東近美に行く (2月29日)

 2月29日、そうか今年は閏年か。4年後、自分はこの世にいるんだろうか。

 そんなちょっとした感慨を覚えつつ、今年最初の東京国立近代美術館(東近美)に行ってきた。企画展は写真家中平卓馬の回顧展。MOMATコレクション展「美術館の春まつり」は3月15日からの予定なのだが、先行して「桜」や「花」をモチーフにした作品がすでに展示されていた。

 

 

中平卓馬 火―氾濫

中平卓馬 火―氾濫 - 東京国立近代美術館 

  この名前には聞き覚えがある。と、写真を見て思い出した。去年の夏に神奈川県立近代美術館で、森山大道中平卓馬の二人展を観ていた。

神奈川県立近代美術館葉山館 (7月15日) - トムジィの日常雑記

 いわゆる「アレ・ブレ・ボケ」と称されるインパクトのある、なんていうんだろう状況を切り取ったようなそんな写真群という感じで、写真を観ればなるほどと思うのだけど、うまく言語化できない。ただいえるのはこの手の作品、手法は普遍性よりも、時代性の影響とかを反映しているようなそんな気もしないでもない。

 でも、「アレ・ブレ・ボケ」ってなんだ。

中平卓馬森山大道といった『プロヴォーク』(1969創刊)の写真家たちに特徴的な手法で、当時、第三者からは「ブレボケ写真」と総称された。彼らの写真に特徴的なノーファインダーによる傾いた構図、高温現像による荒れた粒子、ピントがボケてブレた不鮮明な画面は、既存の写真美学——整った構図や美しい諧調、シャープなピントなど——に対する否定の衝動に由来しており、反写真的な表現のラディカリズムを追求するものであった。中平によればそうした写真は「視線の不確かさ、と同時に世界の不確かさをひきずりだし、それを対象化する」ものであった。しかし、その後70年代には多くのエピゴーネンを生み、広告表現にも使用されるなど、初発のラディカリズムは次第に骨抜きにされていった。76年には『アサヒカメラ』誌上で「ブレボケはどうなった」という特集が組まれるが、「時代遅れ」の手法として揶揄するような側面が強い誌面となっている。森山や中平たちは50年代のニューヨークを荒々しい手法で撮影したウィリアム・クラインの影響を受けていることを告白してる。

           (著者: 小原真史)

アレ・ブレ・ボケ | 現代美術用語辞典ver.2.0 (閲覧:2024年3月1日)

  • 「ノーファインダーによる傾いた構図、高温現像による荒れた粒子、ピントがボケてブレた不鮮明な画面」
  • 「既存の写真美学—整った構図や美しい諧調、シャープなピントなど—に対する否定の衝動に由来している」
  • 「視線の不確かさ、と同時に世界の不確かさをひきずりだし、それを対象化する」

 なるほどそういうことかとストンと落ちる感じだ。あの「アレ・ボケ・ブレ」によって活写され対象はキレイで整った、秩序だった様々な表象の裏側にあるもの、それは衝動であったり、矛盾であったり。ようは世界の表象の内面性を抉り出すための手法だったのかと。

《夜》 1969年頃 東京国立近代美術館

 ただしその手法による作品群は、おそらく60年代後半というある種激動の時代にあってこそ効果があったのではないかと思ったりもする。時代が収束に向かった70年代半ばから、そうした作品のインパクトはじょじょに力を失っていったのだろうし、それとともに中平や森山の活動も低迷していく。

  この写真もなんとなくだけど、市街を疾走する軍用トラックのごとく見える。それは70年安保を前にした時代状況、ベトナム戦争への反対機運、それを契機とした世界規模での反戦運動、そういう時代の雰囲気を伝えているのかもしれない(違ってたらごめんなさい)。

 この「アレ・ボケ・ブレ」によって切り取られた対象は、その対象の背後にある文脈や時代性を抜きにしたとき、作品単体としてはなんかよく判らないけれど、なんとなく迫ってくるもの、みたいなインパクトだけみたいなものになってしまう。

