上原美術館、ここも以前から行ってみたいところだった。
ルノワール、モネ、ルドンらの作品を多数所蔵しているということで、単なる観光地のプチ美術館とは趣が異なる。なぜ下田の地にこのような美術館があるかというと、概要としてはこういうことらしい。
上原正吉、若い人にはまったく知らない名前だろうが、自分らの年代だとこの名前によく覚えている。大正製薬の社長・会長さんですね。毎年、高額納税者として発表される大金持ち、たしか国会議員、自民党参議院議員で当選を重ねられた人だ。でも、この人は埼玉が出身だったはず。でもって、もう少し調べるとこんな記事があった。
上原仏教美術館(現、上原美術館 仏教館)の創設は1983年5月にさかのぼる。大正製薬の当時の名誉会長・上原正吉と小枝夫人(のち名誉会長)が、永平寺の第76世貫首、秦慧玉禅師から約130体もの仏像を引き取って安置する施設を作ってくれないかと相談されたことがきっかけだった。現在、上原美術館 仏教館の仏像ギャラリーに展示されている仏像群である。
上原正吉名誉会長と小枝夫人はそれに応えて、当初、仏像を安置するためのお堂を建立したが、仏像を拝観した人の中から「これだけの仏像があるのだから公開してはどうか」との声が寄せられたこともあり、1983年5月、上原仏教美術館を開設したのである。
時代が進み、2000年3月、上原正吉・小枝の後を継いだ上原昭二名誉会長が長年にわたり収集、愛蔵してきた近代絵画のコレクションの寄付を受けて、上原仏教美術館の隣に上原近代美術館(現、上原美術館 近代館)が開設された。ここには、モネ、ルノワール、マティス、ピカソなどの西洋絵画や、梅原龍三郎、須田国太郎、横山大観、小林古径などの日本絵画が展示されている。
一方、上原仏教美術館はその後、十一面観世音菩薩立像や阿弥陀如来立像、さらには古写経など貴重な収蔵品が増えたことで、展示環境を改善することが大きな課題となった。企画展を行う際に、他館から国宝や重要文化財を借りて展示するためにも、保存・展示する厳しい基準をクリアすることが求められるようになった。
そのような折、開館30周年を記念して開催した「薬師如来展」は非常に多くの来館者があり、展示室が人であふれかえるような状況だった。そこで、展示環境の改善と美術館自体の増改築を併せた全面リニューアルが決断されたのである。また、この機会に、従来の上原仏教美術館と上原近代美術館が統合されて上原美術館と改まり、それぞれが仏教館、近代館として位置づけられた。
こうして2017年11月3日、上原美術館 仏教館がリニューアルオープンされるに至った。現、上原美術館 近代館)が開設された。ここには、モネ、ルノワール、マティス、ピカソなどの西洋絵画や、梅原龍三郎、須田国太郎、横山大観、小林古径などの日本絵画が展示されている。
もともと上原正吉とその妻小枝が永平寺から仏体を引き取り、これを安置し公開するための施設として1983年に仏教館を開設した。下田を選んだ理由は妻小枝の出身地だったからだ。さらにいえば現在の美術館がある場所には下田達磨大師が隣接しており、ここがおそらく上田小枝氏の菩提寺になっているのではないかと思われる。
美術館の後でここにも立ち寄ったが、その寄進一覧には早々たる著名人の名があった。多分、これも上原正吉・小枝と息子である昭二氏の繋がりではないかなと適当に想像している。
さらに上原正吉の後を継いだ上原昭二が近代美術のコレクターであったため、その寄付を受けて近代美術館が開設され、それらが2017年に仏教館、近代館としてリニューアルされたということである。
そして現在開催されているのが『陰翳礼賛』展である。
すこし長いが開催概要をそのまま引用する。
作家・谷崎潤一郎は1933 (昭和8)年、随筆『陰翳礼讃』を著しました。そこでは近代化の波に覆われつつある日本が直面する光と影についての葛藤と考察が綴られています。それから約九十年後の現在、日常を取り巻く光はさらに明るさを増し、影はその存在を潜めています。しかし、身の廻りを見渡すと至るところに影の存在があることに気づきます。身近なうつわやペン、そして自分の手を改めて見つめると光の傍に影があらわれます。そして、その影に気づけば、ものの存在が今までとは異なったかたちであらわれてきます。
「美と云うものは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に住むことを餘儀なくされたわれわれの先祖は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがては美の目的に沿うように陰翳を利用するに至った」。谷崎は日本における美のあり方について、そう語っています。例えば、黄金が日本家屋の暗がりで放つ美しさを次のように述べています。「庭の明かりの穂先を捉えて、ぽうっと夢のように照り返している」、「私は黄金と云うものがあれほど沈痛な美しさを見せる時はないと思う」。金箔が施された仏像は、もともとお堂や厨子の暗がりで拝まれていました。そうした仏像は陰翳の中でこそ本来の姿があらわれてくるのかもしれません。
絵画もまた、もともと明るい壁に飾るものではなく、薄暗い建物内で鑑賞されていました。特に日本家屋では床の間で鑑賞する掛軸が「陰翳に深みを添える」ものとして尊ばれてきました。そうした歴史的背景を持つ日本画には、暗い建築空間に広がるような繊細な余白の表現が殊のほか美しくあらわされています。
