宇都宮美術館 (5月13日)

 日光美術館の次に訪れたのが宇都宮美術館。ここも日光の保養所に行くときにはけっこうな頻度で訪れている。もう7度目くらいになるだろうか。うつのみや文化の森という広い公園内にありなかなかに居心地の良い美術館だ。その近くには帝京大学のキャンパスがあり、さらにその近くにはゆったりとした敷地の戸建てが並ぶ団地もある。なかなか住み心地も良さ気だし、近くに美術館や広い公園がある。こんなところに住むのもいいかなと思ったりもするのだが、いかんせん最寄り駅から徒歩80分くらいあり、車がないと、とても生きていけなさそうだ。

とびたつとき 池田満寿夫とデモクラートの作家
Moments to Fly Up: Ikeda Masuo and the Demokrato Artists

宇都宮美術館|企画展 (閲覧:2023年5月19日)

 開催されていたのは「とびたつとき 池田満寿夫とデモクラートの作家」展。

 池田満寿夫はというと著名な版画家だ。もっとも我々の世代からすると芥川賞を取った『エーゲ海に捧ぐ』を連想する。版画家としてはキャリアの早い時期から注目され、数々の賞を受賞している。1957年東京国際版画ビエンナーレ展に入選、1960年に同展で文部大臣賞受賞。1965年、ニューヨーク近代美術館で日本人として初の個展を開催。翌1966年にはヴィネツイア・ビエンナーレの版画部門で国際大賞を受賞と、一躍時代の寵児となった、ある意味日本美術館の新星スター的存在だった。

 そして池田満寿夫が所属したデモクラートとは、『デモクラート美術協会』のことであり、1951年に瑛九を中心として大阪で結成された美術家グループだ。自由と独立の精神を尊重して、既存美術集団や権威主義を否定、公募展には一切出品しないことを指針にした。創立メンバーとしては瑛九、泉茂、森啓、郡司盛男、デザイナー早川良雄、写真家の棚橋紫水、河野徹らが参加した。さらに靉嘔、池田満寿夫、磯部行久、河原温細江英公らも輩出した。

 なおデモクラートとはエスペラント語でデモクラシー(民主主義)を意味し、瑛九は戦前からエスペラント語を学んでいたことからこの名前がついた。

池田満寿夫 - Wikipedia (閲覧:2023年5月19日)

瑛九 - Wikipedia (閲覧:2023年5月19日)

1999.8.21 - 10.11 デモクラート1951-1957 ー開放された戦後美術ー - 埼玉県立近代美術館 The Museum of Modern Art, Saitama (閲覧:2023年5月19日)

 池田満寿夫をデモクラートに誘ったのも、また版画制作を勧めたのも瑛九らしいが、もう一人デモクラートと池田満寿夫の有力な支援者となる人物がいる。それが美術評論家にして小中学生を対象とした創造主義美術教育運動の指導者であり、のちに町田市立国際版画美術館の初代館長となる久保貞次郎だ。

久保貞次郎 - Wikipedia (閲覧:2023年5月19日)

 久保は一美術評論家であるだけでなく、栃木県内でも有数の資産家であり、彼の私財により多くの芸術家のスポンサーとなっていたようだ。実は池田満寿夫が注目された東京国際版画ビエンナーレ展やヴェネツィアビエンナーレにおいても、日本のコミッショナーを務めていたのが久保貞次郎だ。池田の受賞には久保の推薦なり強い後押しがあったといわれている。

 しかし久保という人物、ウィキペディアの経歴をみるとかなりユニークというかなんというか。帝大を卒業後も大日本聯合青年団社会教育研究生としてエスペラント語の普及に務め、県内有数の資産家久保家の長女の入り婿となって久保姓となる。社会教育研究性の研究費は一種の奨学金(給付金)だったが、これを婿に入った久保家の私財で一括返納。その後就職することなく、帝大大学院に学び、コレクターとしてまた創造美育協会などを通じて芸術家のサポートし、自宅にアトリエを作り美術家の集う拠点とした。

 資産家の婿となり、以後実業に就くことなく趣味の美術愛好を生業として、美術評論や芸術家支援して人生を全うする。なんとも羨ましい人生である。戦前、戦後をそのようにして過ごした人が、日本の芸術運動の一部分を担ったということだろうか。

 以下、作品をいくつか

《愛の瞬間》 池田満寿夫 1966年 広島市現代美術館

 展覧会のポスターにも使われている池田満寿夫の代表作。独特の線描、色彩といった池田の特色が良く出ている。なんとなくだが、池田満寿夫のこの独特な線描が彼の売りでもあり、オリジナリティなのかなと思ったり。

 

《女・動物たち》 池田満寿夫 1960年 広島市現代美術館

 1960年、東京国際版画ビエンナーレ展文部大臣賞を受賞したのがこの作品だ。

 

《私の詩人、私の猫》 池田満寿夫 1965年 広島市現代美術館

 池田満寿夫は二十歳前後の頃に当時住んでいた下宿屋の10以上上の娘と結婚する。結婚生活は破綻するも、妻は離婚を認めないため一人出奔し、その後は当時新進気鋭の詩人の富岡多恵子と生活を共にする。富岡は交友関係も広く、池田は彼女に刺激を受け、芸術的にも様々な影響を受ける。さらに池田のアメリカでの個展などにも富岡多恵子は同行してアシスタントとして池田の活動を支えたという。

 《私の詩人》というタイトルから、このモデルは富岡なのかもしれない。二人の関係はあめりか滞在中に終わり、池田はアメリカで中国系の女流芸術家と結婚する。帰国してからの富岡多恵子の活躍は多くの人が知るとおりで、詩人としてだけでなく小説、評論、さらにフェミニストとしても活動、今年の4月に87歳で亡くなっている。

エロスに生きた男 -池田満寿夫- : marikzioのn'importe quoi! (閲覧:2023年5月19日)

富岡多恵子 - Wikipedia (閲覧:2023年5月19日)

 

《田園》 靉嘔 1956年 和歌山県立美術館

靉嘔 - Wikipedia (閲覧:2023年5月19日)

 靉嘔(あいおう Ay-O)、この独特の名前、作品には幾度か観たことがあるが、今回のようにまとまって観たのは初めて。後には虹をモチーフにした作品で有名となる。

 

《旅人》 瑛九 1957年 和歌山県立美術館

 

《闘鶏》 泉茂 1957年 和歌山県立近代美術館

像化-構造を施す捻り物 -藤原彩人展

宇都宮美術館|企画展 (閲覧:2023年5月19日)

藤原彩人

1975年京都に生まれ、栃木で育つ。2003年東京藝術大学大学院美術研究家彫刻専攻終了。2007~2008年文化庁新進芸術家海外研修制度研修員としてロンドンに滞在。現在、東京造形大学美術学科彫刻専攻領域准教授。「人の形」を表現の支持母体とし、相似的な視点から循環や流動をテーマに、人間と自然、物質と空間、光と影、軸と周囲といった様々なつながりや関係性を、現代の事象と照らし合わせ、陶素材を用いて「像/彫刻」にしている。

 ぱっと見、塑像のような雰囲気だが施釉陶。ようするに釉薬をかけた陶器だ。ただ自分には現代の仏像はこういうものになるんかなあと、そんなことを考えながら観ていた。あるいはやはり日本の彫像芸術はどこかで縄文土器や仏像にインスパイアされているのかもしれないとか。まあ作者の意図は諸々だし、多分自分のニワカな感想はだいぶ遠いところにあるに違いないけど。