 ようは「アレ・ボケ・ブレ」はインパクトを与える手段、手法になってしまうとういことだ。実際この手法は普通に商業写真にも取り入れられいくようになる。中平や森山にはジレンマを感じさせただろうが、ようは換骨堕胎みたいなもので、「アレ・ブレ・ボケ」のインパクトだけが独り歩きしていったということなんだろうか。なんとなく覚えているけれど国鉄のディスカバー・ジャパンのポスターとかその手の類だろう。多分こんな感じのやつだろうか。

 

 まあそれはそれとして、中平の写真は21世紀の今みても一定のインパクトをもっている。でもやはり彼のもっとも印象的な作品はやはり60年代後半という時代を背負っている。時代の内面を抉り出すような作品が、なんとなくノスタルジックな感傷性を秘めてしまう。そしていささかの古さとともに。

 60年代後半、まだ小学校か中学校に上がるくらいの子どもだった自分にも、中平の写真はなんとなく同時代性を感じさせる。ただそれは同時代を生きたという部分での懐かしさみたいな部分だ。あの反体制への情動にも似たうねり、ああいうものはもはや失われてしまったもの、こと、として受容される。中平や森山の作品の背後にあった問題意識みたいなものを、多分も失われてしまったんだろうなという思い。まあいいか。

 

 

 

 

 中平は大学卒業後の数年、雑誌『現代の眼』の編集者だった。最初の彼の作品は勤めていた社の雑誌が発表の場所だった。『現代の眼』、新左翼運動への共感、共闘を全面に打ち出していたいわゆる新左翼系雑誌だ。当時の問題意識をもった若者たち、今風にいえば過激な左翼的志向の彼らが手にした雑誌は、『朝日ジャーナル』と『現代の眼』だった。

 自分も高校生の頃だったか、『朝日ジャーナル』や『現代の眼』はよく読んでいた。70年安保に遅れてきた少年の一人として、問題意識と知的好奇心がそうした雑誌を手にとらせたんだと思う。まだ若者が社会変革を唱えることが当たり前だった時代でもあった。まあもろもろ下火にはなっていたけど。 

 もっとも『現代の眼』を発行していた現代評論社は、右翼総会屋が経営していた。総会屋が法規制で凌ぎがなくなると同時にこの雑誌も廃刊となった。そんな話を聞いたのはずいぶん後になってからのことだ。

MOMATコレクション

 
《行く春》
《行く春》 川合玉堂 1916年

 常設展示は3月15日からの「美術館の春まつり」の展示作品を先行展示しているようで、4階ハイライトはこの時期恒例の川合玉堂のこの作品から。

 川合玉堂は四条派の写実を望月玉泉や幸野楳嶺に学び、上京してから橋本雅邦に師事して、狩野派の手法を取り入れたという。よくいわれることだが、この作品でも対岸の崖や手前の岩石の輪郭線や岩肌の皴法などが特徴的だ。さらに散りゆく桜の花びらの舞う渓谷と係留された舟、そこで働く人など、日本的なふるさとの原風景、桜の季節の終わる頃のゆったりとした時間の流れ、そうした牧歌的かつ抒情的瞬間を活写した作品だ。

 よく見ていると単なる写実性とは異なる、ある種の強調表現も多用されている。以前にも思ったことだが、散りゆく桜の花びらは渓谷の風景に対して、妙に大きいような感じがする。桜は画家の近くで舞っているのだろうか。それは画家の至近で花吹雪のように舞う桜の花びらの中で、遠景の渓谷を眺めているのかもしれない。それでもやはり花びらは渓谷の上を舞っているように見える。一種の強調表現なのかもしれないし、遠近法を超えたイリュージョンなのかもしれない。

 そしてゆっくりと舞う花びらとともにゆったりと時間が流れていくような雰囲気。それでいて渓谷の川の流れは急であり、係留された舟は流れに対して一本の縄でひっしに留まっている。そして水車から流れ落ちる水流。

