グランマ・モーゼス展 (12月9日)

【公式】グランマ・モーゼス展 ― 素敵な100年人生

 先週の木曜日、世田谷美術館グランマ・モーゼス展に行って来た。

 この企画展は大阪を皮切りに全国5会場巡回していて東京はその4番目だ。ほぼ1年以上をかけて全国巡回する大きな回顧展といえる。

大阪アベノハルカス美術館  4月17日~6月27日

名古屋市美術館       7月10日~9月5日

静岡市美術館        9月14日~11月7日

世田谷美術館         11月20日~2022年2月27日

東広島市美術館            2022年4月12日~5月22日

 グランマ・モーゼスを始めて知ったのは2016年に諏訪湖の畔にあるハーモ美術館だ。ここは国内でも作品が少ないアンリ・ルソーの作品が8点も収蔵されている。それを知って訪れたのだが、ルソー以外にもいわゆる素朴派といわれるアンドレ・ボーシャンやカミーユ・ボンポワの作品も収蔵されている。そこでアメリカの素朴派画家としてグランマ・モーゼスの作品を始めて知った。

 さらに同じ年に新宿のSOMPO美術館でフランス風景画の企画展を観に行ったときにも、グランマ・モーゼス作品が多数常設展示されていた。あとで知ったことだが、SOMPO美術館ではグランマ・モーゼス作品を30数点所蔵しており、そのうちの数点は今回の回顧展にも出品されている。

 グランマ・モーゼスについては、一見すると子どもの絵のような作品が多い。正規の美術教育を受けていない、パースもはなから意識していないし、構図も微妙。そういう点が素朴派と括られるという風に、当時は理解していた。でもハートウォーミングというか、観てる者の心を楽しくさせるような、そしてどことなく懐かしいような雰囲気を醸し出す絵に魅了された。さらにグランマ・モーゼスが絵画をキャリアをスタートさせたのが70代の後半からで、その後彼女は101歳まで画業を続けアメリカの国民的画家と称されるほどに人気があったことなどを知った。

 そして今回の回顧展、早くに観たいと思っていたので当初はアベノハルカス美術館か静岡市美術館に遠征しようかとも思っていたのだが、関西旅行などとの調整がつかず世田谷美術館まで待つことになった。そういう意味では本当に楽しみにしていた企画展だった。実際、特にどの絵がいいということはなく、すべてがグランマ・モーゼス・ワールドなんだが、1点1点見入っていると思いのほか時間が経っていた感じがする。

 まずは砧公園駐車場から世田谷美術館へ向かう小径はイチョウの葉が絨毯のごとく。

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 以下、今回知ったこととかをメモ的に。

 グランマ・モーゼスは本名アンナ・メアリー・ロバートソン・モーゼスという。1860年ニューヨーク州グリッチに生まれ、12歳で近所の金持ち農家に奉公に出る。その後、何件かの農家にお手伝いとして奉公し、27歳で同じ奉公先の使用人トーマス・サーモン・モーゼスと結婚した。その後、二人は南部ヴァージニア州シェアナンドア渓谷に移り住み農業を営む。その後、彼女が40歳の時に農場を購入するがそれを売却し45歳の時にニューヨーク州に戻りイーグル・ヴィレッジに農場を購入する。

 彼女はヴァージニアで10人の子どもを出産するがそのうち5人は死産だったという。夫婦での農場経営は過酷な労働であり、その中でほぼ毎年妊娠するということは、女性の身体にはかなりのダメージとなったのではないかと思う。ちょっと失礼なものいいかもしれないが、結婚してから40歳くらいまでの間、彼女にはいわゆる生理というのはまったくない状態だったのではと想像する。そのこと一つからも、あの楽しい人の心を温かくさせるファンター的な絵の背後には、過酷な労働や妊娠、出産という女性の身体面でのハードな体験が通底しているのかもしれないと、なんだか絵とは真逆なことを考えてしまう。

 1927年、彼女が67歳の時に夫のトーマス・サーモン・モーゼスが亡くなる。その4年後、結核が悪化していた次女アンナを手伝うためにニューヨーク州に近接したヴァーモント州ベニントンに移る。その後、アンナに勧められて刺繍絵を制作する。

