東近美雑記

 東近美は現在行われている企画展「大竹伸朗展」と常設展「MOMATコレクション」の開催が2月5日(日)まで。その後は一月と少し休館となる。3月17日からは企画展「重要文化財の秘密」と恒例の常設展「美術館の春まつり」が開催となる。休館前に行っておきたいということで、急遽出かけることにした。

 といっても去年暮れの12月8日に行ってるので特に目新しいものがある訳でもない。とはいえ行けば新しい発見もある美術館である。最近学習している日本の近現代の作例も多数展示されている。教科書に載った図版に、これは観たことがある、これも観たことがあるみたいなことも多く、確認をかねてみたいな部分もあった。

 大竹伸朗展は会期末ということもあり大盛況だ。ウィークデイでも会場入り口には列ができるほどだ。やはり美術やデザインを専攻する学生さんや単なる観光客ではなさそうなアーティストっぽい外国の方なども多く見受けられた。そのいで立ちも大竹の作品に負けず劣らず、お洒落かつカラフルだったりもして、さすがに「ネオ・ポップ」みたいな感Jである。

 東近美で企画展があるときは、いつも先に企画展を観てから常設展示に向かうのだが、入り口の列を観てとりあえず今回は常設展からということですぐに4Fに上がることにした。以下、気になった作品を幾つか。

古賀春江

《海》 (古賀春江) 1929年

 1929年16回二科展に出品された作品。水着姿のモダンガール、工場、飛行船、潜水艦という先端的な文明要素と海中の魚類らとの対比、シュルレアリスムの日本における初期の受容的作品と位置づけらえるということらしい。シュルレアリスム(=超現実)を、古賀は独自解釈として「よりよき現実」ととらえた近未来的世界像を描いたという解釈もあるようだ。

 たしかにこの作品にどこか明るさがあり、文明の進歩を悲観的に捉えるような感性はなさそうである。「明るい未来」といってしまえばそれまでか。いまだ欧米のシュルレアリスム作品や抽象美術は日本に入ってきていないか、あるいは紹介され始めた頃である。

 この作品が制作された翌年、滝口修造アンドレ・ブルトンの『超現実主義と絵画』を翻訳し、本格的にシュルレアリスムが紹介される。それを思うと、超現実という言葉からこの作品を描いた古賀春江を現代の視点から微笑ましく思うのは僭越だろう。ひょっとしたらこの作品は、日本における超現実主義の受容と初期の作例として、いつか重要文化財にでもなるかもしれない。

村山槐多

《バラと少女》 (村山槐多) 1917年

 関根正二と比肩される早世した画家である。失恋、貧困、放浪を繰り返し、23歳の若さで当時流行していたスペイン風邪で急逝した。その死もまたデカダンス的であり、2月の深夜雨まじりの嵐の中に一人彷徨いでて、草むらの中で倒れているところを探しにきた友人たちに発見される。失恋した女性の名を口にしていたという。家に連れ戻されるがその日のうちに絶命したという。虚無、退廃、無頼である。

 村山槐太は絵画だけでなくやや稚拙ながら詩作や小説(怪奇小説)をも書いていたという。特にその小説は一部で評価されていたとも。

村山槐多 - Wikipedia (閲覧:2023年2月2日)

 この《バラと少女》は最初に観たときに感じたことだが、その表情の硬さ、生硬などこかひきつった雰囲気を感じさせる。それはこの年代の少女にありがちな生きにくさ、そうしたものの現れのようにも思える。それはそのまま息急いだ画家の人生をも投影したもののようにも思えたりもする。硬いひきつったような表情、生き方。

 

村山知義

《コンストルクチオン》 (村山知義) 1925年

 この絵というか作品は何度も観ている。そしてなんとなく面白いけれど、やっぱり判らないという風にスルーしてきた作品でもある。教科書などによれば、長方形の板に垂直線と水平線が強調され、紙、木、布、金属、皮などがさまざまに取り付けられ、近代文明の破壊と構築のイメージが交錯する先端的な表現なのだという。う~む、わからん。

