MOA美術館「開館40周年記念名品展 第1部」 (2月25日)

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 MOA美術館に来るのは去年の7月以来。前回は竹内栖鳳の回顧展だった。

MOA美術館『没後80年 竹内栖鳳ー躍動する生命ー - トムジィの日常雑記

 今回のお目当てはというと、春先のこの時期だけ公開される国宝、尾形光琳紅白梅図屏風」。この絵を観るのは二度目で、初めて訪れた時に偶然目にすることができた。今、この雑記で確認したところ2012年、会社の有志でオヤジ旅行した時の事だったようだ。

追憶の真鶴旅行 - トムジィの日常雑記

 しかしこうやって日常の些事をグダグダと書き綴るという行為もたまにこうやって思い返すという点ではけっこう役に立つとはいえる。もともと無着成恭の『山びこ学校』じゃないが、生活綴り方みたいな動機で始めたものだが18年も続けていれば、あれはいつだったっけという時の備忘録として役立っている。個人的な問題ではあるけど。

 そう、最初にMOA美術館に訪れ「紅白梅図屏風」を観てからもう10年の月日が流れている。あのオヤジ旅行は初日に熱海へ行き、昼食で寿司食ってからMOA美術館へ。それから熱海の繁華街の酒屋で新酒を買ってから、佐伯泰英が買いとって改修したという旧岩波茂雄の別荘惜櫟荘を見学に行ったりした。ちょうど車で帰ってきた佐伯泰英に挨拶したこととか、周囲の道が物凄い坂道で、曲がり角でタイヤが空回りして道に跡をつけたこととか、つまらないことをが数珠繋がりに思い出されてくる。

 

 MOA美術館の展覧会は「開館40周年記念名品展 第1部」と銘うったものだ。展示作品は84点で、そのうち国宝3点、重要文化財20点、重要美術品9点が出品されている。これはMOA美術館が所蔵する所蔵品のうち国宝全点(3点)、重要文化財の3割(67点)、重要美術品の2割(46点)にあたる。そういう意味では蔵出し的な展覧会であり、お好きな人にはぜひ観てもらいたいと思う。ゆったりしたスペースの中で名品揃いの展示である。さらにいうとMOAの展示ではガラスが特別仕様で照明等の映り込みがほとんどないので実に観やすい。

開催概要メモ

「開館40周年記念名品展 第1部

会期:2022年1月28日(金)~3月27日(日)

» 開館40周年記念名品展 第1部 | MOA美術館 | MOA MUSEUM OF ART

●国宝

「色絵藤花文茶壺」(野々村仁清) 江戸時代 17世紀

紅白梅図屏風」(尾形光琳)   江戸時代 18世紀

「手鑑 翰墨城」         奈良~室町時代

重要文化財

「樹下美人図」          中国唐時代 8世紀

「山水図」(伝 馬遠)      中国南宋時代 13世紀

「寒絵独釣図」(伝 馬遠)    中国元時代 14世紀

「黒釉金彩端花文茶椀」(定窯)  中国北宋時代 11~12世紀

「過去現在絵因果経断簡」     奈良時代 8世紀

平兼盛像 佐竹本三十六歌仙切」 鎌倉時代 13世紀

源重之像 上畳本三十六歌仙切」 鎌倉時代 13世紀

「布袋図」(黙庵霊淵 了庵清欲賛」 南北朝時代 14世紀

白衣観音像」 (吉山明兆)   室町時代 応永32根n(1425)

「楼閣山水図屏風」 (海北友松) 桃山時代 17世紀初期

聖観音菩薩立像」        奈良時代 8世紀

「十一面観音立像」        奈良時代 8世紀

阿弥陀如来立像」        鎌倉時代 13世紀

阿弥陀如来及両脇侍坐像」    平安時代 12世紀

「金光明最勝王経註釈断簡 飯室切」奈良時代 8世紀

「錫杖頭 鉄造」         鎌倉時代 13世紀

「仙盞(せんさん)形水瓶」    平安時代 9~10世紀

「鳥牡丹彩絵曲物笥」       平安時代 9~10世紀

「染付草花文瓶 伊万里」     江戸時代 17世紀初

「色絵桃花文皿 鍋島」      江戸時代17世紀末~18世紀初頭

紅白梅図屏風

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紅白梅図屏風」 (尾形光琳) 

 MOA美術館の看板的名品。俵屋宗達に私淑し独自の表現技法を磨いた尾形光琳の代表作という。左隻の白梅は樹幹を画面外に隠し垂れ下がる枝ぶりから花弁を覗かせ、右隻の紅梅は幹を大きくとる。そして中央には末広がりな流水をグラフィカルに描いている。

 この絵には様々な解釈があるとかで、その代表例としては右隻の紅梅は若さ、左隻の白梅は老いを表現していて、流水は時間の流れを表しているという。なるほど水流は時間の流れというのはなんとなく首肯できないでもない。

