妻失職する

昨日はまず午前中に国際医療センターに行った。前日、自宅に留守電が入り受診状況等証明書ができたと連絡があった。これで障害者者厚生年金に必要な書類がすべて揃うことになる。ということで、都内に出る用件を一度にかたずけるために、国際医療センター〜妻の会社〜千代田区社会保険事務所というコースをたてる。
妻は今日17日付けで退職となる。社員証や健保のカードなど返還するものもある。妻は最後に一度挨拶に行きたいとも行っていた。それで国際医療センターの書類が出来たら、取りに行くついでに会社にもよるということにしていた。ただし医療センターのB医師の書類処理の遅さを知っているだけに、いつになることやらという感じで、たぶん退職期日を過ぎてからということになるのではと思っていた。だから、木曜に書類ができたということで退職日の前日に挨拶に行けてよかったとは思う。
国際医療センターでは文書課に行き書類の有無を確認した後、次に会計課で文書代の支払いをすませ、領収書をもって再び文書課へという手順になる。手渡された書類の記入項目は合計文字で50字もない簡潔なもの。

氏名
傷病名
発病年月日
傷病の原因又は誘因
発病から初診までの経過
初診年月日
終診年月日
終診時の転帰(治癒・転医・中止)
初診より終診までの治療内容および経過の概要
医療機関の名称・所在地・医師の氏名

B51枚に上記印刷されていてそれに記入するだけ。それに二週間もかかるのだから嫌になってしまう。もっと詳細に記入項目がある診断書を2枚、国リハで作ってもらったのだけど、金曜日に依頼して、月曜日には出来ていた。いや作っていただいたというべきかな。それからするといかに国際医療センターの先生がお忙しいかということを思うわけだ。
まあ愚痴はもうよそう。多分国際医療センターに通院することはおそらくないだろうし、ある意味この病院に連れ込まれていなければ、妻の命はなかったかもしれない。命の恩人的な病院なのだから。そして医師もとても熱心だったし、看護師も親切で適切な対応をしていただいた。7時までの見舞い時間なのにウィークデイで仕事終えてから出向くことも多く、9時近くにやってくることもざらだったけど、注意されることもなかった。基本的には良い病院だったと思っている。妻はたぶんこの病院だったからこそ命を長らえることができたんだと思うわけだ。
行の道のりは目白通りが街路樹の剪定による大渋滞だったので、環八へ出て高井戸から高速に乗るなど試行錯誤してしまったので、医療センターへ着くのにも大分時間がかかってしまった。そのため午前中にアポをとっていた会社へ行くのを午後にしてもらった。
会社では、まあ通り一遍な挨拶。まず担当重役と直属上司と面談して次に各職場を挨拶して回った。そのへんは10月に訪れた時と基本的には一緒だった。今回は一応最後ということで、立ち話ではあったけど社長とも短時間挨拶できた。
みんな表面上は残念がっていたけれど、会社的には妻はもうある意味過去の人という感じだ。二年の休業期間とはいえ、会社は常に続いているわけで、妻の抜けた穴はとっくに誰かが埋めているのである。ローラ・ニーロの名曲「and when I die」じゃないど、「私が死んでいなくなっても、子どもたちは産まれる。世界は回り続けている」わけなのである。
話はかなり飛躍するが、文化庁長官をされていた河合準雄氏が今年亡くなった。一年以上者間、脳梗塞で意識不明な状態が続いた上での死だった。ユング精神分析学の権威であり、学際的にたいへんな活躍をされた方だったのに、その死について報道や反響は意外なほど小さかった。たくさんの著作を出していた出版社によっては、重版をかけたものも少なくないようだが、本の動きは鈍かった。河合氏にしても一年の闘病は長すぎたというか、すでに社会的には喪われてしまった方でもあったわけだ。
日々動いている企業社会の中で二年は長い。ある部分、妻は確実に過去の人であったわけだ。もし妻が健常者として復帰するとしても、二年のブランクは大きい。相当な業務的リハビリが必要なわけで、果たしてそれを企業が許容するかというと、実は大いにクエッションなわけである。そこにもってきて妻は障害者として復帰するということだったわけで、やっぱりだよ今回の選択、退職という選択は現実的レベルでは間違っていないのだろうとは思った。
でも、それが所詮現実だとしても、本来的な意味でそれが妥当なのかどうかということになると、やっぱりそれは違うと思う。現実のビジネス社会のシビアさと別に、障害者がどうしたら社会参加していくべきか、それを社会が、企業がどうサポートしていくべきかという問題は取り残されたままなのである。
どんな問題にも最初に障壁となる部分、障害者をめぐる社会的なインフラ整備が圧倒的に遅れているということ、そして受け入れる側の社会の意識もまだまだなのである。一方では不況で自らの就業すらが安定していない多くの人々がいる。そうした人々にとって、障害者という社会的弱者への眼差しなどはたぶん余裕がないということなのだろう。大企業を中心にした景気回復動向がある。テレビ等でも喧伝されるセレブという富裕層も存在する。それでいて社会的な公平性、最低限の生存のための平等性は市場原理のもとにないがしろにされつるあり、それがもっともらしく肯定化されているのだ。
妻はある意味発病から数ヶ月で、あるいは一種一級障害者として認定された時点、つまりはもう健常者として働けそうにないと認定された時点で、すでに職場から失職していたのだと思う。企業的には死者として、いやその言葉が不適切だとすれば、企業的にはとっくの昔に退社した人が挨拶に来たということ、それが妻的には会社的にも一応の儀式として行われたということだったんだろうと思う。