西洋美術館常設展示も五か月ぶりともなると、そこそこ展示替えもあり、また新しい作品などもあって楽しい。今回はほとんど作品を撮影したりすることもなく、ゆっくりと鑑賞した。
作品の撮影は記録として、後で確認したりすることも多いので、撮影可の美術館に行くとパシャパシャすることが多くなる。ときに撮影に気をとられて作品をきちんと観てないとか、鑑賞自体が疎かになっていたりなんてこともありがち。このへんはちょっと反省かもしれないと思ったり。
あちこちの美術館で撮った作品画像は多分ゆうに1千枚を超えるだろうと思う。もちろん重複も多数ある。どこかでそういう画像も整理したいと思ったりもする。画家別に整理するとか、美術館別にするとか、構想的にはプライベートの名画画像のデーターベースみたいなことを妄想しているのだが、多分無理だろうな。年齢が20くらい若ければ、なんとなく出来そうな気もするのだけど(なんとなく頭の中でディランの『フォー・エバー・ヤング』が鳴り出した)。
とりあえず今回はほとんど撮影していない。もっともある意味、主要作品はたいてい撮影済みかもしれない。
その中で気になった作品というか、多分初めて観る作品を。
マイヨール《花冠》
マイヨール、あのゆるやなか感じの女性のブロンズ像のマイヨールである。彼が絵を描いていたとは初めて知る。
アリスティド・マイヨール - Wikipedia (閲覧:2023年9月2日)
もともとは画家で彫刻を手掛けたのは40代になってからか。
この絵はなにか静謐な感じがしていいと思う。構図は安定した直角三角形的。右上から垂れ下がる葉はやや微妙な感じだが、解説によるとこれはイチジクの葉で装飾的な効果とともに、アダムとイヴで腰を覆ったという旧約聖書の記述、さらにその実がリンゴとともに「禁断の果実」とされることなどから、純潔の少女時代から大人の女性への移行期を暗示しているかもしれないという。
イチジクでそこまで想像力を膨らませるとは実に絵とは奥が深いというか。まあ普通にキレイな絵という風に受容するのではダメなのか。その解釈からするとこの二人の少女は実は一人の少女の成長みたいなことになるのか。まあいいか。
この絵から感じる静謐感と抒情性、どこか点描派のスーラを思わせるような雰囲気である。同時にこの構図と靜な雰囲気は、日本画的な感じもしないでもない。背景をもう少し白くしてみたら、なんとなく菊池契月とか丹羽阿樹子みたいにならないか、ちょっと違うか。
アンリ・マルタン《自画像》
これも多分観たことがない。シダネルとともに最後の印象派と称される人。技法的には点描手法なども積極的に取り入れている人だが、この絵の場合、画家のパレットがそういうタッチで描かれている。というかパレットでの配色はまさに点描みたいなものでもあり、なんとなくそういう意匠を感じさせる。背景の絵画、前を向く強い意志を感じさせる画家の表情。本当に素晴らしい絵だと思った。
この絵を観たの本当に初めてだろうか。
ピカソ《小さな丸帽子を被って座る女性》
この絵については前回初めて観たことも書いている。モデルも多分ドラ・マールで間違いないか。今回ちょっと思ったのはピカソの眼の表現。ドラ・マールは美人だというのは知っているけど、その実際の写真は何度か目にしたけど実際の彼女の眼とか容貌はどんな風だったのだろう。
確かに目も大きくて桃花眼的。この彼女の表情を《小さな丸帽子を被って座る女性》はきちんとその特徴を捉えている。でもその眼はというとここまで極端なアーモンド形ではないし、ちょっと男性的。ピカソはよくこういう極端なアーモンド形の眼を描くなと思いつつ、それはいつ頃からかとちょっと考えた。
多分、アフリカのプリミティブアートの影響で描いたという《アビニョンの娘たち》あたりからか。
そして自画像でも同じ眼を描いている。
このアーモンド形のギョロ目はある意味、ピカソの特徴かもしれない。そしてするどい眼差しで対象を射抜く画家の特性でもあるかもしれない。ピカソにとってモデルの眼の特徴など実はどうでもよく、眼は自己の眼差しの投影みたいな、ちょっとそんなことを考えた。もちろんすべての絵における眼の表現がそうなのではない。でも彼が対象を見つめるシビアな眼差しを意識したときには、それが絵画上でも表現される。
まあ適当な想像、妄想の類だけど、ピカソは女性を欲し、様々な欲望の対象としていながらも自己愛や自意識の塊の人だったのかもしれない。彼は女性を描いていても、強烈な自意識をそこに投影する。それがあの極端なアーモンド形のギョロ目だ。
ドラ・マールを描いていながらその眼はまるでピカソ本人の眼のように見える。そんなことでちょっとだけ妄想してみた。