堀辰雄『燃ゆる頬』を読んでみる

燃ゆる頬

燃ゆる頬

 

  久しぶりに堀辰雄を読んでみた。多分50年ぶりくらいになるのだろうか。

 10代のある時期、堀辰雄にえらく嵌ったことがあった。多分、高校生の頃だと思う。結核病み、高原のサナトリウムリルケヴェルレーヌランボーの詩、そして白いワンピースに麦藁帽子の美少女、まあそういう世界だ。ああいうのに嵌るのはある種の流行病、はしかみたいなものなのではないかと思ったりもする。さすがに還暦過ぎて読むのは相当にキツいだろうとも思った。著作権フリーの青空文庫ということもあり、とりあえずダウンロードしてみた。

 まず読んだのは『燃ゆる頬』。1932年の作で結核病み、避暑といった堀文学の素材が揃った作品。高校に入ったばかり、閉鎖的な寄宿舎生活での精神性と頭の中でこねくり回したような少年愛と異性への目覚めを描いた作品。

 今風にいえば、どこをどう突っ込んでよいやらというような、見事にこじらせ系の頭でっかちな少年の妄想話である。それでも読めてしまうのは文章の美しさによるかもしれない。それも美辞麗句で飾られた詩情溢れる文章ではなく、簡潔な文体である。諸々削り取ったうえでの研ぎ澄まされた美しさみたいなところか。

 或る日の昼休みに、私は一人でぶらぶらと、植物実験室の南側にある、ひっそりした花壇のなかを歩いていた。そのうちに、私はふと足をとめた。そこの一隅に簇がりながら咲いている、私の名前を知らない真っ白な花から、花粉まみれになって、一匹の蜜蜂の飛び立つのを見つけたのだ。そこで、その蜜蜂がその足にくっついている花粉の塊りを、今度はどの花へ持っていくか、見ていてやろうと思ったのである。しかし、そいつはどの花にもなかなか止まりそうもなかった。そしてあたかもそれらの花のどれを選んだらいいかと迷っているようにも見えた。

・・・・・・・その瞬間だった。私はそれらの見知らない花が一せいに、その蜜蜂を自分のところへ誘おうとして、なんだかめいめいの雌蕊を妙な姿態にくねらせるのを認めたような気がした。 

  美しい暗示的なあたかも散文詩のような文章だ。こういうのが子どもの自分には無上なもとして受け取られたのだろう。こじらせた少年の思弁をこじらせた少年が需要する。まあそういうものだ。

 主人公は寄宿舎で友人となった少年三枝と単なる友情を超えた関係をもつ。それは、脊椎カリエスを患った三枝の背中にある突起を触るという行為によって暗示される。それが意味するところは多分明示的かもしれない。

 主人公の少年と三枝は夏休みに旅するが、途中で地元の少女たちとの出会い、といってもそれはただ一言、二言会話を交わしただけのことだが、それをきっかけに少年同士の交流は破綻していく。主人公は異性を意識し始め三枝から遠ざかるようになる。三枝は病気を再発して転地する。そして突然の死。

 それから数年ののち、主人公も結核をわずらい高原での療養生活に入る。そこで三枝と同じような脊椎カリエスの少年の背中の突起物を目撃し、三枝の記憶が揺り戻される。

 この少年愛的なテーマは多分自分にはあまり響いてこなかったのだろうと思う。なのでこのテーマから自分がたとえば三島由紀夫にいくということはなかった。10代の頃の読書経験の中でも三島を読んだのは数冊だったと思う。

 さらにいうと旧制中学や高校の寄宿生活での頭でっかちな少年愛、多分ギリシア哲学的な美学、形而上学的な崇高で理想的な愛ともたげ始める性欲、それらの葛藤みたいなものは、様々に派生していったのかもしれない。旧制高校での少年愛みたいなテーマは、ある種隠されたものとして通底していたのかどうか、ちょっとだけ興味を覚えるところだが、まあどうでもいいことかもしれない。

 堀辰雄の小説に一貫しているのは、インテリ予備軍の少年たちの頭でっかちな過剰な思い入れみたいなものだ。さらにいえばそこには過大な自己愛、自意識過剰がある。そういう妄想が同じような病を抱えた少年たちの心にはすっと入ってくるということなんだろうと思う。

 還暦過ぎたジイさんにはほとんど笑止というような内容だが、かといって放り出すかといえば掌編ともいうべき短編だけにすっと読めてしまう。しばらくの間、堀辰雄やら室生犀星やら、10代の頃に読んだものを読み返すみたいなことが続くかもしれない。