東京国立近代美術館へ行く

 一ヶ月半ぶりの東京国立近代美術館(以下東近美)。

 リヒターも終わり次の企画展は11月1日から大竹伸朗展が始まる。ということで常設展示だけをゆっくり観ることができる。常設展示も9月からだいぶ変わっている。MOMATコレクションは10月12日から新展示となっている。特に3階展示室では海関70周年企画として「プレイバック『抽象と幻想』」展が開かれている。

https://www.momat.go.jp/am/exhibition/permanent20221012/(2022年10月20日閲覧)

 

 まずは4Fのハイライトは狩野芳崖《桜下勇駒図》、横山大観《菊慈童》、渡辺省亭《雪中鴛鴦之図》など。

《雪中鴛鴦之図》 渡辺省亭

 渡辺省亭は花鳥画に長けた人だという。菊池容斎の弟子、その後輸出陶磁器の図案家として活躍、1876年頃にパリに派遣され印象派の画家とも交流をもった。

渡辺省亭 - Wikipedia (2022年10月20日閲覧)

 辛辣なところがあり、竹内栖鳳について歯に衣着せぬ批評で「栖鳳と云う人は動物は描けるが人物は描けない人らしい」とまで語っている。

 3F10室日本画の間では、竹内栖鳳の新収蔵品に合わせて、日本画の奥行ー遠近表現という企画意図から作品が展示されている。その企画に関するキャプションが、遠近法の判りやすい解説になっているので引用する。

二次元の画面で奥行きを感じさせるにはどのような方法があるでしょうか。よく知られているのは透視図法。二本の平行線が遠くにいくほど狭まって見える現象を利用した作図法です。一点透視図法、二点透視図法、三点透視図法があります。それから、空気遠近法と色彩遠近法。遠くのもののコントラストを弱めるのが前者、遠くのものに(多くの場合)青みを帯びさせるのが後者です。モチーフを重ねる方法も有効です。重なって一部が隠れている方が遠くにあると認知されるのを利用した表現法です。このほか、古くから東洋絵画で共有されてきた約束事に則って、近くのものを画面下部、遠くのものを画面上部に配置する方法や、中国山水画のいわゆる「三遠」などもあります。
 今年新たに収蔵した竹内栖鳳の《日稼》は、何層にもモチーフを重ねた画面構成が特徴です。この作品のお披露目を兼ねて、近代以降の日本画の奥行き表現を考える特集です。複合的な手法から、いっそのこと完全無視した作品まで、それぞれの手法と効果をお楽しみください。

 そして遠近法=透視図法の作例としてあげられているのがこのへん。

ウォール街》 横山操 1962年

 横山操というと東近美で「塔」を何度か観ている。あとどこかで「赤富士」のシリーズを幾つか観ている。加山又造とは自他共に認めるライバルだったとか、シベリア抑留経験あるとか、脳卒中で右麻痺になり絵筆を左手に持ち替えて作画したとか、そういうエピソードを評伝的に読んだ記憶がある。

 この絵は1961年にアメリカ旅行した際にニューヨークやグランドキャニオンを回った時のことを題材にした一連の作品の一つ。「塔」を観ていると、この人が摩天楼をこういう風に表現するというのはなんとなくうなずける。なんとなくだが、ベルナール・ビュッフェが描いたニューヨークと同じようなものを感じる。画家の感性は、あの大都市になにか薄ら寒い、生身の人間を拒絶するような何かを感じるのだろうか。

 

《女優》 橋本明

 一見して橋本明治と判る。ポップで太い輪郭線の独特な表現で女性を描く。この人の絵は高崎タワー美術館などで何度か観ている。ある種一度観たら忘れることができないオリジナリティがある。この絵は明確な遠近法だが一部他視点的な部分もあるようだ。ちなみにこの絵のモデルは司葉子だという。

 

 そして新収蔵品、竹内栖鳳

《日稼》 竹内栖鳳 1917年

 この作品の解説キャプションにはこうある。

手前から順に、笠、流し場、娘、斧、障子、金色の平卓、堆朱の箱、そして阿弥陀の掛軸と、たくさんのモチーフが重なっていることに気づいた途端、平たく見えていた(しかも流し場のパースに迷いがある)画面に奥行きを認知できるようになるのが不思議です。作者はその落差を最大にしたかったようです。なぜなら、流し場以外のモチーフを正対させ、娘の着物なんて平たくベタ塗りにしているのですから。それでもまだ平たさが足りないと思ったのか、「写実の匂ひが鼻につく」作品になった(「文部省展覧会日本画作家の作意と苦心」『太陽』1917年11月)とコメントしました。

 「ながし場のパースに迷いがある」というが、これは明らかに透視図法的にやや失敗なのではないかという気もしないでもない。障子や奥の掛軸が妙に平面的である。それと前景のモチーフや娘の立体感とのバランスも悪い。流し場のパースはどうせなら、多視点的にしてしまえばいいのだが、多分竹内栖鳳セザンヌにもキュビスムにも興味はなかったに違いない。

 さらにいうと、多分これは自分の感じ方なのかもしれないが、娘が額を拭うようにする手拭と顔の感覚がちと微妙な気もしないでもない。なんていうのだろう、これ手拭なかったら、この娘はずいぶんと額の広い子になってしまうのではという気がしないでもない。まあ考えすぎかもしれないけど。

 

 着物のベタ塗りにしろ、栖鳳自身のいう「写実の匂いが鼻につく」というコメントにしろ、この作品はなんとなく栖鳳自身気に入らない作品なのかもしれない。というよりもこれは作者的には失敗作(?)なのかも。前述した渡辺省亭による栖鳳評ではないが、竹内栖鳳は動物画は得意だけど人間を描くのが苦手だったのかもしれない。渡辺省亭がこの絵が制作された翌年には亡くなっているので、この絵を観ているかどうかわからないが、辛辣な省亭だったらどう評しただろうか。

 

 10室でメインにあるのは下村観山の《唐茄子畑》。これを観るのは久しぶり。右隻の桐の上に伸びる縦の表現、左隻の柵にからまる唐茄子の葉と蔓は横への表現。右隻で飛び立つ鴉と左隻の地面になぜかいる黒猫。垂直と水平、これもテーマである奥行とn関連なのだろうか。

《唐茄子畑》 下村観山 

 

 そして多分初めて観る菱田春草の《四季山水》。約9メートルもの画面に四季の風景を描いた絵巻。絵巻によって右から左に季節の移ろいを描いている。こういうのは異時同図とは多分いわないのだろうな。

 1910年頃の制作ということで、1911年に36歳で早世した春草の晩年の作品。

 この作品を観ることができただけで、来た甲斐があったような感じ。

 

 同じ10室には吉岡堅二の《楽苑》も。こちら奥行を「完全無視」した作品かも。沢山の動物というモチーフを平板に配置している。まったく奥行き感がないが楽しい作品。多分、アンリ・ルソーの影響がある作品なのだと思う。

《楽苑》 吉岡堅二

 しかしいつものことながら、10室日本画の部屋は落ち着けるし、出来ればずっといたくなるような雰囲気の場所だ。

 

 東近美には年内にあと1~2回行ければいいと思っている。