『君たちはどう生きるか』を観てきた

 

 宮崎駿の『君たちはどう生きるか』を観てきた。

 近所のシネコンで20時45分の最終回、風呂入って夕食食べてからのんびりと。いつも思うことだけど、地元に映画館があるのはこういうのができるとこ。普段着の映画鑑賞的というか。

 宮崎駿のキャリア最後の作品、前宣伝がまったくなくトレイラーもない。情報がまったくない中で出てきたのが一枚のイラスト。

 

 鳥人間・・・・・・?

 そうしたなかいざ公開されると、「面白い」、「難解」、「意味不明」などなどの感想がネットにとびかっていた。でもやっぱり宮崎駿のネームバリューで興収はいいようでヒットしている。

 自分の周辺でも観た人がチラホラと。感想的にはけっこう真逆というか「宮崎駿らしい」派と「それまでの宮崎駿らしくない」派になんとなく分かれているような。

 

 自分はというと多分宮崎駿ジブリ作品の良き観客ではない。まあ子育て時期がジブリ全盛だったので、一応一通り観ているし家にはほぼ全部のDVDがある。でも正直いうと、きちんと全部通して観たジブリ作品ってあんまりない。『トトロ』や『魔女の宅急便』は繰り返し観ているはずなのでけど、最後まできちんと観たことがない。『ナウシカ』や『ラピュタ』、『もののけ姫』にいたっては断片的に観ているだけだ。

 きちんと劇場で観たのはというと、『千と千尋の神隠し』、『ハウル』、『ポニョ』、『風立ちぬ』くらいか。でも印象に残っているのは『千と千尋』と『ハウル』『ポニョ』あたりか。

 なんとなくだが、宮崎駿作品は映像イメージや想像力、そうした部分は魅力的なのだが、ストーリー的には尻すぼみに終わってしまうみたいな感想を抱くことが多かった。『千と千尋』は構想力、キャラクターなどえらく面白く感じたのだが。なんとなく途中で失速、最後にいたっては、「えっ、これでお終い」みたいな感想をもった。同様に『ハウル』なんかも、結局何が言いたいみたいな感じ。

 

 シークエンスの奇抜さ、面白さ、イメージの発露・爆発、映像美の確かさ、などなど映画の作り込みや楽しみ方はそれぞれだ。でもその終わらせ方についていえば、あえて中断、中途半端的な強制終了もあれば、大団円的なものもある。そこに映画監督の作家性が込められるみたいな部分。

 ここで持ち出すのはちょっと違うかもしれないけれど、例えば『ニューシネマ・パラダイス』のラスト・シーンは本当によくできました的だし、すべてが回収され、センチメンタルかつ映画への愛が溢れる終わり方だ。例えば『8 1/2』のラスト「人生は祭りだ、共に生きよう」は映画監督の妄想、エゴを映画的に終わらせるまさに大団円だ。

 そういう映画的な締め方からすると、宮崎駿作品はどこか中途半端感を思うことがある。構想、キャラクター、イメージ、すべてが素晴らしいので、どこか放置したまま締めることなく終わらせてしまう。ハリウッドだったら、編集権もってるプロデューサーとけっこうもめるだろうなと適当に想像したり。

 まあそれでずっとやってきているので、宮崎駿作品というものは「そういうものだ」みたいな感覚が実はあったりもする。そして今回はというと、珍しくというか、キャリアの最後でなんとなくきちんとオチのある作品に仕上がっているような風に感じた。

 最後の最後、リアルな人生を歩み始める主人公、まさに「君たちはどう生きるか」というタイトルにいきつくような、そんな感じだろうか。

 

 ネタバレでもないし、多分にアバウトな、あるいは的外れな理解かもしれないが、『君たちはどう生きるか』は、戦禍にあって母親を亡くした喪失感から精神世界に逃避する心病んだ少年が、新しい環境の中で、母親の死ときちんと向き合い、継母との生活を受け入れ、実人生を生きることを決意するというお話。ある意味では正攻法なビルドゥングス・ロマン的作品ではないかと思う。

 

 疎開先での生活の中で出現する様々な鳥のイメージ、森と不思議な塔、海と城壁の中での闘争。それらはおそらく病んだ少年がみる幻影の類だろう。その中で亡くなった母親は少女化し、子を宿した継母は眠り続ける。

 少年と行動を共にするアオサギや彼と対峙する精神世界に生き続ける謎の老人=大叔父は、おそらく少年の中で分裂した自我なのかもしれない。少年は老人の跡を継いで精神世界の総ての決定者として生きることを望まれるが、すんでのところでとどまる。自分はピュアな存在ではなく、悪意を抱く人間だという自我を確立することによって。

