バルテュス展

都内に出る用事があり、その後夕刻から友人と会食予定。合間に時間が少し空いたので上野にバルテュス展を観に行く。以下twitterからの引用。

午後銀行で定期の更新と担当者との簡単な打ち合わせ。その後ぽっかり時間が空いたので、上野まで足を伸ばし閉館間際のバルテュスを観る。やっぱり凄い画家だ。

バルテュスの絵は多分生理的に受け付けない人も多いのかな。友人でも駄目というのが数人。少女たちの殆ど痴態になりかねない扇情的ポーズ。大人と子どもの間の微妙な中性的な感覚。なんつうか瀬戸際感みたいな感じかな。正視し難くもあり、激しく惹きつけられるみたいな部分も

夢見るテレーズ(1938年)

バルテュスはロリか。
ロリータ・コンプレックスという言葉を普遍化させたナバコフの『ロリータ』の表紙絵にバルテュスの作品が使われたことも有名だとか。バルテュスといえば少女の扇情的なポーズ。そこに皮相なエロスとは異なる、危なげなある種普遍な美の象徴を描いたとされるのだが。
初期の代表作とされるのがこの「夢見るテレーズ」。その後何度も繰り返される少女と猫というモチーフ。鋭角に折り曲げた肘と膝。あられもなく露出する下着と股間。すでに1933年に「鏡の中のアリス」でことさらに半裸の女性を描き、そこに不必要化とも思える性器をも描きセンセーショナルなものを演出している。バルテュスが「夢見るテレーズ」で少女の下半身と下着を描いたのは確実に意図的なものである。
そう、バルテュスは意図的にエロスを表出している。鑑賞者の様々な反応を予知する、あるいはそれを焚きつけるようなある種の挑発、挑戦するかのように。
この少女は夢見るというタイトルとは間逆のごとく様々な苦悩を耐えるような憂鬱な雰囲気である。それは無垢な少女から性の目覚めによってもたらされる様々なものへのとまどいと解釈されたりもする。あるいは大人への予兆としての生理の様々なものへのとまどいなども。
しかし私などは天才画家のエロスへの執着、そのややもすれば猟奇にも似た眼差しに羞恥にかられて必死に目をつぶり耐えているという風にも見て取れる。いたいけな姿態である。なにか見てはいけないもの、正視し難くも惹きつけられてしまう、そういうものを感じる妖しき作品だ。
美しき日々

バルテュスは変態か。
これも何度も繰り返されるモチーフ、少女と手鏡。この絵の危なさは「夢見るテレーズ」をさらに上回る。少女になんつうポーズをさせるのかと思わせるような姿態である。胸を半分のぞかせ片足を立膝にするポーズも何度となく描かれる。たぶんこれだけで皮相な意味合いでいえば、少女趣味の変態性とも見て取れる。左隅で暖炉に薪をくべている半裸の男の後姿は何か必死に禁欲を課しているようにも思える。
この絵をたぶん最初に見たのは大塚国際美術館のセラミックアートでだ。危ない絵だと思いつつ、ずいぶんと挽きつけられもした。バルテュスという存在をこの絵で知ったのかもしれないと思う。なんとも危ない絵であるとともに、鑑賞者の趣向を見透かすようなある種の挑発性をも持っている。
バルテュスは変態かという問いは、ある種彼の絵を鑑賞、享受する鑑賞者の変態性をも逆投射させるようなものも重ね持っているような気もする。
とはいえバルテュスという美の巨人はそんなセンセーショナルなだけの画家ではない。叙情性や耽美性、絵画における美の様々な部分をも併せ持っている。
眠る少女

この絵の美しさはどうだ。しかもエロスとは異なる純然たる美が重々しく暗いタッチの中で描かれている。ここには少女への扇情的な眼差しなど微塵もない。
地中海の猫

一転、この明るい色彩とユーモラスな作画。パリのシーフードレストランのために製作され店内に飾られたという作品。伊勢えびのリアルな描写と寓意あふれる構図。左側でボートに乗る半裸の少女のモデルはかのバタイユの娘、ローランス・バタイユだとか。
バルテュスは時代時代にある特定の少女モデルを採用し、数年にわたって様々な絵を描いている。1940年代後半、ローランス・バタイユバルテュスに重用されたモデルだったという。<猫と裸婦>のための習作

これもまたローランス・バタイユがモデルの作品だ。猫、立膝をつく全裸の少女。バタイユが美の究極と考える総てがここにはあるようにも思える。
再度、問う。下世話な凡人の率直な感想としてあえて問う。バルテュスはロリか。とりあえず私はイエスと答えることにする。50代の後半に来日した際に通訳としてついた日本人の美少女を見初め最初はモデルとして執着し、後に結婚し終世の愛を捧げたという。バルテュスからすれば日本人の少女は究極の美の象徴と映ったのではないか。そう、バルテュスは真性ロリと俗人の私は思う。
ただし留意させてもらえれば、天才的な審美性をもったロリということになるか。