 そうした解釈が可能なのは、この絵がきわめて抽象度が高くイメージ換気を促すような絵だからだとは思う。この作品は尾形光琳(1658-1716)の晩年の作と伝えられている。光琳が活躍した17世紀後半から18世紀初頭というと、西洋ではバロック後期からロココの前半くらいにあたる。同時代人というとフェルメール(1632-1675)、ヴァトー(1684-1721)あたりとなる。それを思うと光琳のグラフィカルな構図や装飾性、デザイン性は相当時代の先をいっているような気もする。

故事人物図屏風

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「故事人物図屏風」(長谷川等伯) 17世紀 

 右隻には、殷の紂王を討とうとする周の武王を諌め、聞き入れられず首陽山に隠れ餓死した伯夷・叔斉を描き、左隻には「楚の漁夫の辞」として知られる漁夫と問答する屈原を描いているのだとか。中国の故事についての知識がないと理解が深まらないものがあるかもしれない。「屈原」というと岡倉天心をモデルにしたという横山大観のそれを思いだすけど。

長谷川等伯 - Wikipedia

伯夷・叔斉 - Wikipedia 屈原 - Wikipedia 漁父の辞

楼閣山水図屏風

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「楼閣山水図屏風」(海北友松) 17世紀初期 

右隻に「高亭の麻柳蓬舟」を、左隻に「古寺の廊門緑樹」を描いている。筆数を抑えて余白を生かす、減筆体の草体山水図で、全体には淡墨を基調としながらも、濃墨による楼閣や樹木で画面を引き締めている。

楼閣山水図屏風 | MOA美術館 | MOA MUSEUM OF ART

海北友松 - Wikipedia

 海北友松(かいほうゆうしょう)、聞いたことはあるが実作を観るのは多分初めてである。解説にある減筆体という言葉も初めてきく。

本来は字画を省いて文字を書くことで、省筆、略字と同じ意味であるが、書の楷・行・草の三体のなかの草体のように、筆数を極度に省略した絵画の技法をいう。中国では書と画とを芸術として同列にみなす伝統があり、とくに六朝(りくちょう)以来、書画一致の思想が書画界で主流を占めていた。しかし、唐代になって絵画の風潮が写実主義自然主義に大きく傾き、形似を尊重するようになると、その反動として減筆の画法がおこり、唐末五代の水墨画家の間から実際にこの技法を用いた作品が現れた。五代の画家石恪(せきかく)の水墨画などはその具体例であるが、南宋(なんそう)の梁楷(りょうかい)はこの技法をさらに推し進め、水墨画を白描化した本格的な減筆体の独特な画風を打ち立てた。彼の『李白(りはく)吟行図』はその代表的遺品。

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

減筆とは - コトバンク

 中国ではもともと書と画を同列とする書画一致の思想があったが、唐代に入って写実主義により自然を写す描法が尊重される。そしてその反動として表現を簡素化させる減筆画法が起こるか。なんか絵画表現は東西でも同じような運動が起きるものだなと思ったりもする。

 西洋でも自然を細密にそのまま描くような描写が生まれる。それは古典主義であれ、その後の自然主義でも同じである。それに対する反動として光に移ろうような主観的な表現が生まれ、さらに自然を形態化したり、省略化、抽象化したりなどなど。まあやってることは墨であれ油彩であれなんだか一緒のような気もしないでもない。

 さらにいえば減筆化するということは、描線により対象物を単純化したり、画家の主観による捉え方が全面に出るということかもしれない。まあこの描法は江戸時代以降でも普通に山水画の表現としては一般化しているのだとは思うけど。

 友松の絵も細かく見ていくと、なるほどこのへんが減筆表現なのかなと思ったりもする。

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樹下美人図と大谷光瑞

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「樹下美人図」 中国唐時代 8世紀

大正三年に、西本願寺門主大谷光瑞師 (おおたにこうずい)派遣の中央アジア探検隊によって請来されたもので、東トルキスタン、現在の新疆 (しんきょう)ウイグル自治区トゥルファンの喀喇和綽(カラホージヨ)古墳から出土した。現在、東京国立博物館に所蔵されている樹下男子図と対をなすと伝えられる紙本の作品である。

樹下美人図 | MOA美術館 | MOA MUSEUM OF ART

 大正時代に中央アジアで出土し探検収集品として持ち帰られた紙本作品である。おおよそ1100年前の紙本作品がこのように鮮やかな色彩のまま保存されていることに驚く。そしてそれ以上に西本願寺門主大谷光瑞派遣の中央アジア探検隊ってなんだということになる。

 浄土真宗本願寺派第22世法主で探検家、伯爵、国営競馬馬主。西本願寺派法主というのはわかるが、探検家、競馬の馬主というのがちょっと理解できない。かなり破天荒な人物だったみたいだ。試しに略歴を書き出してみる。

大谷光瑞 - Wikipedia(1876-1948)

