栃木県立美術館「印象派との出会い」再訪 (12月15日)

 開幕してすぐに訪れた栃木県立美術館印象派との出会い―フランス絵画の100年 ひろしま美術館コレクション」に行って来た。この企画展、ひろしま美術館の名品が揃っていたので、出来ればもう一度観たいと思っていた。広島に直接観に行ければいいけど、広島はやはり遠い。いざ行っても他館貸し出しとかでこの規模(60数点)を一度に観ることはむずかしいかもしれない。つくずく名画を観るのは一期一会みたいなものと思ったりもする。

 会期は12月25日までということなので、ちょっと足を延ばして行ってみることにした。だいたい往復で200キロと少しになるか。

栃木県立美術館「印象派との出会い」 (10月22日) - トムジィの日常雑記

(閲覧:2022年12月16日)

 前回は展覧会初日に行ったのだけど、その時に気に入った作品のことはだいたい書いているので、今回はやや落穂ひろい的になるだろうか。

印象派との出会い」

ルノワール 《パリ、トリニテ広場》

《パリ、トリニテ広場》 ルノワール 1875年

 第一回印象派展の翌年1975年、ルノワール34歳の時の作品。ルノワール1880年頃から印象派の技法を脱して、古典主義への回帰を図る。同時に婦人の肖像画や裸婦像などが主題となっていくが、印象派時代には風景画の名品を多く残している。この作品もその一つだが、見事な構成、色遣いにより、奥行きのある作品になっている。

 この絵はピサロ晩年の作品《ポン=ヌフ》と併置して陳列してあるが、技術、画力、作品としての優劣は歴然としている。印象派のごく初期の段階から、ルノワールとモネは画力において抜きんでていたのだろうと思う。

 最初の印象派展から20年後、それぞれの画家たちの評価ほとんど定着していて、やはりモネ、ルノワールが最も成功した存在であり、ピサロシスレーは商業的な成功、画壇での評価もかなり低迷していたようだ。ピサロは同じ画家の道に進んだ息子のリュシアンにあててこんな手紙を送っている。

モネは非常に高い価格で作品を売っていないか。ルノワールドガも。その通りだ。シスレーと同じように、私は印象派の中で後衛にとどまっている。

 ピサロは自らの評価が低いことに対して、自らの能力を疑いつつも、世間の無理解を嘆いている。もちろん今日的な印象派の評価と隆盛からすれば、その評価が低くさは意外ともいえる。しかし一方でモネやルノワールとの比較でいえば、やはり世間の評価は冷徹で一定の客観性もあったのかもしれない。

 モネやルノワールがその色彩表現において、当初から一定のスタイルを確立していたのに対してピサロシスレーはどこか凡庸な風もあり、ある種ありきたりな風景画であったかもしれない。そのためピサロは点描画を取り入れたりと、さらなる器用貧乏に向かう。シスレーは彼のスタイルを変えず、ある意味では一番印象派らしい光に移ろう風景を描き続けた。

 現在に至っていえば、ピサロシスレーも相応の評価を得ている。自分自身でいえば、シスレーの変わらぬ印象派的風景画はある種一番好きな部分でもある。ピサロも愛すべき名品が沢山ある。でも美術史的な部分でいえばやはりモネとルノワールは抜きんでた存在だ。

 ピサロがスーラやシニャックを評価し、印象派展にへの参加を勧めたことに対して、ルノワールは彼らの理論的な形での筆致を好ましいものと考えていなかったようだ。計算ずくでの視覚混合などなくても、ルノワールには一流の画家としての感覚による筆触で、最大限の効果を得られることが判っていたからなのかもしれない。

《ポン=ヌフ》 ピサロ 1902年
クールベ 《雪の中の鹿のたたかい》 

《雪の中の鹿のたたかい》 クールベ 1868年頃

 印象派の先駆けとなったのは、例えばロマン派のドラクロワバルビゾン派のミレーやルソー、そして写実主義のこのクールベらということになる。本企画展でもドラクロワやミレーの作品も展示されていて、特にドラクロワの《墓地のアラブ人》では馬の鞍の朱色と草地の緑との対比に、印象派の補色を併置する筆触分割の手法の先駆性があると説明されている。しかしより印象派的な手法の萌芽があるのはクールベではないかと思う。雪の表現を細かい筆触によって描くそれはほぼ印象派の萌芽といっていいかもしれない。

 クールベの雪景色や鹿をモチーフにした作品は多数あるが、この作品はその中でもかなり出来が良い。雪の積もった山林と鹿のたたかいを写実的に表現するために、細かい筆致を使っている。厳しい冬のなかで生きる野生動物のいる風景、その再現のための画家の技術は抜きんでたもの力がある。

 クールベの写実を超えるためには、光のうつろいを描くこと、補色関係を細かく配置する筆触により、自然の再現ではなく自然から受けた印象の再現へと向かう。新機軸を打ち出すための必然みたいなものだったのだろうか。

