堀辰雄『麦藁帽子』

麦藁帽子

麦藁帽子

 

  前日に続いて短編『麦藁帽子』を読んでみた。これも最初に読んだのは高校生の頃だ。高校生になったばかりの少年が少女を意識し始める。そして自己中心的な初恋の心情を綴った話だ。

 私は十五だった。そしてお前は十三だった。

  この印象的な書き出しで始まるが、実は恋愛的な物語は一切ない。ただただ少年の一方的な思いがあるだけである。

 夏休みが来た。
 寄宿舎から、その春、入寮したばかりの若い生徒たちは、一群れの熊蜂くまばちのように、うなりながら、巣離れていった。めいめいの野薔薇のばらを目ざして……
 しかし、私はどうしよう! 私には私の田舎いなかがない。私の生れた家は都会のまん中にあったから。おまけに私は一人息子むすこで、弱虫だった。それで、まだ両親の許もとをはなれて、ひとりで旅行をするなんていう芸当も出来ない。だが、今度は、いままでとは事情がすこし違って、ひとつ上の学校に入ったので、この夏休みには、こんな休暇の宿題があったのだ。田舎へ行って一人の少女を見つけてくること。 

 そして少年は友人が避暑で訪れているC県のT村に訪れ、友人の妹である少女を見つける。 これについてはモデルがあることが通説化されている。C県は千葉県でTは竹岡村で現在の富津市である。少年が友人やその妹の少女と遊んだのは富津の海だ。実際、堀辰雄は交流のあった内海家が避暑のために逗留していた竹岡村に招待され大正10年、ひと夏を過ごしている。少女は内海家の三女の妙がモデルとされており、この小説が発表した時にはすでに亡くなっている。

 この小説には明確なモデルがあり、小説は大正10年の少女との出会い、その翌年も避暑に訪れ、さらにその翌年の関東大震災での母親の死と、少女との瞬間的な触れ合いで唐突に終わる。堀辰雄の母親は関東大震災で亡くなっているということでいえば、『麦藁帽子』は単にモデルがうんぬんというよりも、極めて自伝的、私小説的色彩が強い作品といえる。

 堀辰雄の小説には『風立ちぬ』の矢野綾子もそうだが明確なモデルが存在し、多くはその死による衝撃がモチーフとなっている場合が多い。それでも赤裸々に私生活を綴ったような私小説とは異なり、主人公の心理描写、簡潔にして流麗な文体とともに、フィクションとして昇華されている。そういう点で『麦藁帽子』はまだフィクションとしては未消化な作品といえるかもしれない。

 少年と少女の交流も、最初は友人である少年の兄たちとの遊びに夢中で、少女を無視する。次は少女の気をひくために少女の姉と文通をする。さらに少女が交友をもった呉服屋の青年に嫉妬し、あえて青年と文通をしたりもする。すべては少女に自分の方に振り向いて欲しいためだけに。

 もうそういう男の子のほぼ一方的な、自己中心的な思いによって綴られる小説である。少年と少女の精神的あるいは肉体的な触れ合いなどまったくといってない。最後に震災で焼けだされ避難所で休んでいる時に、大勢の避難者がいるなかで少女が傍らで眠るのを身をもって感じるだけである。そして翌日、母親の死を知らされても、少年は悲しみを覚えず、ただ昨晩の少女との接近をもって泣くのである。

 こういう男の子の稚拙な心理、ジイさんとなった今となってはもう「ハハハ」と笑うだけであり、どこにも感情移入できない。でも、多分同じ15~16くらいだった時分は、こういう身近な少女への一方的な思い込みみたいなものに、もろに共感をもつことができたのかもしれない。まあそういうお年頃だった。

 この小説の舞台になったということからか、富津市のサイトにもこの小説についての紹介がある。「大正時代の竹岡、内房地域の様子が描かれた貴重な作品である」というところが割と好きである。

堀辰雄 | 富津市

 富津というと横浜に住んでいて、三浦半島でよく遊んでいた自分には、東京湾を隔てた対岸という記憶しかない。金谷からフェリーで房総に渡っても富津に行ったことは多分一度もなかった。なので富津岬の先端にある富津洲も名前を聞いたことがある程度だろうか。しいていえば10年ちょっと前だろうか、家族で房総に旅行した時に富津公園で遊んだのが唯一かもしれない。あの時は浅瀬に迷い込んで弱っている鮫と遊んだことをよく覚えている。

房総の海で鮫と戯れる - トムジィの日常雑記

 あの時はもう妻は車椅子生活だったと思う。子どもは小学生だったか。ずいぶんと昔のような気もする。その時に『麦藁帽子』の舞台が富津ということをもし覚えていたら、もうちょっと市内をうろうろしたかもしれない。いやそれはないかな。