(考 国葬)「自民を弔う葬儀」に見えてきた 

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 朝日朝刊3面総合に作家・赤坂真理氏の国葬についてのインタビューが掲載されていた。国葬自民党に対する考察、的を得た意見ではあるが、その論考は自民党という政党の本質を見事に言い切っている。しかし議会で多数を占める政権与党への過激なまでの批判を大新聞に載せて、これって大丈夫だろうかと心配になってくるほどの内容である。これって自民党筋からの公然、非公然の圧力とかないだろうかと思ったりもする。

 ここのところ統一教会問題を含め政権批判にやや消極的な感じがする朝日新聞が、このような過激な政権批判(ととられてもおかしく無い)を載せるというのはどうなんだろう。やはり安倍元首相の暗殺事件以来、少しずつ潮目が変わりつつあるのかもしれない。

 以下、赤坂氏の発言を引用する。

 ――しかし、今回は「見せる」ことに失敗しているのではないでしょうか。

 「それだけでなく、自民党の『中身のなさ』が明らかになりつつあります。本当は既に終わっているのに、終わっていないように見せかけてきた自民党の実態を、銃撃事件が暴露した。空虚さが白日の下にさらされたのです」

――空虚とはどういうことですか?

 「元々理念が何もない党だということです。米国の要請で日本を『反共のとりで』とし、米国の言うことをなんでも聞く。それを自発意思でやっているように国民に見せかけてきた政党ですが、今となっては共産主義は『資本主義に敗れた陣営』としか人々は思いませんし、『共産主義への恐怖』にもピンと来ない」

 自由民主党の結成は1955年、左右に分裂していた社会党が統一したことに対峙するため、保守系政党が合同して結成された。社会党自民党という左右の政党がそれぞれ合同したことにより、いわゆる1955年体制が生まれた。しかし自民党の本質は、赤坂真理氏が指摘したとおり、米国の要請による「反共のとりで」だけが目的化された米国のいいなりになるロボット政党だったのだ。そして多分、もう一つの本質的な部分は、この政党が政権党、権力の座につきそこに居座ることだけが目的化された政党だということだ。

 政党としての政治理念や築き上げるべき社会への理想などは一切なく、ただ「反共のとりで」と政権党であり続けるということだけが自己目的の政党、それが自由民主党の本質なのだ。

 ベルリンの壁崩壊、ソ連邦共産主義陣営の解体、20世紀末の世界史レベルでの大きな変化を受けて日本の1955年体制も崩れ、日本社会党も消えた。自民党一党による長く続いた政権も一度は倒れたがすぐに復活。2009年に民主党による政権交代があったが、3年足らずで再び自民党は政権の座に返り咲き、それ以降長期政権を続けてきている。

 しかし赤坂氏が指摘したとおり「元々理念が何もない党」が、その唯一の存在意義でもあった「反共のとりで」も不要となり、ただ政権党(=権力の座にあり続ける)であることだけを自己目的として存在している。そういう自民党の実態=空虚さを赤坂氏は指摘したのだろう。

 「自民党が掲げる『保守』や『愛国』の実態は、最初からよじれていました。もし本当の保守であったなら、市場自由化と改革に血道を上げるはずがありません。愛国であったなら、外国の軍隊が駐留することに賛成しません。むろん、日本を従属的な地位に置く旧統一教会と手を組みません」

 そうなのである。「保守」を理念にあっては新自由主義的な市場自由化や改革は相容れないだろうし、そもそも「愛国」=ナショナリズムの立場にあって、日米安保条約による外国軍の駐留を是とする訳がないのである。ようはもうすでに崩れてしまった「反共主義のとりで」と「米国へのいいなり」に後付けで伝統的な価値観をこじつけているだけなのではないのか。

 赤坂真理氏は今回の元首相の国葬、もとい国葬儀を「自民党を弔う葬儀」に見えてきたと結論付けている。そして自民党の中身のなさ、その空疎な実態が明示化されたことを語る。同感である。ただしより絶望的な結論を導きだすとすれば、長く政権にあり続ける自民党の空虚さは、実は戦後日本の空虚さにつながっているのではないのかということだ。「自民党が中身を伴わない『保守』や『愛国』の空疎な政党」だとしたら、その政党が政権党であり続ける戦後の日本国家は、日本社会は、中身の伴わない名ばかりの「民主主義国家」、「市民社会」であったということではないのか。

 国葬は「空虚な自民を弔う葬儀」であり、「空虚な日本国家を弔う葬儀」なのかもしれない。