 桜の花びらが舞うゆったりとした渓谷の時間、忙しなく流れる渓流。それがどこか対比されているような感じもする。この絵、至近で細部を観ているとまったく飽きることがない。

 

 

 
《春秋波濤》

《春秋波濤》 加山又造 1966年

大阪・金剛寺の《日月散水図屏風》が、四季を屛風一双に表しているのを見て感銘を受けた加山が、切金、金銀泥、金銀箔、沃懸地*1、の技法を駆使して描いた、桜の山と紅葉n山という春秋を象徴する二景が、うねる波濤によって六曲一隻の屛風におさめられ、時空を超越したこの世にならぬ光景となっている。 『東京国立近代美術館所蔵名品選 20世紀の絵画』より

 大胆な意匠と装飾性は尾形光琳を意識したものとはよくいわれる。至近で観てみると、抽象表現主義の技法も取り入れているのではないかと思えるほど抽象度が高いように思える。やはり自分的には加山又造は奇想の人というイメージがある。

《南風》

《南風》 和田三造 1907年

 これも4階ハイライトに。隣が原田直次郎の《騎龍観音》なので重要文化財つながりみたいなところだろうか。まあ観慣れた作品、名作ではあるが一介の漁師がこんなギリシャ彫刻のような筋骨隆々かと突っ込んだりして。

 今回、改めて解説キャプションを見てみると、この作品は和田三造の実体験をもとに描かれたものだとか。和田は1902年、美術学校在学中に八丈島航路で嵐に遭遇して三日間漂流して伊豆大島に漂着したという経験をしている。船が沈まないように荷物を捨て着の身着のまま状態だったのだが、船長のはからいで画学生の和田は画材を捨てずにすんだという。画面左側にひざを抱えて座る人物は和田自身。

 この作品は1907年の第一回文展で最高賞の二等賞を受賞。困難に立ち向かう不屈の精神性が、当時の列強に立ち向かう日本に呼応するような形で受容されたという。

 明るい陽射しのもとで海を進んでいくようなイメージを感じていたが、漂流シーンだったかと改めて思った。とはいえ西洋画によくある漂流をモチーフにした作品のような、劇的なものを感じさせない。1900年代初頭の日本には、まだ西洋画のロマン主義的作風は伝来していなかったのかもしれない。あくまでも「明るく、たくましく」的である。

《コンストルクチオン》

《コンストルクチオン》 村山知義 1925年

ベルリンで前衛美術の洗礼を受け「普遍妥当的な美の基準はない」ことを学んだ村山は、芸術と日常との境界を取り外すかのように、木片、布、ブリキ、毛髪、そしてドイツのグラフ雑誌のグラビアなど、身の回りの素材を用いて画面を構成した。一見、破壊的で混沌としてみえるこの作品だが、一方で、左上に突き出す角材と中央の下向きの矢印との対比や、垂直軸と水平軸の強調などは、構築への意思を感じさせる。

 海外の前衛的な思潮を伝えた戦前の振興美術運動のリーダー的存在であった村山知義は、帰国後柳瀬正夢らと前衛グループ「マフォ」を設立。建築や演劇など幅広いジャンルで活躍した。吉行淳之介の母である吉行あぐりの山の手美容院の設計や日本プロレタリア美術家同盟設立などに中心的な役割を果たした。

 この作品にも近代文明への批評や批判、そして構築のイメージなどが入り組んだ先進的な表現があるとされている。そのうち初期の前衛美術の受容作例として重文指定でもされるのではないかと、ひそかに思っていたりする。

 でも至近でよく見てみるとちょっとユーモラスな文様もあったりして、これを大真面目に付加したのか、あるいはちょっとしたイタズラ心だったのか。この「豚、鳥、蓄音機風、ヘビの文様を『マヴォ』の広告デザインとの関連、あるいは原始キリスト教チベット仏教由来のものとの関連を指摘する論文もあったりする。ちょっとしたイタズラ心でかたずけてはいけないのかもしれない。

