墓参りなど

 午前中、池袋の歯医者に行く。前週にいれた差し歯の状態を確認。さらにその手前の歯も来週に差し歯を入れることになる、2本合わせて24万円。歯にこんなに金使ってもいいんだろうか。年齢との費用対効果を考えると疑問点が多数あるにはあるのだが。
 歯医者終了して鶴ヶ島に戻ったのが昼頃。カミさんがお出かけしたいと玄関先で待っている状態だったので、まあ仕方なく家に落ち着くことなく出かけることにする。
 ここのとこ美術館巡りがずっと続いていたので、今回はお休みしてずっと行っていなかった墓参りに行くことにする。墓は神奈川県の山奥、愛川町にある。埼玉に越してきた当初はそれこそ車でも3時間近くかかったものだが、圏央道が延伸することに時間は短縮された。圏央道が東名と繋がるようになると、その間の相模原ICで降りると1時間弱でついてしまう。
 墓地は山肌を切り崩して作った典型的な公園墓地風で全体的にはこんな感じである。

 カミさんと二人でお参りして、墓の前で買ってきたサンドイッチとかおにぎりを食べたり、墓を簡単に掃除したりして過ごす。芝生墓地なので昔からちょっとばかりピクニック気分みたいなところもある。
 墓の裏に記された墓標を見ると父が死んだのは昭和61年(1986年)とある。もう32年も経つのである。自分は当時30歳だったか。父は夜勤明けで帰宅後風呂場で倒れた。くも膜下出血だった。祖母が見つけたのだが、どうすることも出来ず私に電話してきた。祖母はもう完全にパニック状態だった。私は会社から救急車を呼んだ。それからまた自宅に電話し祖母に救急車が来るのを待つように言った。受話器から遠くに救急車のサイレンが聞こえてきて、だんだんと大きくなった。祖母が「こっちよ」と叫ぶ声が受話器から聞こえてきた。
 救命士がすぐに父の処置をしながら、電話に出た、重篤な状態で一刻の猶予も出来ないと言った。一番近い救急病院に向かうと言って電話はきれた。
 それから上司に父が重篤な状態なのですぐに病院に向かうと説明し、すぐに会社を出た。都内の会社から横浜までは早くても1時間半以上。電車の中でも生きていてくれと何度も心の中でつぶやいていた。
 こんな風に今でも鮮明に記憶していることなんだが、もうそれが32年も前のことになるという事実。遠い昔の話なのである。父が死に、それから3年近く兄と二人で90を過ぎた祖母の面倒をみたが、転んでは骨折を繰り返し、福祉事務所に泣きついて幸運にも空きの出た特養老人ホームに入れることができた。
 祖母の介護という重しがなくなった年、多分33歳くらいだったと思うが、私は勤めていた取次をやめて出版社に転職した。それから転々と会社を移り4社目の会社が今のところだ。祖母は私が結婚した年に亡くなった。98歳だった。それから埼玉にマンションを購入し、子どもが生まれ、一戸建てに二度越した。妻が脳梗塞で倒れ、仕事、家事子育て、介護をやりながらなんとか凌いできた。おまけに兄が病気、失業、借金などもあり、住むところを与え、借金を整理し、生活を立て直してやった。
 32年という年月をそんな風にして過ごしてきた。墓石の墓標も父のそれは経年のせいかちょっと読みづらくなっている。そういう年月でもある。
 年をとると昔ばなしばかりになる。まあそういうものだ。でもきちんと覚えているうちに父のこと、祖母のこととかも少しずつ書いていきたいと思うこともある。二人のことを覚えていて、それを記録できるとしたら多分自分しかいないのだから。