病院通い

土曜、日曜と午後は病院通いを続けている。まあ休日なので当たり前といってしまばそれまでか。今回の妻の入院は検査が主であり、病状悪化とか手術とかといた差し迫った案件もない。そのへんが家族としても心理的には楽ではある。ただしもともと若くして重い脳梗塞を発症した原因を探ることと、再発予防のためという入院の目的についていば、何度も書くようだが今のところほとんど成果ともいうべきものはない。
土曜日にはたまたま主治医が当直で病棟に出向いているようだった。スタッフルームで端末をなにやら注視されているのを横目で見ながら妻の病室に入ったのだが、向こうも私のことに気づいていたようで、後で時間を作っていただきこれまでの検査の経過を詳しく説明していただけた。お話の内容はこれまで妻から断片的に聞いていたこととほとんど差はなし。ようはこれまでの検査結果から言えるのは、妻の状態、例えば心臓であれ、血管であれ、まったく問題がないということだった。それから今後予定している検査についての説明をいただき、退院の見通しもあらあらではあるが出た。たぶん来週の後半のどこかである。まあ書いている本日現在からすれば、今週末ということに落ち着きそうだということだった。
医師の説明の中で興味深かったのが、脳の血管造影によるCT検査の画像を見せられたことだ。医師はまだこの画像は平面図でわかりにくいですがと注釈してくれた。CTはその日の午前中に行ったもので、最終的には平面画像をもとにコンピュータ処理で立体画像を作り上げることになるのだが、まだその過程にあるということらしい。
医師が言うには、妻の脳梗塞を起こした部位、いわゆる脳梗塞巣は確かに大きいのだが、脳の血管の一部がその部分にも通っているというのだ。梗塞巣は脳細胞がまったく死んでいる部分でもあるのだが、血管が通い血流があるということは梗塞巣に覆われた部分の一部がまだ脳の機能を保持している可能性があるというのである。
「奥さんの脳梗塞巣は大変大きいものですから、左半身の麻痺はまさしくその影響によると思います。しかし梗塞巣の大きさの割には、感覚面での障害らしい障害もなく、意識レベルでも大変しっかりされていますので、右側部分でも機能が維持されている部分があるのではないかと考えられます。血流があるというのはその証拠です」
これはある意味新しい認識ではあった。確かに妻の脳梗塞巣は脳の右側の三分の二から前頭葉頭頂葉にまで達する大きなものだ。CTなりMRIなりの画像をもって転院先の病院を訪れた時でも、こんなにひどい脳梗塞やっていて転院は難しいのではと言われたこともあるほどだ。それでいて、いくら脳の左をやられていないとはいえ、言語にほとんど問題はなく嚥下障害もない。高次脳機能障害としての注意障害や病状失認、空間認識などに様々問題はあるにしろ(それでもだいぶ改善されてきた)、それでも脳梗塞巣の大きさの割には障害があまり出ていないのである。それはやはり梗塞巣に覆われた部位の一部がいまだ死んでいなかったということなのだろう。
ただし医師はそれではどの部位が機能を保持し、それがどの機能に影響しているかはまったくわかりませんがとも言われた。なるほどそういうものかとも思う。脳の機能については専門家の間でもほとんど解明できていないということは、何冊か読んだのその手の本にもたいてい記述されていることだ。でも素人考えと家族の希望的観測としては、もう一つ実は伺いたいことがあった。それは脳の可塑性、あるいは脳神経の代替性みたいなことだ。
妻の広範囲に及ぶ脳梗塞巣の壊死した脳細胞の中に、新たに生えてきたような神経細胞はないのかどうか、あるいは生き残った神経細胞が死んだ脳神経の代わりを行うようなことが起きていないか。ある種の脳神経科学者からはそうしたことについての新たな学説も打ち出されている。私が読んだものでも、例えばラマチャンドランのエッセイとかにもそれに類似したことがあったようにも思う。
でもあえてそのことを医師の前で口にすることはやめた。それらは可能性としてはあるかもしれない、ないかもしれない的世界のことであり、医師は質問されてもそれについて確定的な答をすることはありえないからである。それでも妻の脳梗塞巣の部位にも一部血流が通っている。血管造影からはそうした形跡、可能性がありというのは、私にとっては新しい認識であり、妻にとっても、家族にとっても、ちょっとしたささやかな希望につながる医学的発見なのかもしれないなとも思った。
ひょっとしたら今回の入院についていえば、それがわかった、あるいはそういう可能性があるということ、つまりは妻の壊死した脳の右側部分にも、ひょっとするとまだ生き残った細胞があるかもしれないということ。そうした脳神経細胞の頑張りで機能維持されている部分が少しでもあるかもしれないこと、場合によっては機能回復に繋がる可能性も0%ではないかもしれないということ。根拠があるかどうかはわからないけれど、そういう可能性、あるいはそういう希望に繋がる事実があるかもしれないということ、それがわかっただけでも検査入院の価値はあったんじゃないかなと思っている。あるいは思いたいかな。