 次女アンナは間もなく亡くなり、しばらくその子どもの世話をしていたが、イーグル・ヴィレッジに戻り末息子夫婦と暮らすようになる。またリューマチが悪化して刺繍絵が難しくなり、75歳くらいから本格的に絵画制作に取り組むようになる。地元のチャリティセールなどに手作りのジャム、ポテトチップスなどと一緒に絵画も出品するが受賞するのはジャムで、絵画は評価されることがなかったという。

 1938年、78歳のときにイーグル・ヴィレッジにほど近いフージック・フォールズのドラッグストアに飾ってあった彼女の絵をアマチュア・コレクターであるルイス・J・カルドアが気に入り、その絵の他にも彼女の家を訪れて作品を多数購入した。カルドアはその絵をニューヨークの画廊に紹介する。その中でオーストリアから来たばかりでエゴン・シーレアメリカに紹介した画商オットー・カリアーがモーゼスの絵に興味を示し、自らの画廊で初の個展を開催。その後、ギンベルズ百貨店でも個展が開催された。この時、グランマ・モーゼスは80歳。そしてオットー・カリアーはその後、モーゼスの代理人的存在となり、彼女の自伝を執筆したり、著作権を管理する法人を立ち上げたりと、終生モーゼスを支援した。

 そしてモーゼスのプロとしてのキャリアはこの80歳から始まり亡くなる101歳までバイタリティある絵画制作を行った。その間にも彼女の親しみやすい絵柄はアメリカやヨーロッパで広く受け入れられ、彼女の絵をモチーフにしたグリーティング・カードはベストセラーとなり、その他カップや皿、衣服など様々に描かれ、驚くほど長命な農婦であるという出自から、アメリカでは国民的画家としての地位を確立したという。

 彼女は若い頃から絵を描くのが好きだったし、おそらくその美的センスは天賦の才能を持っていたけれど、12歳からの家事奉公や結婚してからの農家の主婦としての仕事、子育てから絵筆をもつ余裕などまったくないまま70年を生きてきたのだと思う。夫の死後、次女から勧められて刺繍絵に取り組まなければ彼女の画業はスタートしなかったのではないかと思う。これがまず最初の偶然。

 そして末息子夫婦と同居し、家事を手伝い孫の世話をしながら、少しずつ絵画制作の時間を増やしていき、その作品をチャリティー・セールへの出品やドラッグ・ストアに飾るようになる。そこでアマチュア・コレクター、ルイス・J・カルドアの目にとまらなかったら、彼女はそのまま老夫人日曜画家として人生を終わらせていたはずだ。これが第二の偶然。

 カルドアは幾つもの画商にモーゼスの絵持ち込んでいるがほとんど興味を示されなかったという。その中で、アメリカに来たばかりで英語もうまく話せなかったというオットー・カリアーの目にとまり、彼の審美眼によってモーゼスの絵が単なる稚拙な素朴派的な農民の素人絵ではないことを見出さなければ、彼女の国民画家としての将来はなかったはずだ。これが第三の偶然。

 そういう幾つかの偶然によって70代後半、今風にいえば後期高齢者になってから画業をスタートさせたに等しいグランマ・モーゼスがその後の30年近いキャリアを成功させたということだ。

 しかし100歳を超えて絵筆をとるというのはあり得るのかと思ったのだが、考えてみると日本の画家でもけっこう長命な人が多く、例えば小倉遊亀片岡球子、奥村十牛といった大家も100歳を超えてなお絵筆を持ち続けていたりもする。とはいえそうした人たちは若い時から画業に研鑽を続けてきているのだし、モーゼスのように70代になってから画業をスタートさせたというのはきわめて稀、多分二度と表れないような事例なのかもしれない。

 グランマ・モーゼスの絵の特徴として絵具を混ぜない技法、ある種の点描表現があるとはよくいわれることだが、この技法を彼女はどのようにして取り入れたのか。今回の回顧展でそれがよくわかったのだが、彼女は当初取り組んでいた刺繍絵の表現をそのまま絵画制作に取り入れたということだ。刺繍は様々な色の糸を使って編んでいく。それを絵画で表現するのは一種の筆触分割になるという訳だ。

