ピアニストという蛮族がいる

ピアニストという蛮族がいる (文春文庫) | 中村 紘子 | 音楽 | Kindleストア | Amazon
初版が出たのは1992年。すでに20年以上も前のことである。『チャイコフスキー・コンクール』で大宅荘一ノンフィクション賞を受賞した後に出したものだったと記憶している。当時から評判は聞いていたので読みたいなと思いながら20年の時が経ってしまった。いやいや、そういう本の多いこと多いこと。読みたいなと思いつつ、結局読むことなく終わる。そういうものだ。
この本を読むきっかけは、去年の暮にアマゾンにてキンドルを購入した。PAPERWHITE 3Gである。それでキンドルストアをつらつら眺める日々が続いていたのだが、どこの電子書籍サイトもそうなのだが、とにかく貧弱でちょっと心を震わせるというか、琴線にひっかかってくるものがきわめて少ない。なんとなく電子書籍の夜明けは遠いかなと思っているところに本書が目に入ってきてポチっとクリックしてみたのだ。
こういう出会いもあるんだよなと思う。最近はあまり本屋にも行かないし、行くとしてもたいていの場合、棚が貧弱なご近所のTSUTAYAみたいなところばかり。昔から本屋の棚を何時間も周遊して、目移りを繰り返しながら、最終的には衝動買いみたいなことを繰り返してきたのだが、TSUTAYAあたりだと10〜15分すれば、だいたい見切ってしまう。そして読みたい本もなしとの結論に達する。そんな感じである。
たまに川越あたりのブックファーストに行くとしても時間が限られているから、あまり良い本との邂逅みたいなものはあんまりない。もしその時にこの『ピアニストという蛮族がいる』が目に入ってもたぶん手にとることはないだろうなとも思う。
それを思うとある意味、キンドル様々なのでもある。出版社はもっとキンドルストアにコンテンツ出すべきだと思う。ことさらに新刊なぞいらないから、いやどうせ読んだらすぐ捨てちゃうようなものが多いから、新刊こそ電子書籍化とも思わないでもないが、とにかく既刊書、それも比較的版を重ねたロングセラー系で、なおかつ現在品切れ状態のものとかを、もっと積極的にキンドルストアに配信してはとも思う。キンドル買ったけど読むべき本がないぞと嘆いている私のような輩が多数いるかと思われ、みたいなことも思うわけなので。
話を本書に戻そう。ピアニスト中村紘子が綴ったピアニストについてのエッセイなのだが、とにかく話が面白すぎる。おまけに文章が素晴らしい、文章力というか、とにかく読ませる文章を書くのである。以前、中村紘子の文章の面白さに、小説家であるご主人がゴーストではないかというよからぬ噂が出たことがあった。でも私は思ったりもする。赤頭巾ちゃんを書いた庄司薫よりも中村紘子の文章の方が数段うまい、面白いとも。「赤頭巾」「黒頭巾」「青髭」とかを愛読したほうなんであえて断言しちゃうけれど。
中村紘子はまず自分自身を含めたピアニストを洗練された一般人とは異なる蛮族と規定して筆を進める。冒頭で彼女はこう書く。

大体みんな、三、四歳の時から一日平均六、七時間はピアノを弾いているのだ。たった一曲を弾くのに、例えばラフマニノフの「ピアノ協奏曲第三番」では、私自ら半日かかって数えたところでは、二万八千七百三十六個のオタマジャクシを、頭と体で覚えて弾くのである。それもその一音一音に心さえ必死に籠めて・・・・・・。すべてが大袈裟で、極端で、間が抜けていて、どこかおかしくて、しかもやたらと真面目なのは、当たり前のことではないだろうか。
そしてここでも類は友を呼び、蛮族の周りには蛮族が集まる・・・・・・・。