このような陰翳の感覚を持つ日本人にとって、西洋の油彩画を描くことはひとつの新たな挑戦でした。京都帝国大学で西洋の美学美術史を学んだ須田国太郎もそうした画家のひとりです。須田は1919 (大正8)年にスペインへ渡り、プラド美術館などで伝統絵画の陰影表現を学びました。帰国後、京都にある日本家屋の四畳半の居間で制作し続けた須田は、日本独特の深い陰翳を纏った油彩画を生み出していきます。
本展では上原コレクションの仏像や絵画から陰翳の中に潜む美の魅力に注目します。闇を柔らかく照り返すような十一面観世音菩薩像や阿弥陀如来像をはじめ、日本の物語に潜む闇を余白に描き出した小林古径の日本画、油彩画の影に独特の深い存在感をあらわした須田国太郎らの絵画などをご紹介します。また、谷崎潤一郎が旧蔵した小林古径《杪秋》も展示します。現代の陰翳の中に浮かび上がるジャンルを越えた美の世界をお楽しみいただければ幸いです。
(HPより)
日本の近代化のなかで光と影の問題を取り上げ、光=明るさを増す社会において、影の部分の意義を改めて問うたのが谷崎の問題意識だったのかもしれない。そして日本家屋の薄暗さの中で鑑賞された仏教美術に本来の日本的な美があるという視点から、かっての薄暗い日本家屋の環境を再現し、その中での美の鑑賞を追体験するというのが企画コンセプトのようだ。
そのため展示室は暗く、その中でロウソクや行灯をイメージしたかのような照明が施されている。本企画展には特に図録等は用意されていないが、30頁ほどの小冊子が無料で用意されている。その巻末に照明協力:株式会社灯工舎とある。ここは美術館のライティングを行っている会社のようだ。
株式会社 灯工舎 | 灯工舎は 光のたくみ(=マイスター)が集う会社です
展示室の雰囲気はこんな感じである。
この薄暗がりの中で観る美術品というコンセプトは、あえて谷崎の『陰翳礼賛』にこだわる必要もなく、実は近代以前の美術品についていえば美術鑑賞の普遍的なテーマなのかもしれないと、漠然と思ったりもする。というのは近代以前、西洋にしろ東洋にしろ夜の生活は暗がりの中で生活していたのだ。照明といえば、ロウソクやランプ、行灯などが当たり前だったのである。
そのため近代以前、例えばロマン主義や古典派、新古典派、ロココやバロック、さらに遡ってルネサンス期、人々は暗い室内でほのかな明かりによって美術品を見ることが普通だった訳だ。夜の画家といわれる17世紀の画家ラ=トゥールはロウソクの光に浮き上がる人物を描いた作品が多いが、まさに夜の室内とはあの世界だったのだろうと想像される。そのため壁に架けられた絵画を燭台を掲げて見たとしても、そこには光にぼんらりと映る影のような絵だったのではないかということだ。
そういう意味ではこの企画展は、西洋絵画においてこそ相応しいのかもしれない。例えば西洋美術館の一室を今回の『陰翳礼賛』のような照明によって、15世紀から17世紀にかけての作品を展示するというのもありかもしれない。以前、山梨県立美術館で開かれた「夜の画家たち –蝋燭の光とテネブリスム-」も実はこうした照明が相応しかったのかもしれない。もっともこの薄暗がりの環境は、明るい照明に慣れた現代人には不向きかもしれないし、広い室内の照明すべてを絞った場合、ちょっとした事故が多発するかもしれない。
かっての日本民家の薄暗がりの再現とその環境下での美術鑑賞という体験は、なかなかに興味深い部分もあり、そのためにでけでもこの地を訪れる価値はあるのかもしれない。
ここの作品では、近代美術については上原昭二のコレクションが中心となるのだろうが、粒の揃った名品、小品が多数あり、ここのところ浮世絵版画や日本画の鑑賞が続いていたので、なんとなく嬉しいものがあった。
やはりシスレーである。テーマや画風が変わっていく画家たちの中で首尾一貫して風景画、光に移ろう風景画に取り組んだのがシスレーである。印象派を代表する画家というとモネ、ルノワール、後期のゴッホらをあげる場合が多いが、戸外制作、筆触分割による光に移ろう風景を描くという点でいえば、最も印象派らしい画家はシスレーじゃないかと思ったりもする。
ピエール・ボナールの1925年の作品。この作品ではどことなく印象派に回帰したような雰囲気が漂っている。
1882年、ポール・シニャック19歳の時の作品である。点描画法以前の若々しい作品だが、その色彩感覚はのちのシニャックを彷彿とさせるものがある。ここからあのやや大きめの点描による独特な絵が生まれたかと思うと、ちょっとワクワクさせられる。
モネが1895年に義理の息子を訪ねてノルウェーに滞在した時の作品。コルサース岳はさほど高い山ではないようだが、この絵の描かれ方には浮世絵の富士のような趣があり、モネが浮世絵を意識していたという指摘もある。
ルノワールらしからぬというか、ルノワールが印象派の画風で描いた風景画という感じで、多分これを初期のモネの作品と言われたら信じてしまいそうである。ルノワールは若い頃にモネと共同で制作を行っていた時期もあるという。1873年、印象派の若き画家たちが活躍していた時代の作品。
マティスの風景画というのも実はあまり観たことがない。彼は人物あるいは室内風景を描く人というイメージがある。エトルタはノルマンディーにあるアーチ上のアヴァルの門を含む断崖が有名な海岸である。この奇岩ともいうべき景色は当時から有名なようで、クールベ、ブーダン、モネらも描いていることで有名だ。マティスも先人たちに倣っているのかもしれないが、断崖というよりも何か象を想起させてしまう。
どうでもいいことだが、ノルマンディーの海岸ということでいえば、この地も連合軍が上陸して激しい戦闘が行われたノルマンディー上陸作戦、映画『史上最大の作戦ーロンゲスト・ディ』の舞台となったのだろうか。もしここでも激しい戦闘が行われていたら、連合軍艦船の砲撃等でこの奇観が損なわれなくて良かったねと思ったりもする。