スティーブ・マーカス「トゥモロウ・ネヴァー・ノウズ」

  たった一度だけジャズ喫茶で聴いたアルバムのことを、ずっと忘れることなく覚えている。そこそこに衝撃を受けたとか、ある種の琴線に触れたとか、まあ受容の程度としてはいろいろだろうし、よくあることかもしれない。でもそれがおおよそ40年前となると少し出来すぎた話かもしれない。しかも曲名は忘れたとか、アルバム名は出てこないがアーティストだけはなんとなくとかそういったことならまだしも、けっこう鮮明な記憶とともに曲名、アーティストをしっかり覚えている。さらにいえば聴いたときのシチュエーションなり、聴いた直後にとった行動その他もろもろまで記憶している。幾分かの脚色があるにせよ、もはやそれは個人的記憶の神話レベルとでもいえそうにも思う。
  やたらな前振りだがこれだ。

 当時、覚えているのは表題曲がビートルズの実験性の高い著名な曲で馴染みがあったことにもあるのだろう。しかし当時ジャズにかぶれ始めた高校生の私にこのミュージシャンの名はまったく見知らぬ誰かだった。クレジットに連なるミュージシャン達もまったく馴染みのない人たちである。ただただビートルズの前衛的な曲が原型をそのままに、そこではコルトレーンをさらに特化させたようなソプラノ・サックスのフリーっぽいアドリブが続いていく。
この曲に出っくわしたのは横浜野毛にあるジャズ喫茶の老舗ちぐさである。そう吉田衛さんがやっていた名店である。ファーストでもダウンビートでもなくあのちぐさなのである。
ちぐさ - Wikipedia
野毛にちぐさがあった!~ちぐさアーカイブプロジェクト
 ちぐさはとにかく敷居の高い店だった。ここでリクエストしていいのはスィングかモダン・ジャズのみ。正統的なマイルス、コルトレーンエヴァンスが基本。ファンキーもホレス・シルヴァーアート・ブレイキーはいいが60年代後半のものはアウト、CTIも初期のウェスとかジム・ホール、タレンタイン、ハバートとかはいいが、くれぐれもデオダートとかは駄目、とにかくフュージョンはご法度みたいなイメージがあった。ここでかけてもらうフュージョンは「リターン・トゥ・フォーエバー」だけみたいな。
 とはいえ実際に、リクエストして断られただの、追い出された、怒られたなどという逸話はある種都市伝説みたいなものだったのかもしれない。自分自身もそんな経験などはない。ただしここは入店するなり、座る場所を店主に指示される。客側に選択の余地がなく、スピーカー前に座ることもあれば、一番遠い場所にということもあった。
  なのでこの店に入る時にはある種の緊張感を持って、まさしくジャズと対峙するような面持ちでいることが多かった。高校生の子どもだったのだ、それこそジャズを学習するような感じだったんだろうな。当時から、野毛のジャズ喫茶についていえば、寛いで聴くときはダウンビートかファウストでよりモチベーション高く、今日はジャズ聴くぞみたいな意欲に燃えているときはちぐさみたいな感じだったように覚えてもいる。
 当時の私はというと、学校帰りや休みの日はたいてい桜木町もみじ坂の県立図書館で一応受験勉強をしていて、疲れると野毛でジャズを聴くというような生活をしていた。コーヒー一杯で煙草数本吸って小1時間、そんなモンモンとした暗い青春時代だった。
  ちぐさでリクエストするのは主にコルトレーンドルフィー、それに付随してマッコイー・ターナーあたりだった。そんなときにいきなりかかったのが、スティーブ・マーカスのこのアルバムである。大音量でビートルズの壮大な前衛的な曲がかかった。最初に思ったのは「いいのかこんなのかかって」だったし、「誰がリクエストしたのか」でもあった。客は自分を入れて数人で比較的空いていた。込んでいる時にこれがかかったら、たぶん速攻で数人が席を立って帰ることになったのだろうが、その時の客にそういうそぶりはなかった。けっこうフリー好きな客が多かったのかもしれない。
 その時にスティーブ・マーカスのことなど知る由もなかった。とにかく大音量で繰り広げられるフリージャズ、単調で執拗に繰り返されるリズムセクションにのってコルトレーンばりのソプラノ・サックスのインプロビゼーションが響く。なんとなくだがコルトレーンビートルズをやったらこんな風になるのだろうかなどと思いながら聴いていた。
  後から知ったことだがスティーブ・マーカスはハービーマンに見出された新進気鋭の若手でこのアルバムがデビュー作だという。60年代にあってジャズとロックの融合を狙ったミュージシャンの一人でまだクロス・オーバーやフュージョンという言葉がなかった時代のことで、ジャズ・ロックと称された。
このアルバム自体が1967年の作である。1967年!反ベトナム戦争を中心としたムーブメントや学生運動が燎原の火のごとくに先進諸国で広がる1年前のこと。ジャズの世界ではフロントランナーだったジョン・コルトレーンが急死した年でもあった。
  このアルバムではビートルズのナンバーは表題曲と「レイン」が入っている。さらにバーズの「霧の8マイル」、ドノヴァンの「メロー・イエロー」、ハーマンズ・ハーミッツの「リッスン・ピープル」なども収録されている。いかにも当時最先端のロック、しかもサイケデリックサウンドにふった選曲である。新進気鋭の若手ジャズメンが、いっちょうロックをやっつけてやろうかという壮大な意気込みを感じさせる。
  集まったミュージシャンはピアノ、マイク・ノック、ベース、クリス・ヒルズ、ドラムス、ボブ・モーゼス。さらにこのアルバムをある種マーカスと双頭リーダーのごとくに、サウンドを牽引しているギターのラリー・コリエル
 もう一度書く、1967年である。マイルスの「ビッチェズ・ブリュー」も「ジャック・ジョンソン」も出ていない。つまり電化マイルス以前のことだ。「トゥモロー・ネヴァー・ノーズ」のスティーブ・マーカスのソロ・インプロビゼーションはまさしくコルトレーンを彷彿とさせるし、トレーンのフォロワーとして70年代に活躍するウェイン・ショーターやデーブ・リーブマンのように美しく歌う。バックのリズム・セクションはほとんど「ビッチェズ・ブリュー」を想起させるし、挿入されるピアノやコリエルのギターはモード奏法的でもある。早すぎたフロント・ランナー達の一瞬の煌きの饗宴。

 70年代以降マーカスは一転バディ・リッチ楽団でビッグ・バンド・ジャズの一員としてオーソドックスなあまりにもオーソドックスな一サクスフォーン奏者として活躍する。彼の姿はYoutubeに数多く残るバディ・リッチ・バンドの中で認めることができる。ジャズ・シーンのフロントを走り続けるはずだったのに。バディ・リッチのジャズをけなすつもりはない。ビッグ・バンド・ジャズの売れっ子として第一線で活躍しているバンドだ。そこでソロイストとしてスウィングやファンキーに邁進する。それもまたミュージシャンの一人生だ。けっして不遇をかこってということでもない。だけどポップなビッグ・バンド・メンバーのマーカスを見ると時、なんとなく淋しい思いにかられる。
 スティーブ・マーカスは、マイルス等に先駆けて67年にジャズシーンの新しい地平を切り開いた。