そうピアニストという蛮族はまさしく音楽の天才たちの集団なのである。選りすぐりの音楽の才能を持った人々が、全人生をピアノに捧げ、一日の三分の一をピアノの前に座り悪戦苦闘を続けている。その研鑽の結果がコンサートにおける美しいピアノソナタとなって現れるのだ。
のだめカンタービレ』において我々は変態女流ピアニストの成長と研鑽の日々を面白おかしく堪能した。そしてこんな奴いないだろう普通的なつっこみ半分の感想を抱きつつ、クラシック音楽の世界を垣間見た。でも蛮族たるピアニストの側からすると、のだめは別に特段異常なタイプでもなんでもないということにたぶんなるのではないか。というか、ピアニスト業界(そんな言葉あるとすればだが)にあっては、リアル<のだめ>ばかりなのではないかということになる。
のだめカンタービレ』にあっては、俺様として傲慢を体現したような存在である千秋君も、それでいてそつなく日常生活をこなす常識人で努力家であるところなどは、意外とクラシック業界にあっては、特に天才的なスーパースターとしてはあり得ない存在なのかもしれない。
一流のピアニストにとっては、世間の常識などどうでも良いことなのだ。彼らは別に料理や掃除をする必要もない。ただただ毎日ピアノに向かい、美しい音楽を奏でる、完璧な解釈と、より完全な演奏を、人々を感動させる表現を、それだけのために生きているのだと私は思う。
以前、何かで読んだことだが、アメリカのフォークロックにあっては、たぶん誰も一目を置くような大御所であるジョニ・ミッチェルの日常生活について書かれたもので、彼女が普通一般人がするようなことは一切しないみたいなことだったと思う。それこそ料理、洗濯、掃除から、仕事に関わる業務的な折衝、その他もろもろ。それらはすべて秘書が行い、彼女はただただ新しい詩作、作曲、絵画など、芸術的な行いにだけすべてを注いでいるてなことだった。そうなのだ、そもそもアーチストとは、芸術家とはそういうものなのだ。
本書ではまた日本で最初の女流ピアニストであった幸田延久野久のためにそれぞれ一章をさいている。明治時代、まだ複製芸術としてのレコードなどもない時代、楽譜でさえもきちんと整備されていない時代にあって、女流音楽家がどんなに苦労を重ねて音楽に研鑽していったかについて、感情を抑えた筆致でたんたんと綴っている。それは私のようなクラシック音楽に対して門外漢からすると、ほとんど総てが新しい知見でもあったりもする。
明治時代にあって国内では誰一人追随するものがいない高みに達した女流ピアニスト久野久は、ウィーンに留学して本場の音楽に触れ、指導者からその我流の奏法を批判され、基本から学びなおすことを厳命される。そして失意の中自殺に至るという悲劇。それは明治時代にあって、西欧に追いつくことを至上命題していた明治人のある種の象徴とでもいえるのかもしれないし、その挫折は近代化を猛スピードで進め、その挙句太平洋戦争に突入した近代日本の姿そのものだったのかもしれない。まあそんな風に私は感じたものだった。
そんな明治期のピアニストの草創期の紹介とは別にも、様々な一流ピアニストたちの様々なエピソードがユーモアたっぷりに描かれているのも本書の魅力である。「世界のピアニストには三種類しかない。ユダヤ人とホモと下手糞だ」と放言したのは大家ホロヴィッツである。
そのホロヴィッツは大指揮者トスカニーニの娘婿でもある。本書で紹介される抱腹のエピソードにこういうのがある。ニューヨークのジュリアード音楽院で将来を嘱望される学生が校長からピアノの個人教授のアルバイトを紹介される。そして訪れた先の高級アパートでドアを開けると待ち構えていたのは、なんとホロヴィッツなのである。そのまま居間に入り教えるべき少女を紹介される。その傍らの安楽椅子には白髪の老人が満面に笑みをたたえて座っている。その御仁はなんとあのトスカニーニである。
学生はほとんど泣きそうになって二人の音楽界のスーパースターに訊ねる。
「まさか、お二人ともレッスンを聴いていらっしゃるのではないでしょうね」
するとホロヴィッツはこう答える。
「もちろん聴くよ。なにしろ私が彼女の父親で、あっちが祖父なのだから」
なんとも微笑ましい、そしてありえないだろうと突っ込みをいれたくなるエピソードだ。本書はこんな愉しいエピソードが満載だ。クラシック音楽をより愉しむためにも、いやそんなことよりも純粋に愉しい読み物として一読を薦める。きっと愉しいひと時を得ることができる。