 この映画は、このストーリーはきわめて精神分析的、フロイト的かもしれない。そしてかなりアバウトでもある。病んだ少年には亡き母親と継母*1の実家での生活はすでに歪んだ妄想によって構築されている。あの七人の小人のような老婆たち=女中は、みな少年の妄想だろう。実際、複数の女中、婆やの類かなにか。その中の一人がさらなる精神世界の中にあっては、少年を導く強い女性となる。そして少女化した亡き母もまた強き女性として、少年をサポートする。

 

 この映画のタイトルは吉野源三郎の書いた小説『君たちはどう生きるか』に由来する。しかし映画と小説にはほぼほぼ連関性はない。時代が戦中という部分はあるが、空襲で母親を亡くすという設定から、映画は戦争末期のことだが小説は日中戦争が勃発した時期だったはずだ。

 小説は山本有三が監修した児童向け双書シリーズ『日本少国民文庫』の一冊として新潮社から刊行された。もともとは山本有三が書くはずだったが、事情により編集を担当していた吉野源三郎が書くことになった。

 吉野はそのすぐあとに岩波書店に入社し岩波新書創刊に関わる。よくいわれることだが、岩波文庫小林勇が、岩波新書は吉野が創刊編集者だったとされている。戦後、吉野は雑誌『世界』の初代編集長となり岩波書店の編集方針をリードする。『世界』は準備段階にあっては、保守リベラル的な安倍能成等が編集するはずだったが、戦後思潮の動向がラディカルに傾くなかで、吉野が主導する革新派の雑誌として創刊されたという。

 その後、吉野は岩波書店の労組をたちあげ、ほどなく編集担当役員として岩波書店をささえた。彼が日本共産党員だったかどうかは定かではないが、戦後日本の論壇が左傾化する中で、日本共産党とはきわめて親和的だったのはまちがいない。また、一方で反代々木の急先鋒であった全共闘運動にも一定の理解を示してもいた。

 東大紛争時の全共闘の議長山本義隆*2が、ある時期吉野源三郎の娘の家庭教師をしていたことは有名である。吉野は山本の才能をかっていて、その考え方や行動には賛同できない部分があったにせよ、相応のシンパシーを感じていたようだ。

 吉野源三郎は守備一貫してリベラルな思想の持主であり、時に時代の振り子の振れ幅によってはラディカルに傾いたとしても、基本は西欧的なリベラル(自由主義)の人だったと思う。

 その彼の書いた『君たちはどう生きるか』は歴史的名著だと思う。私自身はというと、「君たち」ともいうべきティーンエイジャーからはるかに時を隔てた三十代に読み感銘を受けた。それからも何度も読み返しているし、自分の子どもにも買い与えた。この本は、社会的な認識、人と人との社会関係、社会構成、さらに社会における生産関係を、平易に意識させることができると思っている。

 この本(岩波文庫版)の後書きは、政治学丸山眞男が書いているが、そこで丸山はこの本をこう評価している。

いかにも幼いコペル君にふさわしい推論を積みかさねて「法則」に到達する過程が、すこしも「大人」の立場からの投影という印象を与えず、きわめて自然に描かれているのにも感心しますが、おじさんがこの手紙を承けて、そこから一方ではコペル君をはげましつつ、他方で「人間分子の法則」の足りないところを補いながら、それを「生産関係」の説明にまで持ってゆくところに読み進んで私は思わず唸りました。

 これはまさしく「資本論入門ではないか」——。

<中略>

中学一年生の懸命の「発見」を出発点として、商品生産関係の仕組みへとコペル君を導いてゆく筆致の鮮やかさにあ然としたのです。

君たちはどう生きるか』 後書き「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」丸山眞男 P312-313

 

 さらにこの本はマガジンハウスから漫画化され、これは200万部を超える一大ベストセラーになった。あのマンガはある種の自己啓発的な雰囲気で全面に押し出され、原作のもつ社会認識やリベラルな志向についてはなんとなく後景化されているような気もしないでもなかった。しかし『君たちはどう生きるか』という書籍の存在を現在において改めて周知させる絶大な影響があった。

 そういった原作部分は映画と連関しているかというと、それはほぼ皆無といっていいかもしれない。映画の中で亡き母が主人公のために残してくれた書籍のなかに小国民文庫版『君たちはどう生きるか』があり、それを読んで主人公が涙するシーンが挿入される。しかしその涙は内容に対するものではなく、その本を残してくれた亡母に対する哀惜の情からのものだったのではないか。

 映画と原作には関連するものはない、多分。宮崎駿はタイトルのみを借用し、自分なりの『君たちはどう生きるか』をイメージし、展開してみたのだろう。それは矮小化した理解ではあるけど、*3喪失感と精神世界への逃避、そこを抜け出して実人生を生きることに、リアルワールドに踏み出す決意をした少年の成長物語ということだ。『君たちはどう生きるか』は、そのままそれぞれの少年少女たちの「私たちはどう生きるか」に展開されていくということだ。

*1:母親の妹らしい

*2:今は物理学の泰斗でもある

*3:誰かがこの映画を村上春樹的な要素があると語っていたが、まさにこの部分かもしれない