ロシュフォールの恋人たち

ロシュフォールの恋人たち デジタルリマスター版(2枚組) [DVD]
ロシュフォールの恋人たち - Wikipedia
ミュージカルの最高傑作の一つである。たぶんそういっても過言ではないと思う。もちろんミュージカルのどの部分に重きをおくかによっては傑作のカテゴリーが違ってくるかもしれない。ダンス、音楽、ドラマ性などなど。私が好きなミュージカルはもちろんMGM製作のあの楽しき夢のようなミュージカル・コメディだ。その路線を確実に踏襲しつつ、そこにフランス的なオシャレな感覚を付加してみせている。粋で粋でたまらない、しびれるようなオシャレなミュージカル・コメディである。
実はこの映画初めて観るのである。ジャック・ドゥミ(昔はドミーといった)は大好きな映画監督の一人である。全編セリフを歌にした悲恋映画「シェルブールの雨傘」も私の愛する名画の一つだ。そのドゥミの撮ったミュージカルなのにこれまでずっと観逃してきた。音楽は同じく大好きなミシェル・ルグランである。特別出演としてジーン・ケリーも出ている。なのにこの映画を観逃してきたのだ。この映画との星の巡り合わせが悪かったとでもいうことなのだろうか。
1967年の映画であるから私が小学生の頃だ。この映画が製作された頃はすでに映画に目覚め始めた頃だったように記憶している。すでに「スクリーン」とかを読み始めていた。だからこの映画のこともたぶん「スクリーン」のどこかで読んだ記憶がある。「ウエストサイド・ストーリー」のジョージ・チャキリスが出ているんだみたいな感想を持った記憶も残っている。なのに見逃してきた。たぶんその後私が映画を劇場で観始めた時にもこの映画が名画座でかかることもなかったように記憶している。
1960年代後半という時代、ミュージカルは凋落していた。ベトナム戦争や中国の文化大革命ソ連チェコへの侵攻などなど。時代は激動期にあり、政治の季節だった。そんな時代にハッピーエンドのお気楽なミュージカル・コメディが受け入れられることはなかったのだろう。ハリウッド・ミュージカルもよりドラマ性が求められる大作が何本か作られるだけだった。誰もがよく知る「サウンド・オブ・ミュージック」や「ウエストサイド・ストーリー」などだ。後はお子様向けのミュージカルが幾つか。そんな時代だった。
だからこの「ロシュフォールの恋人たち」もたぶん興行的にはあまり成功しなかったのではないかと思う。本国フランスでは中ヒットくらいしたかもしれないが、世界的に大ヒットするようなことはなかった。1967年にはもうこういう楽しきミュージカル・コメディが受け入れられる余地はあまりなかったのだろう。
しかしジャック・ドゥミは映像作家である。60年代のヌーベル・バーグの周辺にいた映画監督である。半端なミュージカル映画は作らない。この映画も映像は細部にいたるまで美しい。ダンス・ナンバーも見事だし、ルグランのジャズタッチな名曲ぞろい。ほとんどのシーンがロシュフォールでのオープンセットなのだが、聞くところによればドゥミは舞台となる実際のコルベール広場を映画に合わせて塗り替えたとさえいわれるくらいに色彩にこだわっている。しかもダンスナンバーとは関係のない普通のシーンでも、主人公たちのドラマとは無関係に通行人たちが踊っていたりという過剰な演出が溢れかえっている。
そうなのである、このミュージカルは盛り沢山な人間的ドラマ、様々な恋、出会いとすれ違い、若者の夢への思い、それらの総てがきっとあるであろうパリへの憧憬などなどなど。様々な錯綜を多分確信犯的にわざわざてんこ盛りにした映画を作ったのである。描かれる人間像はある部分未消化であったり、きちんと描ききれていなかったりもあるだろう。それを含めた過剰さなのである。青春なんてしょせん無秩序だし、過剰な悪乗りだったりもするだろう。それをオシャレな舞台の中で美男美女たちによってオシャレに描いてみせた、そういう映画なのである。
映画評論家山田宏一の著作「映画について私が知っている二、三の事柄」(三一書房)という評論集が本棚にある。山田の本は何冊かある。フランス映画への造詣が深く、自らフランス・ヌーベルバーグの中心でもあった「カイエ・ド・シネマ」誌の同人であった彼だからジャック・ドゥミについて書いたものが確かあったはずだと目次を見ていくと、案の定ドゥミにこの映画についてインタビューした記事も掲載されていた。幾つかを引用してみる。

