三笠公園 (7月15日)

 旅行最終日、子どもが早く帰るというので途中まで送る。

 午前中だけ少し時間があったので寄ったのがここ。

横須賀市 三笠公園 (2023年7月20日

 というか横須賀で思い浮かぶのが正直ここだけ。古い世代だからかな。

 この公園には明治の軍艦、日露戦争連合艦隊の旗艦だった戦艦三笠が記念艦として展示してある。

 

三笠 (戦艦) - Wikipedia (閲覧:2023年7月20日

 懐かしい。大昔の少年時代、何度か行ったところだ。

 小学生の頃、あるいはそれ以前だったか、軍艦とかが妙に好きだった。昭和三十年代は二十年代には米軍の占領政策の一環として反軍国主義は主流だったが、そこからの逆コース、戦前の価値観が再評価される時代でもあった。多分、ずっと政権を担っている自民党政権の旗降りもあったのだろうけど、戦前の日本軍の情報も解禁され、少年漫画などにも盛んに登場してきていた。『紫電改の鷹』、『ゼロ戦レッド』なんていう航空機マンガもあったし。

 小さかったからよく判らないが、多分七歳上の兄の影響もあり、戦闘機や軍艦にも興味があった。家には『丸』などという軍事情報誌も家にあった。あれは兄が買ったのだろうか。調べると『丸』は出版社を変えながら現在も続いているようだ。そういう風潮は変わらないということか。

 別に軍国少年であった訳でもないし、戦前の軍国主義を賛美することもないが、軍事マニア、戦闘機や戦車、戦艦などに興味を覚える、そういうのは当時的には男の子の普通の趣味範疇だったのかもしれない。

 小学校に上がる前、住んでいたのは横浜元町で、父の商売は本牧の米軍相手のクリーニング屋だった。なのでなんとなくアメリカ軍は身近な存在だった。ほとんど覚えていないのだが、兄と自分は当時みずほ埠頭に停泊していた駆逐艦だか巡洋艦に載せてもらったことがあったらしい。当然、喜んだはずだ。

 そういう出自なので、三笠にも何度か行った記憶がある。ただ三笠のウィキペディア記事などを見ると、戦後は米軍に接収されてキャバレー・トーゴーになったりしている(アメリカもやるな)。そして復元されたのは1961年である。自分はまだ5歳の頃だ。ちょうどそのすぐ後に、我が家は横浜から川崎に引っ越している。そうなると最初に三笠を見に行ったのは川崎に引っ越してからのことだったのだろうか。もう記憶は曖昧で、小学生の頃に何度か行ったというところにとどまるだけだ。復元してすぐ、横浜にいた頃に行ったのかどうか。もはやそれを確認すべき肉親は誰一人いない。

 

 三笠の保存管理と観光資源としての利用を行っているのは、国から委託を受けた公益法人三笠保存会というところだ。入艦料の徴収もそちらでやっている。

公益財団法人三笠保存会 | 記念艦「三笠」 (閲覧:2023年7月20日

 

 入艦は船なのでデッキまで階段で上る。妻は階段の手前に車椅子を置いて、後は手摺や私が手を引いて上る。デッキ内と、階段を下りて内部の資料展示室にも行くことができるのだが、けっこう急な階段でえらくしんどい。最ももともとが戦艦なので、バリアフリーを求めるのはほぼ不可能に近い。

 

 上甲板には大砲などもあり、まさに軍艦である。船首ではたいていのカップルが例によってタイタニックごっこに興じる。これはもう船に乗ったらお約束というところか。

 

 

 

 軍艦に乗るというは多分初めての経験なのか、妻もけっこう興味ありで艦内の展示品もけっこう興味もって見ていた。それ以上に時間かけて見ていたのが実は子ども。自分と妻が下船してしばらくも艦内で展示を見ていたみたいで、20分くらい遅れてから出てきた。

 最後に、ウィキペディアなどで三笠の歴史を読んでいると、日露戦争バルチック艦隊を撃破するなどの華々しい活躍の反面、度重なる爆発事故などで沈没したり、ワシントン軍縮条約で廃艦となったりと、歴史に翻弄されてきてもいる。

 日本海海戦では113名の死傷者を出したほか、日露戦争終結直後に佐世保港内での爆発事故で339名の使者を出している。ひょっとしてここって霊感スポットなんじゃないのと、五日も経ってからちょっと背筋が寒くなってきたりして。しかし港内での爆発事故で339名の死者を出し沈没というのは大事故だが、おそらく日露戦争の戦勝記事で矮小化されたのだろうか。

 

 三笠公園の後は近くにある「いちごよこすかポートマーケット」で食事と買い物。土産物を買ったり。その後、子どもを金沢八景まで送った。