小沢発言に一言だけ物申す

例の福田、小沢党首会談に続く大連立構想、その挫折と小沢の党首辞任記者会見、さらに引き止め工作と辞任撤回。なんとなく大山鳴動したけど、たいしたこともなく元の鞘におさまったという感だ。
ただし民主党参院選以降の上り調子から一気に失速した感がある。実際その通りだろう。16日金曜日の朝日朝刊に小沢代表へのロングインタビューが掲載されていた。発言内容は、大連立のために動いた自らの政治判断を終始一貫肯定するものだった。

−大連立の狙いは
首相は連立なら特措法さえも譲って構わない、憲法解釈も百八十度転換しても構わないと、そこまで言い切った。農業政策、年金、子育て、高速道路無料化など、我々の目玉政策ものむかもしれない。画期的なものが民主党の主張で実現できれば、選挙に絶対有利だ。だが、みんなどうせ実現できないと思っていて民主党議員でさえそんな気がある。それは権力を知らないからだ。僕は権力をとれば簡単にできることを知っている。
−一連の経過の総括と今後の政権戦略は。
政治判断は今でも正しいと思っている。選挙で勝てる最大の方策だ。だが、みんながそれを望まないというんだから、その方法は捨てる以外ない。残念だけど。もう選挙で勝つ以外ないさ。特別なことは何もない。

首尾一貫して政局中心に動く小沢一郎の面目躍如たる発言オンパレードだ。そして彼の政治家としての最大の長所でもある冷徹なマキアベリストとしての一面も吐露されていると感じた。権力をとれば政策実現は簡単にできる。そのためには手段を選ばず、そのための政局を作り出していく。それが彼の政治哲学なのかもしれない。
大連立にいたる政治判断に誤りはなかったとする彼の発言は、ある意味では単なる強がりなのかもしれない。しかしだ、それ以前に小沢は政策中心に政権選択選挙を目的とした二大政党制を模索していたのではないか。参院選で彼が国民に訴えかけたのは、二大政党制にもとずく政権交代だったのではないか。
参院選の勝利により与野党が逆転したねじれ国会、そうした政局ができあがったために、ねじれ解消のために大連立という答えが生み出されたという。しかしだ、それは参院選にあっては一度も論じられることのない答えだったということ。それが実は問題なのだ。
政治家は、あるいは政党は選挙において、政策を打ち出し、国民に対して公約を訴えかけていくのだ。そのうえで審判を仰ぐのだ。選挙において一切掲げていない政策をいきなりはじめたならばそれは公約違反であり、政治における原則的な部分でのルール違反なのだ。
政局を中心に政治行動する政治家小沢一郎にあっては、選挙と公約、あるいは政策中心の選挙というものに対する意識があまりに希薄だ。それが今回の大連立構想なのだろう。
参院選与野党逆転が成されれば、現在のようなねじれ国会は容易に想像しえた事柄だ。だのに参院選が終わってから、与党の首脳からも、民主党の幹部連からも一度としてこの大連立の構想が打ち出されたことはなかったではないか。政局を作り出す動きは秘密裏に行うのが鉄則なのかもしれない。しかしそれは民主政治では実はないのではないかと思う。
ねじれ国会の解消は実は簡単なことなのである。国会を解散し総選挙を行えばいいのだ。そのうえで二大政党制による初の政権交代が行われるのかどうか、あるいは国民のバランス感覚は参院選で勝たせた民主党から、総選挙では一転して自民党に票を入れるかもしれない。そうなればねじれ国会はこれから六年間続いていくのだ。もしそれが国民の選択したものであれば、そうしたねじれ国会の中で対話と妥協を繰り返しながら政策実現をしていく、それが2007年以後の政治体制ということではないかと思う。
いずれにしろだ、まず選挙で政策を訴える。政治体制は政局から作り出すのではなく、最初に選挙ありき。そういう政治家が増えないことには、どうにもこうにもというのが率直な感想だ。小沢一郎のようなタイプの政治家は、そろそろ退場してもらうべきなのかもしれない。ただしそれは小沢一郎ただ一人の問題ではなく、小沢的タイプの政局中心の政治家ということだ。おそらく自民党の半数以上の政治家、同時に民主党の半数くらいはそうしたタイプなのかもしれない。
最後に今回の大連立構想では小沢一郎のみがクローズアップされているけれど、もう一人の主役であるべき福田総理が妙に影が薄いのが気になるところだ。本来であれば小沢にばかり集中する批判の半分は福田総理に投げかけられるべきものだとも思うのだがどうだろう。