問・『ロシュフォールの恋人たち』のテーマは、ひとことで言えば、なんですか?
答・生きる歓びです。映画全体が歓びの感情に満ち溢れている作品を、わたしはつくりたいと思ったのです。観客が映画を観終わったあと幸福感でいっぱいになるような作品。これは、わたしの映画作家としての信条です。しかし、それは、もちろん、映画はかならずコメディでなければいけないというようなことではなく、大事なのは、映画の内容がどこまで観客にふれるかにあるのです。たとえば、『バージニア・ウルフなんかこわくない』(エドワード・オルビー原作、マイク・ニコルズ監督、1966年)といった映画は、すべてに否定的で、観終わったあと観客はがっくりして、生きる気力を失ってしまう。それに反して、ロベール・ブレッソンの『スリ』(1960年)とかミケランジェロ・アントニオーニの『欲望』(1966年)などは、人間の絶望や苦悩をペシミスティックに描いた、暗い内容をもった映画ですが、観終わったあと、逆に、生きる気力、たたかう気力を与えてくれるのです。
問・ミュージカル・コメディをつくろうとした動機もそこにあるのですね?
答・そうです。ミュージカル・コメディこそ、人生の歓びを最大限に表現しうる最適な形式だからです。わたしたちは、日常生活でも、たのしいときには自然にうたいだしたり、踊りだしたりするものです。それに、わたしは、映画のなかに音楽や文学や絵画やバレエのすべて思いっきりつぎこんでみたかった。その意味でも、ミュージカルは最適な映画の形式なのです。ミュージカルは、わたしのむかしからの夢で、第一作の『ローラ』もほんとうはミュージカルにしたかったのですが、いつものことながら、制作費が不十分で実現できなかったのです。
問・『ロシュフォールの恋人たち』はハリウッド製のミュージカル・コメディとどんな点で異なっているのでしょうか?
答・それは、要するに、映画のエスプリの問題ではないかと思います。わたしの作品は、形式こそハリウッド製ミュージカルをまねていますが、テーマも音楽もすべてフランス的エスプリにつらぬかれています。アメリカ映画の最大のテーマとは、人間の社会的成功、つまり、ひとりの人間がいかにして恋愛や金銭や名誉をかちとっていくか、という問題につきると思います。それはそれなりにすばらしいテーマですが、わたしは、むしろ、人生における男女の出会いの模様を描いてみたかったのです。たとえば最後には結ばれるべき男女がお互いにまったくそれとは知らずにすれちがう瞬間−それを唄と踊りでドラマティックに表現してみたかったわけです。

このインタビューは1967年6月に行われたものだ。ほとんどこの映画についてのすべてがドゥミの言葉の中にある。これ以上の解説は不要なくらいに的確なコメントである。ドゥミの意図は見事に映像化されたし、彼が映画を通じて表現したかったことはほとんど総て映像の中にあるといえる。それほどこのミュージカルは過不足なし、完璧な作品だと思う。
まあしいていえば、ほとんどすべてのナンバーが吹き替えである。あのジーン・ケリーからして口パクで別の誰かが彼の代わりに歌っているのである。もちろん歌詞がフランス語だからという理由もあるだろうが、これはある部分興ざめする。ジーン・ケリーはけっして歌のうまい人ではない。でも彼の歌にはある種の味わいがあるし、彼のミュージカル映画愛する人々は彼の完璧なダンスと同様に彼の歌も愛している。
そして可愛いらしいカトリーヌ・ドヌーブとフランソワーズ・ドレアックの姉妹も当然吹き替えである・・・らしい。でもなんとなく、なんとなくだがそれがどうしたという部分もある。映画はそうした点に目をつぶっても余りあるものがあるから。
山田宏一のドゥミへのインタビューには他にも興味深い話が沢山ある。例えば主役のドヌーブとドレアックの双子役は当初はブリジット・バルドーとオードリ・ヘップバーンで企画されたのだとか。バルドーは了承したのだが、最終的にヘップバーンが断ってきて企画がつぶれたのだという。バルドー、ヘップバーンの共演作というのも観たかったような気もしないでもない。でもたぶんこの顔合わせは当時的には話題性があり、興行的にはアリだったかもしれないけれど、映画としてはたぶんある種鉄板で失敗だっただろうなと思う部分もある。バルドーとヘップバーンが双子の歌を歌うシーン、あまり想像したくないものな。

Michel Legrand 映画「ロシュフォールの恋人たち」 双生児姉妹の歌 Chanson De Jumelles

Michel Legrand 映画「ロシュフォールの恋人たち」 Les Demoiselles de Rochefort