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『イギリスの別荘の花園』 刺繍絵 1940年ごろ SOMPO美術館

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『丘から家路につく羊飼い』 1940年 ハーモ美術館

 リアルに観るとそれがまさしく刺繍絵なのだが、こうやって画像として観るとそれは筆触分割による新印象派の作品のようである。

 彼女は正式な美術教育を受けていない。それでは絵画の模倣的習作は行っていないのかというと、そうではなく他の作品を基に着色したり模倣した作品もあるようだ。次の絵は19世紀後半に普及したカラー印刷技術クロモリトグラフで刷られた画家アンドリュー・メルローズの風景画にモーゼスが部分的に着彩したものだという。

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マサチューセッツ州バークシャーヒルズ』
(アンドリュー・メルローズグランマ・モーゼス着彩 1838年以前 個人蔵

 そしてこれは特に参考にした絵とかの情報がないが、おそらく印象派的な風景画を模倣した習作ではないかと思われる作品。しかし絵画教育を受けていないグランマ・モーゼスの審美眼、表現力の卓抜した才能を感じさせる作品だ。これは彼女が81歳の時のものだ。

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『静けさにつつまれて』 1941年 個人蔵

 グランマ・モーゼスの表現技法として図録では千足伸行氏が詳細な解説を加えている。その中で興味のある部分をメモする。

 まずモーゼスの風景画はこれまでの西洋絵画の風景画の古典的表現法である前景から中景、後景へと展開する「三遠法」をとっていない。そのうえでモーゼスの風景画は地平線が高く、大地が画面の3分の2から4分の3を占めている。そしていわゆる空気遠近法的に後景=遠方を霞ませる表現法をとっていない。特に大地は前景、中景、後景がすべて同じ表現であり、あたかもすべてにピントをあわせたようなパン・フォーカスに似た表現となっている。それはパン・フォーカスというよりある種の多視点的な表出であるようにも思えたりもする。

 個人的にはモーゼスの技法には刺繍絵からの換用である点描表現(家、樹木、花壇)と色面による分割表現(中景での畑や雪原、後景の山々など)をとりまぜているようにも感じた。

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『ご褒美で買ったもの』 1947年 東京富士美術館

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『古い樫のつるべ、1760年冬』 1940年 SOMPO美術館

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『古い樫のつるべ、冬』 1952年 個人蔵

 

 彼女の作品は記憶によって構成されるアメリカの原風景である。おそらくそれは1900年以前、18世紀後半のアメリカ東部の田舎の風景である。その記憶は反芻されたテーマとして何度も繰り返し表現される。

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『川をわたっておばあちゃんの家へ』 1941年 個人蔵

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『川をわたっておばあちゃんの家へ』 1944年 世田谷美術館

 そして記憶の中の晴れやかな場面であったり、家族の楽しみであったり。

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『村の結婚式』 1951年 ベニントン美術館

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『家族のピクニック』 1951年 個人蔵

 さらに季節ごとの楽しいイベントの記憶として歳時記のごとくに描かれている。

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七面鳥を追いかけて』 1940年 個人蔵 

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ハロウィーン』 1955年 個人蔵

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『家のクリスマス』 1946年 個人蔵

 18世紀アメリカの農家の生活。その中で楽しい記憶だけを取り出してそのエッセンスを画面に再現する。古き良きアメリカのファンタジー。それは観る者がひととき童心に帰り、自分の良き子ども時代の記憶だけを思い起こすことと通じているのだと思う。

 いいことばかりじゃなかった人もいるだろう、あの頃にはけっして戻りたくないという辛い記憶ばかりの人もいる。10人のうち5人を死産で亡くすような過酷な日々を送った農婦だったグランマ・モーゼスにも辛い、しんどい記憶は沢山あっただろう。それでも自分の歩んできた道をポジティブに思い起こしそれをファンタジーとして再現する人だったということだ。それが観る者の琴線に触れるのだと思う。

 いいことだけ覚えておく。いいことだけを思い出すことにする。そういう人生を70を超えてから獲得したグランマ・モーゼスという人は幸福者であり、また人々に幸福を温かい心持を与えてくれる人だったのかな、などと少しだけセンチメンタルに思ったりもする。