母親の死を確認する

 兄の除票謄本と自分の戸籍謄本を取るために横浜の役所に行ってきた。年金や保険、さらに預金などの事務手続きに必要になるので、早めに行っておこうと思った。ただし川越の役所から横浜に情報がいってからということになるので、8日の届け出で事務手続きに10日程度かかるというので、この日にした。

 本籍といってもここは父が結婚したときにたてた本籍地で、もともとは母親の実家だったところらしい。そこにはもう自分の関係する人は誰も住んでいないし、そもそも家すらない。以前探してみたが土地は分割されているようで、その住所だと一般の家でお寺をやっているところだった。

 そういう意味ではもう本籍の意味をなさないので、どこかで今住んでいるところに本籍地をたててもいいようにも思う。いちおう今住んでいる家は自分の家だし本籍地とするのが一番いいし、謄本を取るにも便利だ。これまではなんとなくいつかは横浜に戻りたいみたいな思いもあるにはあったが、今から横浜に家を探して移り住むというのもどうか。多分、そんな余力、資力もない。多分、ここ1~2年でそういうことをも進めなくてはいけないと思ったりもする。

 兄との引き継ぎ関係では特に相続するようなものはないのだが、兄にとって自分が唯一の身内であることの証明も必要になるらしい。戸籍上、父親は死去しているのだが、離別した母親の所在が不明なままである。そこで本籍に載っている母親の謄本が取れるのかどうか、戸籍係の人に聞くと問題なくとれるという。母親は父と離婚した後、新たに同じ住所を本籍としている。まあ生きていても98歳だし、多分亡くなっていると思いますがと一言述べてから兄の除票、自分の謄本と一緒に請求してみた。

 しばらくして出てきた母の謄本は除籍謄本で、死去したのは平成29年2月とある。割と最近まで生きていたのかというのが最初に思ったこと。そして自分が4歳の時に離別した母親の死を60年後に知るというのはなんとも微妙な面持ちだなと感じた。

 自分にとって母の記憶は一切ない。離別した後にも何度かは会っているのかもしれないが記憶にはない。物心ついたときから自分には母親がいないことは当たり前の現実だった。しかも離別ではなく死別であること、それは多分自分の人格形成にはけっこうな影響を与えていたのだろうとも思う。

 十代になってから、あるいは成人してから、母親の消息を訪ねてみるとかそういうことを考えたことがなかったか。若い時分はあまりそういうことを思ったことが正直なかった。多分、結婚して子どもができてからあたりから、少しずつ母親を探してみようかみたいなことを考え始めた。でもそれを行動に起こすことがないままきてしまった。ただし実際にどう動いていいかもわからなかった。興信所あたりに頼めば比較的簡単に消息はわかったかもしれない。あるいは今回のように本籍地からということもできたかもしれない。もっとも当時は仕事や子育てに忙しかったし、さらには妻が病気となり障害者となってしまった。多分余裕もなかったとは思う。

 しかしずっと自分の気持ちの中では不在、不存在であった母親が、リアルに生きていて3年前の2017年に亡くなったこと、この世界から完全にその実体が非存在となったということが今知らされたというのはなんとも不思議な気持ちだ。そしてそれまで不在でありながら、どこかで生きているかもしれない実の母親が、この世界から消え去ってしまったことを今改めて知った。それはじょじょに自分にとって新たな喪失感となってくるような気がする。

 母は1923年(大正12年)1月に生まれ2017年(平成29年)2月にこの世を去った。計算すると94歳、そこそこに長命だったのだと思う。亡くなったのは世田谷区である。離婚して父母の実家に本籍地をたてた後で本籍が動いていないというのは再婚しなかったということなんだろうか。

 除票に書かれていることでちょっと気になるのは、届出人がまったく苗字の違う名前の方であること。検索してその名前でヒットするのは役所の方のようである。ここからは単なる推測の域だが、ひょっとすると母親は公営の住宅で独居で亡くなったのではないか。そのため役所で届け他が処理されたという可能性はないだろうか。

 そんなことを思うと、母親が孤独な晩年を送ったのかとこれも単なる想像でしかないが思ったりもする。とはいえ、ここ10数年の間に連絡を取って場合によっては何らかの援助をしなくてはならないみたいなことになったら、仕事、家事、子育て、妻の介助、兄のサポート、さらに親のことなどとても難しかっただろう。まあどれもこれもみんな自分の想像、妄想の類のことである。

 しかし、兄が死に、母親もその死を同時期に確認した。自分の血を分けた肉親、親、兄弟はみんな鬼籍に入ってしまった。もちろん自分には家族があるしまったくの一人ということではない。でも、なにかとても淋しい気持ちがしている。特に母親についてはずっと不在だった。それが不存在であるということをつきつけられてしまった。「ときには母のない子のように」という歌があった。自分には母の記憶がない。自分はずっと母のない子として生きてきたということを確認した。そういうことだ。

  これまで母は古いアルバムの中だけに存在した。今、除票を入手したことで彼女は94年のリアルな人生を送り、この世を後にしたことが確認できた。彼女の人生にもたくさんの良いことや悪いことがあったのだと思う。いまさらになるが、安らかにねむってくれることを祈る。

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ありしの母、1954年頃