村山知義の 「過度期」 の作品に就いて
《キーワード》コラージュ 構成主義 新興美術 写真」 (ジョン・ワインストック)

http://www.lit.kobe-u.ac.jp/art-history/ronshu/4-3.pdf

 

 

 
《麗子六歳之像》

 4階3室では岸田劉生のミニコーナーがある。なんでも今年は劉生の娘麗子の生誕110年にあたるということで、ちょっとした《麗子像》祭といった雰囲気だ。一番有名なトーハクの《麗子像》の借り受けはないようだが、いつも見慣れた《麗子肖像(麗子五歳之図)》とは違う《麗子像》の展示もあった。

《麗子六歳の像》 1919年 水彩・紙

 キャプションには岩波茂雄旧蔵、岩波雄二郎遺贈とある。岸田劉生の全集が岩波書店から出ていることもあり、戦前岩波茂雄岸田劉生には交流があったのかどうか。まあ普通に戦前の高額所得者であった岩波なので絵画もそこそこ収集されていたのかもしれない。岩波雄二郎は二代目岩波書店の社長。個人経営だった岩波書店が1949年に株式会社化したときに30歳で社長に就任、以後、会長、相談役を歴任して2007年に死去している。

 モダンな青年実業家で社長就任と同時に東京商工会議所の発足に中心的な役割を示した。岩波の経営は主に小林勇が担っており、岩波書店と岩波家の架け橋的存在だったのではないだろうか。ゴルフ嫌いである時期までは岩波書店でゴルフの話題は禁句だったというエピソードが実しやかに語られていた。

 絵の来歴一つみていてもいろいろ喚起することがあり、それも絵画鑑賞の楽しみかもしれない。

 このコーナーでは麗子の写真も展示してある。リアル麗子はなかなか利発そうな雰囲気の少女だ。右側は母親で茶人でもある蓁(しげる)。

 
芹沢銈介

 3F日本画のコーナーでは染色工芸家、図案家芹沢銈介の特集。

芹沢銈介 - Wikipedia

 ほとんど馴染みのない人だが意外と面白い。

 

 
《蟻》

《蟻》 ジュルメーヌ・ルシエ 1953年 ブロンズ 

新収蔵&特別公開|ジェルメーヌ・リシエ《蟻》 - 東京国立近代美術館 (閲覧:2024年3月1日)

 2Fギャラリー4では新収蔵品《蟻》の特別公開ということで、関連するハイブリッドをモチーフにした作品や彫像作品が展示してある。

ジェルメーヌ・ルシエ

略歴|1902年、南仏アルル近郊グランの生まれ。モンペリエのエコール・デ・ボザールにて、オーギュスト・ロダンの弟子ルイ=ジャック・ギーグに彫刻を学ぶ。26年パリに出て、エミール=アントワーヌ・ブールデルに師事する。34年、初個展。35年、ポンペイを訪れ、溶岩により石化した身体から新たな表現へのインスピレーションを得る。39年、第二次大戦のためチューリヒに居を移し、同地にて制作を続け、ジャン(ハンス)・アルブ、アルベルト・ジャコメッティマリノ・マリーニなどと親交を結ぶ。46年、パリに戻る。50年、スイス国境近くの村アッシーにある教会に、キリスト像を設置するも、翌年、記号的に表現されたその像は地元の反対によって撤去される(71年に再設置)。51年、第1回サンパウロビエンナーレ彫刻部門で一等賞受賞。56年、パリの国立現代美術館で回顧展開催。59年、南仏モンペリエで死去。

(解説キャプションより)

 人間(女)と蟻の混成交雑—ハイブリットをモチーフにした作品。異形としか言い得ぬような感じがするし、どこかグロテスク気分を抱くのはいたしかたないか。抑圧された女性と小さく、踏みつぶされたり、他の昆虫に捕食される蟻とのイメージの交錯をみるみたいなことだろうか。

*1: 蒔絵(まきえ)の技法の一つ。うるし塗りの器面全体に金粉または銀粉を蒔きつめて、その上から漆を塗り、磨きあげて地としたもの