が変わる間際の1899年に同じ姓の女性画家ジョゼフィン・ハイドと一緒に日本に旅行。狩野友信に画技を学びジョゼフィンの帰国後も日本に留まり、帰国直前のアーネスト・フェノロサに勧められて木版画の制作を開始。

 一時帰国したが1902年から再来日して赤坂に滞在。女中と車夫を雇い、1914年に闘病のため帰国するまで実に12年日本で過ごしたという。ヘレン・ハイドで検索をかけると母子像などを画題とした浮世絵風版画の作品が何点かヒットする。その雰囲気はどこかメアリー・カサットが試みた浮世絵版画に似た雰囲気がある。

 どんな女性かというと英語版ウィキペディアには彼女の写真が載っていたが、かなりの美人である。

Helen Hyde - Wikipedia (閲覧:2023年5月16日)

 彼女について記した著作などはないのだろうかと検索してみる。

 彼女が滞在したのは1899年(明治32年)から1914年(大正3年)までの時期である。時代的には日本に職を求めてお雇い外国人的が去りつつある時期でもある。足掛け10年以上という長期滞在ということもあり、日本人の知識層との交流などの記録はないかというと、どうも彼女は日本滞在中も欧米人とのコロニーの中で暮らしており、日本人との交流は雇った使用人やモデルなどに限定されているようだ。そして彼女の絵はアメリカの画廊を通じて本国でエキゾチックな画題、画風として一定の需要があった他、彼女が交流をもった欧米コロニーのネットワークでも受容されていたらしい。

 彼女の日本滞在の記録については、彼女の書簡などの資料をもとにした論文がヒットしたので、ざっと目を通してみた。

ヘレン・ハイドと日本
著者 石川 香織
号 9
学位授与機関 Tohoku University
学位授与番号 国博第121 号
URL http://hdl.handle.net/10097/59245

https://core.ac.uk/download/pdf/236046424.pdf

(閲覧:2023年5月16日)

 1899年(明治32年)から1914年(大正3年)、漱石や鴎外が流行作家として活躍した時代である。画壇についていえば、岡倉天心東京美術学校を辞して横山大観菱田春草らと日本美術院を創設したのが1898年。1907年に文展が創設され、1910年に『白樺』創刊、1912年にヒュザン会が結成された時代だ。

 こういう時代に外国人女流画家が長期に日本に滞在して、浮世絵版画を学び、作品を多数制作していたというのは、なかなか興味をそそる部分もある。彼女の水彩風景画は今回の日光美術館以外では前述した京近美と府中市美術館で同じ作品《新宿十二社の桜》を観ているだけだ。どこかで彼女の浮世絵風版画などをまとまって観てみたいものだ。

《新宿十二社の桜》 ヘレン・ハイド 水彩・紙 高野光正コレクション