岡鹿之助 《積雪》

《積雪》 岡鹿之助  1935年

 日本の点描派、岡鹿之助である。図録によれば岡の点描表現については、フランス留学時代に実見したスーラ作品からの影響があるという。また全体の構成には素朴派アンリ・ルソーの影響も指摘されている。なるほど、どことなくアンリ・ルソー的である。

 さらになんとなく感じるのは、よりプリミティブな素朴派であり70代後半から画業をスタートさせたアメリカのグランマ・モーゼスの作品とも近似性があるような気がしてならないし、ことこの作品についていえばルソーよりもグランマ・モーゼス的だ。

 岡鹿之助アンリ・ルソーの影響は、藤田嗣治を通じてだったという。藤田はフランスに渡ってすぐにピカソのアトリエでルソーの作品を見せられて、「絵画とはかくも自由なものか」と驚愕したと伝えられている。フランス留学時に岡は藤田からルソーについて聞かされたのではないかとの指摘もある。

岡鹿之助《セーヌ河畔》、1927年のパリ風景」 (貝塚 健)

http://file:///C:/Users/owner/Downloads/annualreport_60_kaizuka.pdf

(閲覧:2022年12月16日)

 岡鹿之助はスーラやシニャックのような理論的な点描技法ではなく、感覚的な効果を狙ったもののようだ。その点描とルソー的な雰囲気が合わさるとかくもプリミティブな作品が生まれる。

 グランマ・モーゼスも多くの作品で点描的な雰囲気があるが、それについてはもともと彼女が刺繍絵を手掛けていたが、リューマチのためリハビリをかねて絵を描き始めたという。刺繍絵のように異なる毛糸の色を紡ぐ手法がそのまま点描に向かったのだとか。

 しかし今さらに思うが、東京美術学校(現東京藝大)で学び専門的な教育を受けた岡鹿之助の点描画が、正規教育を受けないルソーやグランマ・モーゼスのそれと近似性があるというのが、少しだけ面白く感じる。ルソーについてはその先行例を参考に出来るが、岡は多分グランマ・モーゼスの存在を知る由もなかっただろうから。

アンリ・ルソー   (1844 - 1910)

グランマ・モーゼス (1860 - 1961)

岡鹿之助      (1898 - 1978)

 グランマ・モーゼスが絵画を始めたのは70歳を過ぎてからで、ドラッグ・ストアに飾ってあった彼女の絵をコレクターが注目したのは1938年、彼女は78歳になってからである。彼女が一躍有名になるのは80歳を過ぎてからだ。ちょうど日米は戦争に突入する頃であり、日本にグランマ・モーゼスが紹介されることはあり得ないことだったはずだ。

アンリ・シダネル 《ジェブロワ、胸像》

《ジェルブロワ、胸像》 アンリ・シダネル 1902年

 人物の不在、その気配が残された椅子や家の明かりなどに示される。図録の解説では、人の営みを感じさせ、静けさのなかにあたたかさを感じるとあるが、自分はこの手のシダネルの作品にはそういうあたたかさ的なものを感じない。どこかそれまでいたはずの人物が忽然と消え失せてしまう薄気味悪さ、喪失みたいなものを感じる。開かれた窓の向こうはひょっとして異界かもしれないではないか。

マティス 《赤い室内の緑衣の女》

《赤い室内の緑衣の女》 アンリ・マティス 1947年

 ひろしま美術館所蔵のマティスは本作ともう一つ《ラ・フランス》の2点だ。いずれも以前ポーラ美術館で開催された「印象派 記憶への旅」で出品されている。そのときには《ラ・フランス》にスポットをあて、マティスが何度も描き直していた部分を参考写真などをまじえて解説していた。そのときにも思ったが、よりマティスらしいのはこの作品だと思う。デフォルメ化された人物、壁と床が混在となって装飾的背景となっているところ、テーブルの観葉植物と窓の外の木々との呼応など、これぞマティスという風に感じる。

南 薫造 《春(フランス)》

《春 (フランス女性)》 南 薫造 1909年

 図録ではおそらくその装飾的な背景のためか、ラファエル前派の影響を指摘している。この作品を観て感じたのは、同じ女性の横顔の肖像画ということでアーティゾン美術館にある藤島武二の《東洋ぶり》との近似性だ。もっとも南薫造のこの作品はに比べると藤島の《東洋ぶり》はより色彩が鮮明である。あれは確かルネサンス期の誰かの作品の影響とか指摘されていたように記憶している。

 藤島武二(19867-1943)は南薫造(1883-1950)より年長で、洋画草創期から活躍しているが、《東洋ぶり》は1924年制作で南薫造の《春》より15年も後の作品だ。藤島が南の作品を観ているかどうか判らないが、多分意識していたのではないかと思ったりもする。

《東洋ぶり》 藤島武二 1924年 アーティゾン美術館