兄倒れる

 午前中、オフィスで携帯に着信がある。仕事中なので携帯の電話は、取るとき取らないときがある。特にかけた相手が登録されてない場合は、営業電話とかもあるので拒否することもある。携帯を手に取ると相手先不明の電話だったのだが一応出てみる。
「〇〇病院ですけれど、〇〇さんの携帯でしょう」
「はい、そうですが」
「お兄さんの〇〇さんが、今日人口透析の日なのですがお見えになりません。携帯に電話しているのですがお出になりません。何かあったか心配ですので、確認してはもらえないでしょうか」
 兄とは一年に一二度電話のやり取りをするくらにで、ほとんど交渉もない。5〜6年前に住んでいた横浜での生活が破綻しかけていたので、いろいろと援助して川越に住居も用意してやりそこに住まわせている。二年前に自転車で転倒して左目に大怪我をしたときも救急に呼び出されて防衛医大まで行ったこともあった。その時は二週間くらいの入院で当然のごとくその治療費も自分が払った。
 兄は七歳年上なのだが、一風変わった性格で良くも悪くも常識に欠けている。16歳で社会に出てからは小さな町工場で働いていた。三十になる少し前に父親の紹介で父親と同じ警備員の職についてからは六十まで勤め上げた。しかし経済観念に乏しく定年の時には預貯金もまったくなく、おまけに緑内障の手術を定年と同時に行うという状態で、その医療費を無心するために5年ぶりに電話してきたくらいだった。その時兄に会いにいったが、兄のアパートの部屋はゴミ屋敷と化していて、大家からも立ち退きを迫られていた。それからひと月くらい、休みの度に何回か兄の家に行き大掃除を行った。
 兄と話しを聞いていると本当に次から次へといろんなトラブル系の話があった。まずはカードローンを繰り返し相当な借金を背負っていたこと。人から騙されやすい性格もあるのだろうが、エアコン清掃の業者から水を使うという掃除機を30万近くで売りつけられていたこと。その掃除機は大掃除で使おうにもほとんど役に立たなかった。さらに朝日ソーラーだかの24時間風呂まで取り付けられていた。1DKのアパートでなにそれというところだ。みんな口車に簡単に乗ってしまうのだろう。
 そこでとても遠くで一人にさせておく訳にはいかないということで、近所に住む場所を見つけようと考えた。最初は賃貸のアパートと思ったが当時六十歳、糖尿病を抱えているとはいえまだまだ人生は長い。賃貸よりは分譲の方がいいかと考え、築年数の古い公団の分譲団地を格安で手に入れて住まわせた。ローンについては自治体に相談し、司法書士を通じて過払い利息の返還などできれいにさせた。生活についてはさすがに十六から勤め上げたこともあり、年金も満額支給されることになり、取りあえず生活は立て直せたと思っていた。
 でも自転車で転倒事故を起こして入院した時も部屋に入ってみると、中はほとんどゴミ屋敷の一歩手前という状態だった。とにかく片づけとかが出来ない人間だということ。
 話は戻る。病院からの電話にまず人工透析を受けているということに驚く。以前、そのうち透析やらなければならない、そのための準備手術が必要とのことは聞いていた。確かシャント手術というやつだったと思う。しかしすでに透析を行っているというのはほとんど寝耳に水のような話だった。
 すでに透析を受けている、なのにその日にやってこない。電話しても連絡が取れない。それってかなりやばいことじゃないかと思い自分でも電話してみるがまったく繋がらない。正直、そこからは最悪の想定が頭を巡る、孤独死という言葉が浮かぶ。下の者に急用で出かける、多分戻れないと告げて車で兄の家に向かう。車なら十五分くらいの距離だが、とにかく長く感じさせられる。思えば父が風呂場で倒れた時も電話で祖母から連絡があり、都内の会社にいた自分が救急車を呼んだ。それから病院に着くまでの一時間半が永遠というくらに長かった。父はクモ膜下出血で一昼夜病院で救命治療を受け亡くなった。
 兄の団地に着き5階の部屋の前まで登った。もうその時にはかなり覚悟を決めていた。念のためドアフォンを何度か押してみる。するとなにかうめき声のような返事がする。最初空耳かとも思ったが間違いない。それで合鍵を使い中へ入ると台所の冷蔵庫の前で兄が倒れている。呼びかけると一応返事はするが意識はない。脳出血とかの類だと動かすのは危険なので、すぐに救急を呼ぶことにする。救急を待つ間、部屋を見て回るとやはりゴミ屋敷の一歩手前状態である。特に台所の水回り、ガスコンロ周りは油と汚れ、焦げ、サビなどがヘドロのような状態となっている。少し落ち着きを取り戻して、兄の体には毛布をかけ、散乱したゴミとかをまとめつつ救急を待った。
 救急は三名が上がってきた。受け入れの病院はかかりつけの家から近い総合病院に決まり、自分も一緒に救急車に乗っていくことにした。病院での処置の間はただひたすら待たされるだけ。それも説明らしい説明もなく。兄は簡単な処置の後は透析を受けるため別の階に移された。なんだかんだで2時間近く待たされた後で主治医からやっと説明を受けた。
 倒れたのは低血糖から意識混濁状態に陥ったのが原因。透析治療は週三回受けている。それとは別に動脈狭窄があり、動脈硬化症も併発している。いつ心筋梗塞になってもおかしくない状態であるという。おまけにこれも知らないことだったが、9月に日高の埼玉医大国際医療センターに検査入院していたとか。そのときにカテーテルによる動脈を広げる施術を行う予定だったが、兄が断ったため出来なかったということだった。医師はなぜ施術を断ったのかとしきりに残念だということを繰り返した。とはいえ、それを繰り返されても何も聞かされていない自分としてはせいぜい相槌を打つくらいだった。
 人工透析は3〜4時間かかるというので、一度兄の家に戻り簡単な掃除を行った。おそらく何度か通わないと普通にきたない部屋の状態にまで行かないだろうなと思った。部屋のあちこちでゴキブリが徘徊しているし、部屋の隅にもその死骸というか羽だけが散乱していた。やるせない思いとともに、兄の面倒も見なければならないのかと気持ちがどんどん冷えていくようだった。
 7時過ぎに病院に再度立ち寄った。兄は病室で寝ていたが、顔はむくみなにか別人のような状態だった。目を覚ました兄と少しだけ話をしてから帰宅することにした。