今さらだけど坂本龍一が死んだ。
坂本龍一さん死去 がん闘病 「ラストエンペラー」アカデミー作曲賞:朝日新聞デジタル
(閲覧:2023年4月7日)
癌で闘病していることは知っていたし、1月に高橋幸宏が亡くなった時にも、不謹慎かもしれないが、坂本よりも先に逝ったかと思った。71歳、自分よりも4歳上だが、ほぼほぼ同世代、同時代人である。やはり淋しい思いがする。
とはいえ自分は坂本龍一のことを実はあまり良く知らないし、曲もほとんど聴いていない。YMOもどこかああいうテクノポップ的なものはどこか敬遠しがちなままだった。
YMOの結成は1978年。自分はまだ大学生だっただろうか。坂本龍一の名前を耳にしたのは、多分山下達郎のライブ・アルバム『IT'S A POPPIN' TIME』(1978年)あたりだろうか。このライブで達郎のバックでピアノをやっていたのが坂本龍一なのだが、当時はライナーノートもあまり意識して見ていなかった。せいぜいドラムに赤い鳥にいた村上秀一(ポンタ)がいることに気がついたくらいだ。後付けでこの時のセッションに坂本龍一がいることに気がついた。
改めて聴いてみると、例えば『LOVE SPACE』のピアノソロなどは「JOY」での難波弘之と『IT'S A POPPIN' TIME』での坂本龍一のそれはだいぶ違っていたりする。坂本のそれはややスローでR&B風にやろうとしているのだがあまりグルーブしていない。これはテクニックがどうのということではなく時代的な限界なのかもしれない。
そして自分が最初に坂本龍一をライブで見ているのは、どうも1977年の大貫妙子の俳優座でのライブでのことのようだ。もっともこれも随分と後になってから確認したことで、当時はというとせいぜいのところ、なんとなく尖がったキーボードがいるなくらいに思ったくらいだっただろうか。
時代は1980年前後、もはや40数年前のことばかりだ。当時の坂本龍一は実際のところかなり尖がったスタジオ・ミュージシャンだったようで、酒癖、女癖の悪いがピアノがめちゃくちゃうまい芸大生という触れ込みのようだった。そのへんのことを誰かの文章で読んだような気がするのだが。確か村上秀一(ポンタ)の本あたりだっただろうか。
それから坂本龍一はYMOでデビューし一躍スターとなる。YMO自体はというと細野はハッピーエンドのベーシストとして、さらにユーミンのバックなどに参加していたキャラメル・ママやティン・パン・アレーのメンバーとして知っていた。多分、高橋幸之が一番よく知らなかったかもしれない。
そしてその頃、本屋に勤めていた自分にとって坂本龍一というと、彼の本がよく売れたことを覚えている。
音を視る、時を聴く | 書籍 | 朝日出版社 (閲覧:2023年4月7日)
朝日出版のものは多分絶版となっていて、今は筑摩学芸文庫から出ている。
対談相手の大森荘蔵は当時東大の哲学者で現象学、分析哲学などを包括したうえで独自の一元論を唱えていた人。とにかく難解で孤高の哲学者というイメージだったが、当時の大学生にはけっこう読まれていた。その大森荘蔵と対談するというところも、さすが藝大出身とある意味恐れ入りつつも、ページに目を通したことを覚えている。
さらにいえば、坂本龍一というと名編集者坂本一亀が父親であるという話も、出版業界では有名だったか。坂本一亀は河出書房の編集者で、多くの著名作家を担当し、高橋和巳の『悲の器』も担当していた。そのへんも含めて、坂本龍一のあだ名とされる教授がなんとなくすんなりと受け入れられたような気がした。
坂本一亀 - Wikipedia (閲覧:2023年4月7日)
坂本龍一の音楽はというと、最初に書いたようにきちんと聴いたことがない。アカデミー賞をとった『戦場のメリー・クリスマス』とその主題曲『Merry Christmas Mr.Lawrence』もきちんと聴いていないかもしれない。その流麗なピアノについてもほとんど聴いていない。自分はどちらかといえば、元妻の矢野顕子のあの重く硬いピアノの方がよく聴いた。彼女のピアノはどことなく、マッコイ・ターナーのそれを想起させるものがあった。
坂本龍一の音楽性を強く意識したのはどのへんだろう。多分、大貫妙子のアルバムあたりだろうか。前述したように坂本は大貫妙子のソロ・デビューからキーボードとして参加し、アルバムのアレンジも多く手掛けている。彼女がアメリカ的、ウエスト・コースト的な楽想からヨーロピアン・テイストな、どこかシャンソンを想起させる雰囲気に変わるにあたっては、坂本が果たした役割は大きかったのではないだろうか。
大貫妙子のアルバムで一番好きなのは4枚目の『ROMANTIQUE』。このアルバムの編曲はA面を坂本龍一が担当し、B面は加藤和彦が担当している。ただしB面で1曲だけ坂本龍一がアレンジしている。そして美しいピアノも当然坂本だ。私はこの曲が好きだった。当時、つきあっていた女性と別れたばかりで、よく車の中で一人でこの曲を聴きいていた。
さよならの時に
穏やかでいられる
そんな 私がきらい
涙も 見せない
嘘つきな 芝居をして
私の愛した
あなたのすべてが
崩れてしまうのが
恐いだけ
だから 何も言えない
おたがいが とても
必要だったころ
苦しみも多くて
眠れぬ 夜には
山ほど手紙を書いた
『新しいシャツ』抜粋 作詞作曲:大貫妙子
21世紀になってから、80年前後のこの時期に大貫妙子と坂本龍一が一時期一緒に暮らしていたことを知った。多分、別れてすぐ後に坂本龍一は矢野顕子と結婚したのかもしれない。『新しいシャツ』は坂本との別れを歌ったものかもしれない。
この曲を大貫妙子はどんな心理状態で歌ったのか。そして坂本はどんな気持ちでアレンジしピアノを弾いたのか。アルバムで最良の美しい旋律、美しい歌声を聴くことができる。
大貫妙子は坂本龍一に対して以下のようなコメントをツィートしている。
— 大貫妙子【Taeko Onuki official】 (@OnukiTaeko) 2023年4月3日
80年代、90年代、そして21世紀初頭、坂本龍一は日本の音楽シーンのフロントを走る秀逸なミュージシャンだった。
今年に入ってからも大江健三郎が逝き、そして坂本龍一が逝った。
不謹慎かもしれないけれど、いずれ村上春樹も龍も、達郎も拓郎も、ユミーンも中島みゆきも逝く日が来るだろう。ポールもリンゴもミックもジョニもみんな逝ってしまうのだろう。長生きをするということはそういものだし、いずれ自分も向こうへ逝くことになる。そんな判りきったことを考えながらも、それでも淋しい、無性に淋しい。