室生犀星『或る少女の死まで』

 7年前に買って放置してあったサリンジャーの『フラニーとゾーイー』(村上春樹訳)を手に取ってみた。でもフラニーの短い章を読んだだけで放り出してしまった。50年代の大学生のカップルのデートシーン、神経症で病み始めた女子大生の長台詞などなど。もうサリンジャーなんて読む感性、自分にはないみたいだ。

 サリンジャーの小説は、60数年前のアメリカの若者たちのこじらせ具合を描いた小説ということなんでしょうね。『ライ麦畑でつかまえて』、『ナイン・ストーリーズ』などなど。多分『フラニーとゾーイー』も野崎訳で読んだはずだ。おそらく20代の前半くらいだったとも思うのだが、結局のところ読み手もいい塩梅にこじらせていたのでスッと入ってきたんじゃないかと思ったりもする。

 閑話休題

 もう還暦過ぎたジイさんには、かって自分が読んだ小説を手にするのは難しいのかなと思ったりもする。まあ10代や20代だからこそ読めるものって沢山あるような気がしてならない。おそらく太宰治なんかもそうかもしれないと思ったりもする。とはいえ、先日も堀辰雄にチャレンジしてみたら意外とけっこうすらすら読めたりもした。まあ昔のようにのめり込むようなこともなく、だいぶん覚めた感覚で突き放して読んだような気がするが。

 そこでこれも高校生の頃に愛読した作家、室生犀星にチャレンジしてみようかと思った。室生犀星はなんで読むようになったのか、おそらく散文よりも詩の方から入ったんじゃないかと思う。彼の抒情的な詩文は高校生くらいの自分には割とすっと入ってきたような気がする。

    詩ひとつ

寂しくなると街へ出た

そこには美しく優しいものが

いつも群をつくつて歩いてゐた

あたかも私だけを外側にのこして

のけものにして

         室生犀星『愛の詩集』より

 こんな詩に感情移入してたんだな。かなりこじらせていた16~17歳くらいの自分は。さらにいえば、これはおそらく五木寛之の影響だったのだろうけど、当時なぜか金沢という地に憧れをもっていた。五木寛之まだ直木賞を取る前、健康を害して医師だった配偶者の転勤についていくということで金沢に一時期住んでいた。その頃のことを綴ったエッセイはのちにベストセラーになった『風に吹かれて』や『ゴキブリの歌』だったと記憶している。

 そういうのを読んでなんとなく金沢に憧れを抱いた。そして金沢出身の作家ということで室生犀星にということだったんじゃないか。泉鏡花にいかなかったのは、古文の成績と関係していたかもしれない。あの擬古文はちょっとハードルが。

 そこで、試しに室生犀星の小説を読んでみることにした。

 

  とっくに持っていた本は失くしてしまったので、とりあえず無料の青空文庫をゲットしてkindleで読んでみる。短編だけにするすると読める。なにも問題はない。

 この小説は『性に目覚める頃』、『幼年時代』とともに自伝的な三部作になっている。前二作が金沢時代のことを描いているのに対して、『或る少女の死まで』は犀星が上京して詩作に励んでいる頃を描いている。

 売れない若き詩人が友人の画家たちとの無軌道な生活が描かれる。酒場で店番をしている鶴のように痩せた目の大きな少女や、そして下宿先でお隣に住んでいる一家の少女との交流が描かれる。

 二人の少女はある種無垢で美しきものとして描かれる。売春婦の子として生まれ酒場に引き取られた薄幸の少女に対する詩人の視線、態度は、さながらトルストイが貧しき者に寄せる思いのようだ。そして隣に住む純真な少女との交流によって詩人の荒んだ精神はしだいに平穏を取り戻していく。

 下宿先は谷中、根津近辺のようだ。小説の後半、詩人は少女と二人で動物園を訪れる。おそらく上野動物園だろうか。そして詩人は都会での生活に疲れ果て帰郷を決断する。少女の一家は離れて暮らす父親と一緒に暮らすためやはり故郷の鹿児島へと去っていく。

 そしてある日、少女の父親から詩人に手紙が届く。少女は病のために亡くなったと。

 若き詩人の詩作への思いや理想主義と現実の辛苦。無垢な少女たちとの交流の中で得た心の平穏。小さき美しきものの喪失。

 抒情的な物語が美しい文体とともに語られていく。室生犀星はまだイケるなと思った。逆にいえば、年月を経て理とか利とかでなく、情緒的なものを普通に需要する、そういう面持ちなのかもしれない。すっと読めてしまう中編、短編なので、しばらく断続的に室生犀星は読んでいくかもしれない。