 村山知義はこの作品制作の2年前にベルリン留学から帰国したばかりであり、ダダイズム的な新興美術運動としてマヴォの結成した、画家、劇作家、建築家、舞踏家、小説家などなど、とにかく活動は多岐にわたる人だ。

村山知義 - Wikipedia (閲覧:2023年2月2日)

 建築家として吉行あぐり美容室なども手掛けているという。あのNHKの朝ドラ「あぐり」の吉行あぐりであり、吉行淳之介吉行和子の母親でもある吉行あぐりである。「あぐり」のヒロインはたしか田中美里だったか。そして破天荒な夫役を演じたのは野村萬斎だった。ドラマでも美容院のセットが作られたが、当時としてはおそろしくハイカラ、モダンである。ネットで拾ったのだが、左がドラマのセット、右が実際のものらしい。

 さらに舞踏家としてのこの人もぶっとんでいる。これもネットで拾ったが、これはもうおかっぱ頭の藤田嗣治などのかなり上の方を突き抜けている。

 

 画家=アーティスト、建築家、舞踏家、さらに劇作家として活動し、プロレタリ運動などに打ち込み、戦後は絵本作家や忍者小説などもものにしている。おそらく村山知義山田風太郎あたりが忍者小説の草分けだったのだろう。驚くべき文化的巨人だったというべきか、かなりの才人、天才だが、様々食い散らかしていった人なのか、この人の全貌を描いた評伝があればちょっと読んでみたくなるような人物だ。

藤田嗣治

《哈爾哈(はるは)河畔之戦闘》 (藤田嗣治) 1941年

 戦争画、戦争記録画といっていたが、詳しくは「作戦記録画」というらしい。国策として戦意高揚や記録を目的として戦争画の制作が画家に課せられ、軍命により従軍して描かれた「作戦記録画」は展覧会で公開されたという。いわば戦争プロパガンダということだったのだが、画家からすれば従軍して戦場という危険な場に出向くという危険な仕事ではあったが、金になる、しかも大画面の制作ができる。ある意味では戦争を遂行した当時の軍部と画家それぞれにとってウィンウィンの関係性があったのかもしれない。画家からすれば戦争画は、西洋画の戦史を描いた歴史画を、しかも大画面で描くという画家冥利に尽きることだったのだ。

 こうした画家の戦争への関わりについては、1945年10月に朝日新聞宮田重雄による「美術家の節操」という記事により、画家の戦争責任を問う論争が起きる。戦後態度を一変させた画家たちの無節操さが批判されたのだ。それに対して藤田嗣治は「国民的義務を遂行したに過ぎない」と反論した。この論争は藤田が日本を離れフランスに帰化したことで立ち消えになったというが、もっと論争は深められるべきだったのかもしれない。さらにいえば、藤田に戦争責任を押し付け頬被りした多くの画家たち、それも大家と称せられる人々が多数いたことも指摘されている。

 この「作戦記録画」はGHQにすべて接収され、1951年にアメリカに移送されていたが、1970年に無期限貸与という形で日本に返還され、こうして東近美に収蔵されることになったという。その数は153点とされている。東近美の戦争画アメリカに帰属しているものであり、戦後はまだ終わっていないということになるのだろうか。

大竹伸朗

 常設展示を一通り観終わってから企画展の方に行く。時間は4時くらいで、もう入り口に列は出来ていない。正味1時間なのでこれはもう流すようにして観ることにする。二回目ということで、けっこう気が楽である。じっくり観ても多分感想は一緒かもしれないけれど、大竹伸朗は面白いけれどよくわからないというのが結論。

 ゴミ、ガラクタを寄せ集めたようなオブジェ、重層的に写真をそこに貼り付けたり垂らしたり。さらには広告や雑誌の切り抜きをひらすら貼り付けた「スクラップ・ブック」などなど。どれも思わず魅入ってしまうような作品、アート的塊である。

 それらに鑑賞者である自分が、自分への理解として意味性を付与する、言語化するというのが理知的な鑑賞なのかもしれない。でもまあいいか。面白さだけは感じる。それもまた美的体験といってもいいのかもしれないし。