墓参り

 珍しく、妻だけでなく子どもが墓参りに行こうと言う。雨か、雪でもふるかと思うくらい意外なことではあったのだが、まあせっかくだからということで出かけることにする。

 うちの墓は神奈川県の山の中にある。場所は神奈川だが、愛甲郡という所。本当になにもない山の中である。近隣では宮ケ瀬ダムやら、津久井湖や相模湖など観光地がある。もともと横浜に住んでいる時に父親が亡くなり、葬儀屋に墓はどうしますと言われ、まったく考えていなかったので、葬儀屋がすすめてくれたところに決めたというだけのことだ。

 現地に行ってみて驚いたのが、父が亡くなる一月前に父と二人でドライブをした。その時に相模川の河原でしばらく遊んだ。遊んだといっても河原に座って、たわいない日常的な話をしたり、川向うの山をぼーっと見ていたりしただけだ。

 その時、見ていた川向うの山の裏側を切り開いたなだらかな傾斜に西洋風の墓石を並べた墓地公園が案内されたところだった。何かの偶然か、あるいは父にはなんとなく自分が葬られる場所がわかっていたのか、そんなちょっとだけ因縁めいた部分がある。

 いつも墓参りにいくと必ず斜面の一番下のところから写真を撮る。その景色はほとんどといっていいくらいに変わらない。こういう風である。

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 春彼岸の翌日だが、時間が遅いせいか、墓参りの人もほとんどいない。家を3時少し前に出て着いたのが4時くらいである。高速道路が延伸したこともあり本当に便利になった。以前、下道だけで行っていた頃には、道路の込み具合によっては3時間近くかかることもあったのだが、今では本当に1時間である。とはいえ近くなっても墓参りに行く頻度が増えた訳でもない。お彼岸ですら行かないことも少なくない。まして子どもとなるとあまり一緒に来ることはないので、家族三人で来たのは多分4年ぶりくらいになるのかもしれない。

 父の墓は50メートルくらい登ったところにある。購入した当初はまばらだった墓石も今ではほとんど空きがなくなっている。さらに上の方も山を切り崩して墓石が連なるようになってきている。

 墓に入っているのは父と祖母だ。何気に墓誌を見てみると、父が亡くなったのは1986年10月。もう34年も前のことになる。そして祖母が亡くなったのは1996年2月でこちらももう24年も経っている。そりゃ自分も歳をとる訳だという妙な得心がある。

 墓を建てたのは父の亡くなった翌年だから、もうこの墓も33年も経っていることになる。その割にはわりとキレイな状態だ。父が亡くなった翌年に、父とは腹違いの父の姉が亡くなって、多分幾つかの偶然が重なったからなのだろう、父の墓の4つか5つ手前に墓がある。自分たちの代ではまったく行き来のない親戚である。いまさら連絡もとることなどはない

 墓参りに行ったときにはいつもしきみと線香を二組購入し、自分のところとその見知らぬ親戚の墓に手向けるようにしている。これは特になにもなく、かれこれ三十年ずっと続けてきている習慣だ。先方でも墓参りの際には、うちの墓に線香をあげてくれているようで、時々の燃えかすを見つけたりすることもある。

 自分はほぼ完ぺきに無宗教で信仰心もないので、いわゆる法事というものはやらないできた。墓参りに来たときはしきみと線香をあげて、墓石を簡単に掃除して手を合わせ、心の中で近況を報告し、家族の健康とか願い、見守って欲しいとお祈りする。ただそれだけのことだ。

 今回は子どもが妙に生真面目に墓石の〇〇家の文字についた汚れを掃除してくれていた。今年で大学も卒業となり社会人になる。子どもなりにそういう節目ということもあり、墓参りにということもあったのかもしれない。

 小1時間、子どもと自分とで墓石の掃除をした。主には子どもが小さな歯ブラシを使って文字についた汚れを落としていた。妻はというと、杖で少し先まで歩いて戻ってきた。本人がいうには少し体を動かしたいということだ。

 そのようにして5時を回ると、チャイムがなり閉園知らせてきた。春彼岸ともなると陽も長くなり、夕刻とはいえまだまだ明るかった。最後にもう一度墓の前で手を合わせてから岐路に着いた。公園墓地の正門は閉鎖されていたので、傾斜を少し上った先の裏から車を出した。

 帰り道、もう一度墓誌に刻まれた父と祖母の亡くなった年月を反芻した。父は1986年、祖母は1996年。10年のサイクルということだ。そしてそれからもうずいぶんと年月が流れた。この後、この墓に入るのは誰なんだろう。年齢の順番であれば兄が先か、あるいは自分か。そんなことが割合に現実的な話と思えてくるほどに、自分も兄も歳をとったということだ。

 あと30年もすれば、この墓を守ってくれるのは多分子どもだけということになる。その時、子どもに家族がいれば、家族を連れて墓参りをしてくれるだろうか。そんなことを考えるほどに、自分も小さく老いてきている。