1976年 本願寺第21正法主大谷光尊の長男として誕生

1885年 9歳 得度

1900年 24歳 日本出発

1902年 26歳 西域探検のためインドに渡り発掘調査を行う

1903年 27歳 釈迦ゆかりの霊鷲山を発見

        父光尊の死去により帰国22世法主となる

1904年~1914年 1回から3回にわたる発掘調査を実施

1908年 32歳 神戸に二楽荘を建て、探検収集品の公開展示

        英才教育のための私塾武庫中学設立

1913年 37歳 孫文と会見、中華民国政府の最高顧問に就任

1914年 38歳 大谷家の巨額負債整理、教団の疑獄事件のため法主を辞任。大連に隠退

1919年 43歳 光寿会設立して仏典の翻訳にあたる

1921年 45歳 上海に次代を担う人材育成のため策進書院を開校

1932年 56歳 二楽荘火災で焼失

1935年 59歳 台湾総督府の要請に応え、台湾を視察

1939年 63歳 台湾で大谷農園を開発

1940年 64歳 台湾高尾に別荘逍遥園を建設

1941~1945年 近衛内閣で内閣参議、小磯内閣で顧問を務める

1945年 65歳 ソ連軍に抑留

1947年 67歳 帰国、公職追放となる

1948年 68歳 別府にて没す

 光瑞の兄弟にもなかなかユニークで、大谷光明はゴルファー、ゴルフ場設計者であり、妹の九条武子は歌人として有名。たしか上村松園に絵を習っていて、松園は武子を理想の女性と考えていたとかなにかで読んだ記憶もある。

 長々と大谷光瑞のことを書き出してみたけど、その経歴からするとどことなくインディ・ジョーンズみたいないい意味でのロマン溢れる冒険家、探検家、あるいは帝国主義的な略奪者だったかもしれない。法主を辞めたあとは植民地での農園経営から内閣の顧問となるなど、宗教家というには妙に俗っぽい山師的な側面もあったのかもしれない。

 大谷光瑞が行った探検、発掘は盗掘とまではいうことはできないだろう。この時代には探検によって発掘した遺物、美術品は発掘した者が自由に国外に持ち出すことが可能だったのだろう。でも例えばこの唐代の紙本絵は、もともとは中国のものでもあるのかもしれないと思ったりもする。

叭々鳥図

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「叭々鳥(はっかちょう)図」(伝 牧谿*1) 中国南宋時代 12~13世紀

わずかに葉の残る梢に叭々鳥が止まり、首を巡らして羽を休める姿を略筆で描き、静寂な感じを厳しい水墨の濃淡のみで表すなど絶妙な筆致で描かれている。光沢のある墨色の特徴などから、作者は画僧牧谿に擬せられている。本図は添付の覚書によれば、もと織田信長が所持していた二幅の内の一幅で、本能寺の什物として伝来したという。左下隅に「牧谿」の白文方印、右下に「天山」の二重郭朱文方印が捺されている。天山は足利義満の号で、この図が室町幕府の御物であったことを物語っている。

叭々鳥図 | MOA美術館 | MOA MUSEUM OF ART

 叭々鳥はムクドリの一種で東アジアや中国南部に生息する。古くから画題として描かれていて、若冲なども描いている。

月に叭々鳥図 | thisismedia

 なおこの牧谿作と伝えられる作品については解説にあるように足利義満の所有であり室町幕府の御物であったものが織田信長へと渡ったものだ。解説では二幅の内の一幅となっているが三幅あるという話もあるようで、一つは出光美術館、そしてもう一つは五島美術館にあるらしい。

叭々鳥図 伝 牧谿筆 | 公益財団法人 五島美術館

ちょっとした感想

 今回のMOA美術館は展示作品もボリューミーで見応えがある。出来れば期間中にもう一度行きたいところだが、多分これはちと難しいかもしれない。

 MOA美術館は宗教家岡田茂吉が創立したもので、岡田は美術品には「人々の魂を浄化し、心に安らぎを与え、幸福に誘う力がある」と考え、また東洋美術の名品の海外流失を防ぐため蒐集を図ったという。さらに美術品を独占することなく多くの人にみせるため美術館建設を行ったという。

 それ自体は一宗教家の崇高な精神だとは思うし、実際それにより我々はこうやって多くの名品を享受できるのだとは思う。でも美術品蒐集のための原資は多分、信者たちの蓄財したものかもしれないかと思うと微妙な気持ちにもなる。宗教家なり宗教法人が美術品を集められるのは、ひょっとしたら税制的な優遇にょるところもあるのかなどと下世話なことを思うところもないではない。まあそのへんは東京富士美術館でも思うことだ。

 とはいえ私財を投げうって美術品を蒐集し、人々に公開するために美術館をも建設する。この国にはそういう篤志家がかっては多数いたということは重要なことだと思う。アーティゾンの石橋正二郎、ポーラ美術館の鈴木常司、大原美術館の大原孫三郎などなど。それらと同列に岡田茂吉池田大作も位置付けてみる必要もあるかもしれないなと思ったりもする。国内にいて素晴らしい美術品を享受できる訳なのだから。