誕生日

ほとんど忘れていたのだが誕生日だった。日々の忙しさやらなんやらでそれに気づく余裕もないというところだろうか。別に自分の年齢と向き合うのをことさら避けようななどという心根もないだろう。
満で58になる。いよいよ還暦までカウントダウンというところだろうか。少しは枯れてきて、渋みの一つでも滲ませているようになっただろうか。ダメだなそれは。相変わらず日々の生活に埋没し、足掻き、ただただジタバタとしている。
物欲に支配され、子どもの時の貧困の記憶、その時感じた飢餓感を今更に癒そうとでもするかのように小物を買い漁る。とはいえ金額の多寡についていえば、1万を超えたあたりから急にびびるあたりは、これも貧困の記憶によるものだろうか。
たぶん教養として覚えたことではなく、製薬会社のCMかなにかで記憶したことなのだろうが論語の一節をふいに思い出す。

子曰く、
吾れ十有五にして学に志ざす。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳従う。
七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。

思えば「三十にして立つ」どころではなかったし、四十どころかいまだに惑いっぱなしではないかと思う。そもそも天命などあったのだろうかとも自問自答する。そして六十近くになってそろそろ物に動じなくなってきたかといえばそんなこともない。
孔子のそれはかくあるべしという訓えであろうが、たぶん自分の人生には親和性がほとんどないようにも思う。たぶんたぶんだろうが、ずっとずっと足掻き、惑い続けていくのだろうとも思う。
仕事は充実しているか、たぶんまったくといってそれはない。ただただ組織の存続と自分や職場の人間の生活の糧のため、生計維持のため、これもまた足掻き続けていかなくてはならない。
私生活はというと、これもまた先行き不透明、いつになったら少しは楽な見通しがたつのか。子どもの自立までにはまだまだ長い時間が必要だ。いやそもそも自立はあるのかどうか。カミさんの障害はあのままだろうし、だんだんとそれは老々介護の性格も帯びてくるのだろうか。
こんな風に夜更けになまじ考えるからいけないのかもしれない。何も考えず、ただただ日々の生活を凌いでいく。ただただそれだけのことである。能動的にどうのというよりもリアクションか。まあいいか。
これも今更のことかもしれないが、ボブ・ディランの歌でも自分に贈ってみる。だからどうのということもなく、こんな時間だし今更に自分自身でボケ突っ込みしてもしょうがないだろう。

May you build a ladder to the star
And climb on every rung
May you stay forever young

星に梯子を架けて
一段一段登っていけますように
いつまでも若くありますように
『FOREVER YOUNG』 Written by BOB DYLAN